第3話 逆風

 おばあちゃんのおかげで、ほんの少しだけ心が軽くなった気がした。けれど週明け、その気持ちはすぐに現実に引き戻された。

「なあ、藍川って、なんかいつもくれーよな」

「マジで負のオーラ出てるぜ」

 男子たちの笑い声が、教室の端からじわじわと広がっていく。

 数人だけが笑っているのに、その場の空気がクラス中へと伝染し、どんどん冷えていった。

 わたしはその男子を避けるように黒板に視線を向け、何も言わなかった。

「夏希ちゃん、気にすることないよ。あいつらただのガキだから」

 花音ちゃんと仲が良かった咲ちゃんが声をかけてくれた。

「うん、ありがとう」と返したものの、胸の奥のモヤモヤは消えなかった。


 男子のからかいは午後も続いた。

「おーい、聞こえてんのかよ。なんか機嫌悪い? うち、お前ん家の果物買ってるオトクイサマだぜ、話ぐらい聞けよな」

 その言葉に、肩がぴくりと動いた。

 最悪。何で、そんなこと言うの。うちのお店とわたし、どう関係があるっていうの。

 自営業の生まれだから、多少の噂やからかいは全くないってことはない。でも、小6になってまで、子どもじみたことを言われるなんて思いもしなかった。


 給食後の昼休み。男子がまた思い出したかのように絡んできた。

「藍川~。いつも目、死んでるぜ。おまえんちでも売ってるけど、目にはブルーベリーが良いらしいぜ!」

 アハハとたちの悪い笑い声が響いた。

 我慢できずにその男子を睨んだ。

「あいてしちゃ、ダメ。っもう、花音ちゃんがいればあんなやつら一発なのに」

 咲ちゃんがそう言って肩をすくめた。わたしも大きく息を吸い、苦笑いを返した。

「うん、そうだね」


 帰り道、からかわれた出来事が頭の中をぐるぐる回った。

 今までは、こんなことなかった。去年までは、花音ちゃんもわたしもこんなひどいことをされてなかった。

 じゃあ、なんで今・・・?もしかして、花音ちゃんが別クラスになったから、わたしが標的になったのかな、って。


 幼稚園の頃からの親友、花音ちゃん。

 友達も多くて、スマホも流行も、何でも詳しい。

 だから、ずっと一緒にいたかった幼馴染。

 だけど、なぜかスマホをもらった日、花音ちゃんをLINEにすぐ登録しなかった。なんとなくだった。何でなのか、自分でも理由がよく分からなかった。

 でも、おばあちゃんの言葉が、それを説明してくれたのかもしれない。


――「いまは準備の時期なのじゃ。何をしても結果が出ず、苦しいと感じるのが普通。受け入れるしかないんじゃよ。」

――「がんばりが徐々に形となって現れて、新しいなつきに出会えるじゃろう。」


 花音ちゃんに頼っていたら、わたしは甘えてダメなままだったのかもしれない。

 新しい自分になるために、花音ちゃんは自然と離れていったのかもしれない。

 でも・・・今日だって、目を閉じても、あの瞬間が頭から離れない。

 はぁっと長いため息をついた。

「来年までだなんて、絶対無理だよ」そう心の中でつぶやいた。


 おばあちゃん・・・本当に“受け入れるしかない”の?

 夏希は立ち止まり、ランドセルに括りつけたスマホを両手で握った。だが、画面を見つめるだけで一度もタップすることはなかった。

 

