来るべき虚無の世界で
まろえ788才
Bフラットマイナー
結婚したくない。
就職したくない。
結婚したくない。
大事なことなので、たぶん二回言った。
一生、本を読んでギターを弾いて暮らしたい。
それが私の最優先事項だった。
今の世界では、そういう希望はわりと許されている。
働かなくても電気は止まらないし、
結婚しなくても生活の機能に支障は出ない。
私は来るべき虚無の世界に備えている。
本を読み、ギターを弾く理由を、
まだ最適化していない。
電気がどうやって来ているのかは、正直よく知らない。
蒸気とか、歯車とか、そういうものと同じ時代の技術だと思っている。
昔の人が発明して、うまく回るようになって、
あとは誰かがずっと管理している。
明かりがつく。
それ以上のことは、考えない。
美味しいものを食べたい。
かわいい車に乗りたい。
清潔な家に住みたい。
そのくらいの欲望は、誰にでもある。
私にもある。
配給の通知で、自分の希望が通ったと分かる瞬間の多幸感。
先月はモロッコ風チーズフレーバーだった。
今月の初めに出した希望には、迷った挙句、チーズ系ならなんでも、とだけ書いた。
案外そういうのが通りやすいと、ネットで誰かが言っていた。
そんな自由すら無くなる時代が、きっと来る。
だから私は備える。
ギターを膝に乗せて、Cの和音を鳴らしてみる。
Aマイナーセブンに移行すると綺麗なのだけど、
私はあえてFからBフラットに動かし、
そしてBフラットマイナーで止めた。
今日は、あまり調子がよくない気がする。
指先の振動が、少しだけうるさい。
私の所有するスマート端末が何か言っている。
たぶん、演奏の正確性についてだ。
寝不足のせいにしておく。
私の車は今でも十分かわいいけど、
これも虚無の未来人からすると贅沢品だろう。
ふんわりした一人がけの椅子に、透明フレームを採用した、シンプルな直方体。
たぶん電気で動いている。
蒸気じゃないことは分かる。
煙が出ないから。
色だけが選べるので、私は淡い青を選んだ。
理由はない。
理由がないことは、悪いことじゃない。
実のところ、
私の家はすでに十分に清潔さが保たれている。
空気の汚染度が基準値以下に保たれているから。
数字で表示される。
私はその数字が好きだ。
意味は分からないけれど、
正常かどうかは、一目で分かる。
窓の外を見ると、空は今日も灰色だ。
でもそれは天気が悪いわけじゃない。
数値が安定している色らしい。
私はその色を、わりと信用している。
紙の本は、もう作られていない。
ギターも、同じ頃に終わったと聞いた。
私のギターには、木の匂いはほとんど残っていなくて、
弦も本来の材質とは違うらしい。
どうして弦を張る必要があるのか、
なぜ木である必要があったのか、
誰も教えてくれなかった。
それでも、指を置くと音は出る。
それ以上のことは、私は知らない。
私はそれを、少し不便だと思っている。
でも、困ってはいない。
困るほど、詳しくない。
電気と蒸気の違いを知らなくても、
生活は続く。
だから私は、何も失っていない。
そう思っている。
最近は、古い解剖学の入門書を読んでいる。
電子で読むにはつまらないけれど、
紙をめくると、不思議と血が通った生々しさを感じる。
架空の生き物の設定資料みたいで、眠くならない。
昔の人は、どうしてこんな設定を考えたんだろう。
生き物を、わざわざ壊れやすく作りすぎだと思う。
その本を読み終えた日の夜、
私のかわいい車が、
予定と違う動きをした。
私は避けようとして、
右足に、強い衝撃を受けた。
熱い。
いや、冷たい。
どちらだったか、よく分からない。
何かが砕ける音がして、
足の先から付け根までが、
急に自分のものじゃなくなった。
地面に座り込むと、
足の下に濡れた跡が広がっていくのが見えた。
ああ、これはたぶん、よくないやつだ。
そう思ったところで、意識が途切れた。
次に目を覚ましたのは、天井の低い白い部屋だった。
医師は、落ち着いた声で言った。
「損傷は右脚だけです。不幸中の幸いですね」
私は安心しかけて、
「歩けなくなるんですか」と聞いた。
医師は首を振った。
「いえ。全交換です。ただ――」
少しだけ、間が空いた。
「あなたは旧式でして。
今、メーカーに在庫がありません。
生産ライン自体が、もう止まっている世代なんです」
在庫、という言葉が、
私の中でうまく噛み合わなかった。
「取り寄せに、6ヶ月ほどかかります。
それまでは、その右足は重りですね」
私は現実を拒むように、
医師に質問を投げかけた。
「あの、先生は、
どうして今の仕事を選んだんですか?」
医師は不躾な質問に全く動じる様子もなく、診断パネルを眺めたまま答えた。
「それはあなた、語り口が少しおかしいですよ。
これは私が選んだ仕事ではないのです。
人間には、必要なことだったのでしょう」
それ以上は何も聞けなかった。
家に戻り、いつもの椅子に座る。
右足は、言うことを聞かない。
私の車も、
私に衝突したせいで壊れてしまった。
ギターを持つ。
視界の端で、何かが赤く点滅している気がするけれど、
きっと動悸というやつだ。
弦を弾く。
音は、ちゃんと鳴らない。
6ヶ月。
半年。
新しい足が来れば、
私はまた元通りになるらしい。
だから、この耐え難い不自由は、
きっと一時的なものだ。
そう思いながら、
私はもう一度だけ弦を弾く。
Bフラットマイナーの続き。
私はすぐにFメジャーセブンで終わらせた。
……ただ、
本をめくるときの音と、
今のこの音が、
どんな仕組みで鳴っているのかだけは、
まだ、うまく説明できない。
来るべき虚無の世界で まろえ788才 @maroee788
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