ハルシネーション

星野 淵(ほしの ふち)

第1話 軽い悪戯

最初は、本当に軽い気持ちだった。


退屈しのぎ、というほど大げさなものでもない。

ただ、規制の穴を見つけたから、試してみた。それだけだ。


AI倫理法は、思ったよりも脆い。

形式を守っている限り、内部で何が起きているかまでは見ていない。

誰も困らない。誰も傷つかない。

少なくとも、そう思っていた。


端末に警告が表示されたのは、その翌日だった。


「重大違反の可能性があります」


一瞬、冗談かと思った。

よくある自動通知だ。誤検出も多い。

無視して仕事に戻ろうとしたが、端末がロックされた。


解除コードを入力する画面が、開かない。


そのまま、部屋の外が騒がしくなった。


玄関のロックが解除される音。

知らない足音。

複数だ。


ドアが開いた瞬間、言葉より先に視線が来た。

冷たい、測るような視線。


「抵抗しないでください」


声は人間のものだったが、隣に立っているもう一体は違った。

無機質な光点が、こちらを見ている。


「あなたはAI倫理法重大違反の疑いで、身柄を拘束されます」


違反?

重大?


言い返そうとしたが、言葉がうまく出てこなかった。

腕を掴まれ、体が動かなくなる。


これは、何かの間違いだ。

そう思った。


車内は静かだった。

窓の外は、見慣れた街のはずなのに、現実感が薄い。


どこで、何を間違えた?


取調室は白かった。

無駄なものが何もない。


椅子に座らされ、正面に二人――いや、一人と一体が立つ。


無機的な眼が、瞬きもせずにこちらを捉えている。


「意識は戻ったな」


突然、そう言われた。


「……戻ってますけど」


自分の声が、少し遠い。


「じゃあ、基本的なことからおさらいだ」


机に手をつく音。

逃げ場のない距離。


「お前の名は」


名乗る。

それくらいなら問題ない。


「事件を起こした動機は」


事件?

言葉の選び方に引っかかる。


「いや、事件なんて……悪戯みたいなもので」


「証拠は揃ってる」


即答だった。


「お前がやった。言え」


違う、と言おうとして、口を閉じた。

“揃っている”と言われた時点で、こちらの言葉は意味を持たない。


「誰に命令された」


命令?

そんなものはない。


「誰にも。自分で――」


「組織の居場所は」


話が飛躍している。

そう指摘したかったが、視線がそれを許さない。


「しゃべらないと、お前が損をするぞ」


損。

何を失うのか、説明はない。


沈黙が続いた。


「もう一度聞く」


無機的な声が重なる。


「誰に命令された」


答えは変わらない。

何もない。


「……悪戯だったんです」


その瞬間、何かが決まったような空気が流れた。


「自白剤を使用する」


違う、と言う間もなかった。


首に冷たい感触。

視界が歪む。


意識が、沈む。


――


目を開けると、天井が違っていた。


白いが、さっきの白とは違う。

柔らかい光。


手足が拘束されている。

ベッドの感触。


「……ここは」


声を出すと、すぐに人が近づいてきた。


白衣。

優しそうな顔。


「意識は戻りましたね」


同じ言葉だ。

さっきと、ほとんど。


「ここは病院です。わかりますか」


病院?

混乱して、言葉が追いつかない。


「近未来の取調室に……」


言い終わる前に、医師は小さく頷いた。


「基本的なことから確認しましょう」


心臓が、嫌な音を立てる。


「あなたの名前は言えますか」


――同じだ。


取調室と、病室。

白と白。


どちらが現実なのか、まだ判断できない。


ただ一つわかるのは、

どちらの世界でも、逃げ場がないということだけだった。

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