第4話

 ニコラスの意味深な笑みが気になって深い眠りにつけなかった。

 だからこそ些細な物音で目が覚めてしまい、燭台に火を点けて一階の様子を確かめに降りた。


「エイシロウか!?」


 ニコラスの声だ。暗くて判然としないけど、妙に焦った声色だ。


「わけは後で話す。俺はここに来てない。それで話を通せ」


 そう捲し立てて奥に行こうとするけど真っ暗闇だ。あちこちぶつかり物を引き倒し、しまいには壁に思いっきりぶつかって毒吐いていた。


「何してるんだよ。というか何があった?」


「いいから誤魔化せよ!」

 なおも足掻いている。

「そうだ! てめえ、自分の親が殺されたって知ってるか!?」


 両親が殺された。


 詳しい死因は聞かされていないけど、死体で見つかった時点でそうだろうと思っていた。でも驚くほどのことじゃない。この街に住む人間の三分の一は誰かに殺されて死ぬ。しかも借金までしてたんだ。至極当然の死に方だろう。


「無事に済んだら詳しく話してやる。だから──」


 ──光。視界が白く染まる。


 足音が事務所に入ってきた。ようやく事態を理解する。聞きなれない鈍い音が鳴った。それに混じって掠れた吐息が聞こえる。


「待て。例の奴だ」


 男の静かな声が響く。やっと強い光に目が慣れてきた。少しずつ目を開けると、事務所の入り口に複数人が立っていた。顔までは強い光のせいで判別できない。


「お前がエイシロウ。リントウ帝国のレーシングアカデミーに通っていた青年だな?」


 言葉から判断するにこの街を挟むもう一つの大国──ランズダウン帝国の人間か。


「誰だ?」


「お前の債権は私が貰った。場所を変えるから着いてこい」


 少しだけ状況が分かった。

 多分こいつらはランズダウン帝国の裏稼業──マフィアだ。ニコラスはこいつらから逃げてきたのか。ノミ屋の他の奴らも似たような状況だろう。


「着いてこいってどこに?」


「ボス。少しお時間を頂けますか?」


 別の男が足早に近づいてくる。腹に、つま先が食い込んだ。息が詰まる。痛みで膝を突いた。吐き気がじわじわとせりあがってくる。


「誰に舐めた口利いてんだてめえ!」


 息がし辛かった。吐くのはできても吸うのが難しい。鳩尾に奇麗な一撃を貰ったせいだ。狙ってできるもんじゃない。俺なんかより遥かに暴力に手慣れた連中だ。


 抵抗は無駄。俺は喉奥に感じた酸っぱいものを無理やり飲み込んだ。


「……分かりました。着いていきます」


「それでいいんだよ」


 そう言って俺を蹴った男は引き下がった。ボスと呼ばれた男が身を翻し、事務所を出ていく。俺は楽になってきた呼吸を整えて立ち上がり、ニコラスの存在を思い出して振り返った。


 串刺しになっていた。


 地面から飛び出した杭のようなものが、ニコラスの躰を貫いている。それも何本もの杭が躰を貫通し、一本は後頭部を突き砕いている。


 確認するまでもない。ニコラスは杭に貫かれて立ったまま死んでいた。


 神の加護だ。


 マフィアの中に神の加護を使える『巫覡』がいる。俺なんかが歯向かって勝てる相手じゃない。敵意を見せた瞬間、俺程度の奴は羽虫みたいにあっさり殺される。


 背中が冷たくなった。怒鳴られる前にボスと呼ばれた男を追う。


 そこでやっと気付く。

 夜を照らしている光も神の加護によるものだ。蝶のように俺たちの頭上をひらひらと舞い、蝋燭とは比べ物にならないほど強烈に夜を照らしている。


 ただのマフィアじゃない。思考を巡らせている内にどこかの家に入った。


 誰かが椅子に座らせられていた。

 頭に袋を被され、椅子ごと縛られている。動く気配はない。光の蝶に照らされた室内を見るに民家らしい。

 

