夏の系譜

桐生 創

2023年 夏

プロローグ

 引っ越し作業が一段落を得たのは、業者による家財搬入の翌日昼過ぎだった。部屋の隅には畳まれた段ボールの束が積み上がり、運び込んだ物の多さを物語っている。荷物は減らそうということで随分と断捨離をしたつもりだったが、思い出になりそうなものはついつい段ボールに入れてしまい、結果この有り様である。


 顎から一滴の汗が床に落ちた。エアコンを送風モードにしているが、熱風が循環されるだけで気休めにもならない。窓を開け放っているので酷く暑い。


 高く昇った太陽が、今日もしつこくじりじりと熱波を振り撒いている。農作物が影響を受けるほどの猛暑日が連日続いていて、ニュースでも取り上げられていた。ここ最近の温暖化は深刻だ。夏に引っ越しをするもんじゃない。塩谷はそう痛感していた。


 ペットボトルの水を飲もうと思ったが、既にぬるくなっていたので冷蔵庫に放り込み、代わりに冷水ピッチャーを取り出した。コップに冷水を注ぎ、勢いよく飲み下す。食道を冷たい水が通り過ぎ、火照った身体の全細胞が喝采を上げた。大きく息を吐き、テーブルに手をつき、窓の外に視線を放った。窓の四角の先の空には、雲一つ浮かんでいない。


 新居は市営のマンションだ。築十年程度の、敷地内に公園があるような洒落た住宅である。二階建てのアパートが多い中で、この物件は頭一つ抜けて魅力的だった。構造は鉄筋コンクリート造で、防音性能にも長けているという。


 元々住んでいた住宅よりも広いのに、家賃はこちらの方が安い。それなりに貯えがあり、子だくさんというわけではないので生活がじり貧というほどではなかったが、家賃の支払いは毎月のことだし、光熱費やガソリン代の高騰もあるので、安いに越したことはない。


「ちょっとその辺を散歩してくる」


「そう。いってらっしゃい。私は買い物に行ってくるわね」


「それなら俺も一緒に行くよ。夕方でいいだろう。それまでゆっくり休めよ」


「そうね。分かった」


 塩谷は窓を閉めてからエアコンを冷房に切り替え、財布とスマートフォンをポケットに突っ込んだ。鏡を見ながら軽く髪を整え、クロックスをばたばたと履く。汗で胸元に張り付いたTシャツを剥がしながら鉄製の玄関ドアを開けると、湿度の高い空気が全身にまとわりついた。


 電子タバコの加熱ボタンを押しながら、マンションの階段を下りる。エレベーターもあったが、二階なので階段の方が手っ取り早かった。塩谷はせっかちなので、エレベーターを待つのが苦手だった。それで下層階を選んだようなところもある。


 敷地内には程よく植栽が配置され、清掃が行き届いていた。現に今も清掃員が通路の掃き掃除を実施している。何度か賃貸物件を移り住んだが、専門の清掃員がいるような住宅に住んだことはなかった。なんだか自分が偉くなったような錯覚に陥り、塩谷は一人苦笑いを浮かべた。


 愛煙家の肩身が狭くなってきたこのご時世だ。昼時だからか敷地内公園に子供の姿はなかったが、ここで電子タバコに口を付けるのは気が引けた。タバコは敷地を出るまで我慢することにした。


 マンションの前には大型のスーパーがある。数十台分の駐車場を擁しているようだが、これだけ近ければ車で来ることはなさそうだ。夕方の買い物は、ここで済ませれば良いだろう。


 昔小型スーパーだった店舗は、大手チェーンのコンビニに姿を変えていた。この大型スーパーを前にして、太刀打ちできなかった結果であるに違いない。


 暑かったが、多少風があるので不快な暑さではなかった。振動して加熱が完了したことを知らせてきた電子タバコを一吸いして煙を吐く。炭酸の飲み物が欲しくなった。


 駅の方に向かって歩くと、低層住宅が増えていく。自販機などはありそうもなかった。塩谷はゆっくりと、長閑のどかな風景を眺めながら歩いた。蝉の鳴き声が遠く聞こえる。


 目的の場所へ着く直前で、スマートフォンが振動した。画面には懐かしい名前があった。


『おい、ついに越して来たんだってな』


「ああ、昨日な。この時期の引越しはまあ大変だ」


『そうか。もう落ち着いたのか?』


「ぼちぼちかな。今散歩中だ」


『懐かしいか』


「懐かしいも何も、しょっちゅう来てるからな」


『近いうちに酒でも飲もう』


「今晩でもどうだ?」


『大丈夫なのか?』


「姉ちゃんがいるような店に行くわけじゃないんだからな。問題ないだろ」


『分かった。また後で連絡する。散歩を楽しんでくれ』


 昔竹藪だった場所はコンクリート舗装され、駐車場とマンションになっている。その並びにあった駄菓子屋も、綺麗さっぱりなくなっている。一年前にこの光景を目の当たりにした時は、心にぽっかり穴が開いたような物悲しさを感じずにはいられなかった。ここに駄菓子屋があったことなど、この辺りに住む子供たちは知らないだろう。


 塩谷は、かつて暮らしていた地に戻って来たのだった。埼玉から戻ったので、珍しい部類の人間といえる。いわゆるUターン組というやつだ。逆にIターンで都心方面へ移住した人間は多いことだろう。この辺りは、どう贔屓目ひいきめに見ても都心よりは不便である。雇用面でも、残念ながら充実しているとはいえなさそうだ。


 町並みは随分変わっていたが、随所に懐かしさは残存している。まず、空気の匂いが懐かしい。町には高低差があり、今塩谷がいるところは高台にあたる。駅の方面を見ると、町を見下ろすような格好だ。緑の量は、都心を大きく凌駕りょうがしている。


 電子タバコが振動した。最後の一吸いが紫煙に変わり、空中に霧散むさんする。どこまでも青く澄み渡る空を仰ぎながら、塩谷は瞳を閉じ、過去の記憶に意識を委ねた。

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夏の系譜 桐生 創 @fobfob

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