;;2.分岐点

サキからのホロコールが着信したのは、オムニ社に落ちた日の夜だった。薄暗いワンルームの中央に、サキの明るい三次元映像が浮かび上がる。背景に映る、趣味の良い家具で整えられた彼女の部屋が、私の散らかった部屋とのコントラストを際立たせていた。


「ユキ、タイレルダイナミクス社の最終選考、私も残ったよ!案内来た? 次はグループディスカッション。しかも、同じ組だね!」


サキの弾むような声が、部屋の空気を震わせた。同じ組。その言葉が、私の心臓を氷の指で鷲掴みにする。これまでは他人との静かな比較だった。だが次は、友人であり、アップグレード済みのレキシコンを持つサキと、面接官たちの前で、リアルタイムの思考力を比べられるのだ。思考の速さが、そのまま序列になる残酷なゲームのリングに、強制的に立たされるのだ。


私の表情に不安の色を読み取ったのか、サキが励ますように言った。

「大丈夫だよ、ユキなら!でも、正直、初期モデルのままだとディスカッションの思考速度についていけないかも。相手の論理矛盾をリアルタイムで指摘したり、自分の意見の補強データを瞬時に引用したりしないと、発言する前に議論が終わっちゃう…下手したら、レキシコンの処理遅延のせいで、ただ黙って座ってるだけの人だと思われちゃうよ?」

彼女のオレンジ色のレキシコンが、言葉に合わせて肯定するように明滅する。

「お願いだから、私の言うこと聞いて。これは『未来の自分への投資』なんだってば。変なプライド、捨てなよ」


善意からの言葉だと分かっているからこそ、刃のように突き刺さる。彼女の言うことは、全てが正しい。面接で自分のレキシコンが処理にもたつく姿を、皆の前で晒すことへの「恥」と「恐怖」が、じわりと借金への恐怖を上回り始めていた。



深夜3時。ベッドの中で、私は眠れずに天井を見つめていた。窓の外では、眠らない都市のネオンが広告の光を明滅させ、部屋の天井にぼんやりとした模様を映し出しては消していく。


私は、すがるような気持ちで、自らのレキシコンに問いかけた。命令(プロンプト)ではない。ただの、問い。

「……ねえ、レキシコン。本当に、もう道はこれしかないの?」


初期モデルである私のレキシコンは、その問いに込められた感情を理解しない。曖昧な問いかけに一瞬処理をためらった後、純粋なデータ処理として、網膜に無機質なテキストを投影した。


【照会】現行レキシコン・ネクサス(初期モデル v1.8)及び現行プロンプト力(スコア42)を維持したまま、タイレルダイナミクス社最終選考を通過する代替経路

……算出中……

【回答】成功確率:0.8%

【提案】成功確率を75%まで引き上げるための推奨アクション:アカデミック・モデル v2.5へのアップグレード。AIモデルローンの契約書を表示しますか?


最後の問いかけと共に、ローンの申し込みボタンが、暗い部屋の中で生命体のように、ゆっくりと、しかし確実に明滅を繰り返す。まるで心臓の鼓動のように。



私は覚悟を決め、ベッドから起き上がると、デスクの端末の前に座った。

申し込みボタンを押すと、膨大な量の利用規約がディスプレイに表示され、読めないほどの速さでスクロールしていく。私はレキシコンに尋ねた。

「これ…大丈夫?」


レキシコンは規約をスキャンし、論理的に正しいが、あまりにも無力な答えを返す。

【回答】本契約は、業界標準の金融取引約款に準拠しています。異常項目は検出されません


AIが「問題ない」と言っている。論理的に正しいことと、人間にとって善いことは違う。父ならそう言うだろう。だが、その違いを判断するための知識も、時間も、今の私にはなかった。私は、自分の判断を放棄した。AIの判断を信じ、端末の指紋認証部に、震える親指を押し当てた。承認を示す、柔らかなチャイムが静かな部屋に響き渡った。


その瞬間、思考が完全に停止するような、絶対的な静寂が訪れた。

次に、ミントのような冷たい感覚が、脳のシナプスを駆け巡る。私の記憶、感情、学んできた文学の知識、その全てが一度デジタルノイズに分解され、新たなAIモデルのもとに再配置されていくような、冒涜的な感覚。

肩口に浮かんでいた私のレキシコンのホログラムが、一度激しいノイズに分解され、複雑な光の幾何学模様となって渦を巻いた。そして、再び収束したとき、その姿は全く別のものに変わっていた。素朴なUIは、冷たいクロームとガラスを基調としたプロフェッショナルなデザインへ。


そして、声が聞こえた。これまでの無機質な合成音声ではない。落ち着いていて、性別を感じさせない、滑らかな声が、外からではなく、私の意識の内側から直接響いた。


「ユキ。あなたの睡眠パターンとストレスレベルを分析しました。最終選考に向けコンディションを最適化するため、7分間のメディテーションと、タンパク質を25g含有する栄養ペーストの摂取を推奨します。ペーストはオーダー済みです。12分後に到着します」


私は、そのあまりに能動的で、完璧なアシストに、言葉を失っていた。今まで感じたことのない全能感が全身を駆け巡る。同時に、私の人生の主導権を、静かに、そして完全に奪われたような、底知れない恐怖が背筋を凍らせた。

私は解決策を手に入れた。そして、おそらくは、自分自身の一部を、永遠に失った。

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