 背後で扉が閉まる音がした。反射的に振り返ると、他の連中は中に入ってきていなかった。俺とボスの二人きりだ。


「三千万ルーブル。それがお前の借金の総額だったな」


 ボスが俺に向き直っていた。ようやくその姿が見える。


 左目に眼帯を付けた三十代ぐらいの男だ。

 ベストの上にジャケットまで着て、つばの広い帽子を被っている。マフィアというより貴族のいでたちだ。目鼻立ちがはっきりしている分余計にそう感じる。

 しかし襟や裾から覗くタトゥーは例外だ。黒一色のそれは恐らく、神の加護に関連するものだろう。


 巫覡を擁するマフィアが俺に何の用だ。じわりと手汗が滲む。悟られないよう拭い、頭の中で話す言葉を慎重に決めた。


「俺に、何をさせるつもりですか?」


「この男を殺せ」


 意識が歪む。困惑が頭を揺らす。


「……何故、いや、誰ですか?」


 声が震えているのが自分でも分かった。


「誰でもいい。見たければ見るといい」


 平然とした声。こいつらがマフィアだという事実が否応がなく突き刺さる。目の前にいる頭に袋を被せられた奴を殺さなければ、こいつらに殺されるのは俺の方だ。


「これを使え」


 ボスがナイフを差し出した。短い刃渡りだ。まだ握ってすらないのに、感じたこともない人を刺した感触が腕を伝わり、背筋を通り、脚から力を奪っていく。


 それでも、やるしかない。この街で生まれた俺にとって死は身近だ。殺人はしたことも考えたこともないけど、そんなのは些細な違いでしかない。


 俺は一歩一歩、床を踏みしめるように進んだ。そうしないとつまずいて転びそうだった。呼吸を意識的に繰り返して気持ちを落ち着けようとし、なんとかボスの手からナイフを受け取った。


 重い。片手では落としそうなほど重い。俺はナイフを両手で握り、目の前の奴に向き合った。


 体格からして男だろう。歳は、親兄弟は、結婚は、子供は、考えなくてもいいことが切れ目なく浮かんでくる。


 自分の呼吸が大きく聞こえた。心臓の鼓動が少しづつ早くなっているのが分かる。無性に喉が渇いた。手にしたナイフを何度も握り直す。


 殺人を断れば、殺されるのは俺だ。そして、借金の返済義務は妹のシイナに移る。


 そんなものただの犬死にだ。ここで目の前の男を殺す。それ以外に選ぶ道はない。ノミ屋の用心棒をしていた頃より活路が開けた、そう思えば楽なものだ。


 俺は冷静だ。抵抗できない人間を殺すのは簡単だ。覚悟を決めさえすれば、あとは少し手を動かすだけでいい。


 視界が霞んできた気がした。一度眼を瞑って開ける。何も変わらない。霧が掛かったように視界があやふやになっている気がする。気がするだけだ。


 俺は冷静だ。結局殺すしかない。どれだけ躊躇おうが、俺は目の前の男を殺す。そんな避けられない運命なんて、悩むだけ時間の無駄だ。


 深呼吸して強引に気持ちを整える。覚悟なんていらない。頭が真っ白になればそれで十分だ。


 俺は、目の前の男の首を掻き切った。


 手応えはほとんどなかった。想像していた返り血は思いのほか少なく、野菜の汁が飛び散る程度の血が服に付き、ほとんどは溢した水みたいに男の躰を伝って流れていく。


 あっさりとした死だった。


「それでいい」


 ボスが俺の手からナイフを取ろうとする。瞬間、俺の手から力が抜けた。ナイフが落ち、床に当たって音が鳴る。反射的にボスの顔を見た。気にした風もなく俺を見ている。


「これで私たちは共犯者だ。安心して仕事が紹介できる」


 その言葉を理解するのに時間が掛かった。頭の回転が著しく遅くなっている。


「……仕事?」


「三千万ルーブルもの大金が返せる仕事だ。レーシングアカデミーに通っていたなら当然ドラゴンには乗れるな?」


 こいつらが俺に何をさせる気なのか。鈍った頭でもすぐにピンときた。それでもそれを確認する気力は今の俺になかった。


「……退学してますけど」


「問題ない。お前にはこの街のドラゴンレーシングでジョッキーとしてデビューしてもらう。詳しくは明日聞くといい。先ほどの建物に迎えを寄こそう」


「……分かりました」


 断れるわけがなかった。


 仕事の紹介なんてただの体裁だ。実際は脅し。そもそも法のないこの街には罪すらもない。


 俺に人を殺させたのも、断った俺の末路を見せているだけだ。逃げたところで標的はシイナに移り、シイナを連れて逃げてもその後は暗い。遠くない将来に殺されるのは目に見えている。


 やるしかない。


 超えてはいけない一線を越えてしまった、そう思うのは寝ぼけているだけだ。俺はとっくの昔に一線を超えている。下り坂を進む歩みは、ずいぶん前から駆け足に変わっていたはずだ。


 ボスが民家を出ていった。

 部屋を照らす光の蝶はその場に残り、俺と死体だけを照らしている。血だまりがてらてらと光り、ふと、その上に煌くものが目に留まった。


 死体の手に指輪が嵌っている。恐らく金製だ。

 宝石は付いていないけどそれなりの値が付くだろう。売れば借金返済の足しになる。その分早くマフィアから縁を切れる。


 マフィアたちが家に入ってくる気配はない。しかし悠長に悩んでいる暇もない。殺しておいて物まで盗むのか、そんな良心の呵責は消えていた。


 入口を確かめてから素早く金の指輪を外した。懐に隠して何食わぬ顔で外に出る。呼び止められることもなく事務所に帰り着いた。


 杭に刺されたニコラスの死体は、全てが夢だったように跡形もなく消えていた。

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ドラゴン・ギャンブル・シティ @heyheyhey

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