 男子のからかいは定期的に繰り返されていた。

 しかも今度は、お父さんの存在までが“ネタ”になっていた。お父さんは地元の少年野球の監督をやっていて、男子の何人かは教え子だった。

 お父さんはよく口癖で「気合い入れろ!」と言うけど、反対にわたしが気合いゼロなのを面白がっていた。

 それを見て、やりすぎだとわたしの代わりに担任に話してくれた子がいた。けれど効果はゼロ。

 だって担任は石川先生だから、予想はついていた。算数とコンピュータが専門の男性教員で、生徒の相談に乗るなんて全然しないって有名。

 みんなが慕う青木先生とは、全然違った。仕事として先生をやっている感じが強くて、人気もなかった。

 クラス替え、男子のからかい、苦手な担任。

 何もかも、わたしには都合が悪い。

 おばあちゃんは「受け入れるしかない」って言ったけど、耐えられそうにない。

 むしろ、ダメージがどんどん蓄積していくのが自分でも分かる。


 だから学校のことを忘れようと、帰宅したらタブレットで野球を観る日々。

 大好きな野球だけが、嫌なことを忘れさせてくれた。時間も流れてくれて、無気力なわたしには救いだった。

 でも、レオネスの調子もずっと悪かった。開幕から最下位を続けているのは、初めての経験だった。監督が6月に退任して新監督になったけど、結果は変わらなかった。

 それにホームで勝ったとしても、ヒーローインタビューまで観る気になれなかった。

 ヒーローに選ばれた選手を見て、どうしてもまこっちゃんを重ねてしまう。そして、隣に立つインタビュアーの姿に“あのころのわたし”が映る――そんな想像を何度もした。


 あの日が来るまで、わたしはまこっちゃんとの壮大な夢を何本も立てていた。

 完勝、接戦、0対0で延長、サヨナラ勝ち――。

 そのどれでも“勝利投手まこっちゃん”が映っていて、質問を投げかけるのはわたし。

 お気に入りはヒーローインタビュー中に、まこっちゃんが勝利ボールをわたしに差し出してくれるの。その度にドキドキして、顔が赤くなった。


 その恥ずかしいくらい好きだった想い。

 でも、もうまこっちゃんの夢は叶わないし・・・わたしの夢も叶わない。

 チャレンジの前に結果が出てしまった――ううん、チャレンジ1歩目、1回表で終わってしまったんだ。


 いま思い返せば、まこっちゃんとの日々はすごく貴重で幸せだったんだなって思う。――とても、幸せだった。

 だから、正反対のこの苦しさが身体に染み込んでわたしの全ての奪っていく。


 6年生の夏が終わり、レオネスが最下位を確定させた翌日。

 苦手な石川先生と、お母さんとの三者面談があった。

 うちの周りは田んぼばっかりの田舎でのんびりしている。それでも、中学生になったら将来を考える時期、って先生は言っていた。

 将来やりたいことは前はあったけど、それはお母さん、お父さんにも言ってないこと。

 まこっちゃんのことを知っているから話してもいいけど、話したところで可哀そうな目を向けられるのはわかってる。そんなの誰も嬉しくないよ。

 結局、面談では将来のことは何も考えていないと答えた。

 

「将来、やりたいことはまだ決まっていません。考えてみたけど、思いつかなくて」

「そうか。何か趣味や興味あることで仕事にしてみたいっていうのでもいいんだぞ」

 石川先生は表情ひとつ変えずに言った。慣れてるなぁ、って思った。やっぱり、仕事として先生をやってる感じがする。

「・・・」

「なつき、あなた野球好きでしょ。何か夢はないの?」

 ーー野球!

 まるで刃物で切られたように胸が痛んだ。一番触れて欲しくない言葉だったのに、昨日あれほど言ったのに。

 どうして、お母さんはわたしのこと、全然わかってくれないの?

 反射的に、きつい言葉が口をついて出た。

「野球で夢なんてあるわけないでしょ!」

「なつき・・・」

 親子のやり取りに石川先生はさほど取り乱さずに一つ咳ばらいをして、会話を繋げた。

「まぁまぁ、お母さん。まだ決まっていないお子さんも多いですよ。だから将来、なりたいお仕事を見つけたときのために、中学は勉強を頑張っていきましょう」

「はい・・・勉強、がんばります」

 いつものように、表面だけの言葉を返した。


 帰り道、お母さんの運転する配達車の中で、わたしはさっき反射的に出てしまった言葉をだまって考えていた。

 お母さんも無言で運転してて、気にしていないのか、ただ単に触れないでいるのかわからなかった。

 車内にはラジオの音だけが響いていた。雑音交じりの音質の中、柔らかい調子の女性パーソナリティーが曲紹介をしている。

 きついことをつい言ってしまうことは今までも何回かあった。

 そのたびに哀れみをかけた顔をされ、頭から離れなくなる。

 わたしだって、いまのままで良いなんて思っていない。だけど、もう一歩踏み外したらわたしの嫌な部分100%を本気でぶつけてしまう。そのくらいギリギリ耐えている。

 もし、本当にわたしが壊れてしまったら、まこっちゃんが好きだったわたしなんて、もうどこにもいないだろうね。

 もう二度と会えないけれど、まこっちゃんにだけは嫌われたくない。

 そして、自分のことを嫌いになりたくなんてない。

 自分が好きだったころのわたし。ほんの数年前のわたし。

 にごりのない純粋だったあの頃の自分。

 悩みなんてなくて、いっつも笑っていたあの小さいころの自分。

 彩を失ってしまった今だからこそ、気づいたんだ。

 その純粋さ――その大切さを。それを知れたのに、黒く塗り替えられて、なんとなく大人になっていく未来が怖かった。

 そんな大人は、おばあちゃんが言ってた“新しいわたし”なんかじゃない。そうだと信じたい。

 たとえ、こんなボロボロだとしても、いまはまだ正しいんだと信じたい。


 ラジオから流れてくるのは、英語の歌詞でどこか幼さを感じる女性シンガーの曲だった。そのせいか、なんとなくプロっぽい感じがしなかった。


 believe in you ーー歌詞の一部だけが、かすかに聞きとれた。

 英語の歌は学校で習っている英語とはまるで違った。独特で難しくて、特にテンポが一定じゃないから、どこまでが一文か分からず、聞き取れない。

 だけど、雑音交じりの中、ほかにも「dream」「magic」「miracle」という単語が聞き取れた。

 その単語と曲調をあわせて考えると、なんとなく“希望に満ちた歌”なんだろうな、って思った。

 そんな歌が、将来の希望を失ったわたしとは真逆にいて、少し可笑しかった。


 そして曲が終わり、次の曲を紹介する女性パーソナリティーの綺麗な声がこんなことを思わせた。

 ーー歌っていたのは、いったいどんな人だったんだろう。何歳くらいの人だったんだろう。

 その時、目を閉じて自然に浮かんできたのは、あの頃のわたしが少しだけ成長した姿だった。

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藍の軌跡 シャボン玉 @shabon_dama

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