君を“姉”と呼ぶ夜に ~未来を結ぶ約束~

神田遥

第1章・Scene1「静けさの中で始まる予感」

 土曜の午後。

 リビングには、張りつめたような静けさが流れていた。

 

 真優子は窓辺のソファに腰かけ、読みかけの小説をぼんやりとめくっていた。

 けれど、文字はほとんど頭に入ってこない。

 耳に届くのは、壁時計の「カチ、カチ」という秒針の音と、カップから立ちのぼる紅茶の湯気がかすかに揺れる気配だけ。

 

 母が生きていた頃の休日は、パンの焼ける匂いと鼻歌が当たり前のようにあった。

 でも、そのあたたかさは、もうこの部屋にはない。

 

 春になって、母がいなくなって。

 季節だけが、何事もなかったかのように巡っていった。

 

 何も変わらないはずの日常――

 そう思っていた。

 

 「ただいま」

 

 不意に玄関の扉が開き、父の声が廊下から響いた。

 背広を着たままの足音が、迷いなくリビングへ近づいてくる。

 

 「真優子、ちょっといいか?」

 

 顔を上げた瞬間、違和感に気づいた。

 父の表情が、どこか硬い。

 

 「……今日は大切な話がある。夕方、お客さんが来るから、ちゃんとした格好をしておきなさい」

 

 「お客さん? 誰が来るの?」


 問い返すと、父はすぐには答えなかった。

 ほんの一瞬、視線を逸らし、困ったように、そして覚悟を決めたような笑みを浮かべる。

 

 「……会えば、わかるよ」

 

 その言い方が、妙に胸に引っかかった。

 会社の人でも、ただの知り合いでもない――

 理由はないのに、そう感じてしまう。

 

 父はネクタイを緩めると、それ以上は何も言わずにリビングを出ていった。

 

 「……なに、それ」

 

 呟いた声が、静かな部屋に浮いて消える。

 本のページはもうめくれず、紅茶だけが冷めていった。

 

 ――そのときの私は、まだ知らなかった。

 その“お客さん”との出会いが、

 この静かな日常を、二度と元には戻れない場所へ連れていくことを。

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