第2話
掘っ立て小屋も並ぶ一角に、街の中心部にも劣らない石造りのノミ屋の事務所は建っている。俺たちが戻ってきても常駐している下っ端が慌てたように出迎えただけで、建物全体は静まり返っていた。
「お疲れ様です」
下っ端の言葉は無視して、ニコラスは物のように引きずってきた男の脚から手を離した。それから脚で軽く蹴って鼻で笑う。
「死んじまってるな。おい、これ適当に捨ててこい」
下っ端は大きな声で返事をし、急いで男の死体を担いで事務所を飛び出していく。その間ニコラスは椅子にも座らず袋から取り出した貨幣を喜々として数えていた。
「足りるのか?」
「いいや。ま、返せるとも思ってなかったし、これぐらい戻ってくれば上出来だろ。脅す手間が省けた分だけ儲けもんだ」
この街での死なんてこの程度だ。
そもそも、この街は正確には街ですらない。大国に挟まれた山岳部にあるどちらの国の領土でもない緩衝地帯──それがこの街の正体だ。
だから行政は存在せず、法という概念もない。大国に居場所のない曰く付きの連中が集まり、少しずつ膨れ上がり、いつしか街のようになった。
ただそれだけの禄でもない場所だ。
「あのう」
女が怯えたように肩を竦ませて事務所に入ってきた。
俺は一瞥しただけで黙って椅子に座り、ニコラスも机の上の金を見つめてにやついていた。
「あのう、ここでお金を借りられると聞いたんですが」
「うちは金貸しじゃねえ。帰んな」
ニコラスが見向きもせずに言い、金を袋に戻していく。女は躰をびくつかせて口をつぐみ、ややあって俺の方を見た。
「ここでお金を借りた人を知ってます。ちゃんと返しますので貸してくれませんか」
俺は顎をしゃくってニコラスを指し示す。視界の端でそれを見ていたのか、ニコラスが舌打ちして机の上に座り、現金入りの袋を背中の後ろに隠した。
「うちはノミ屋だ。ノミ屋って知ってるか? 競龍運営委員会が売ってる龍券とは別に、俺たちは俺たちで龍券を売ってる。貸した金はその龍券を買うためのツケだ」
女は唾を飲み込み、上目遣いで切り出した。
「つまり……貸そうと思えば貸せるんですよね?」
ニコラスが机から下りた。小さな躰で肩を揺らし、女に歩み寄っていく。身長は同じぐらいか。俯いた女の顎を摘まんで持ち上げ、頬を軽く叩いた。
「あんた女に生まれて良かったな。帰り道はすぐそこださようなら」
瞬間、女がニコラスの腕を掴んだ。俺は瞬時に立ち上がり、しかし女は掴んだニコラスの手を自分の胸に押し当てた。
「何でもしますから貸してください」
ニコラスは答えず女の胸を揉んだ。呆れてものが言えなかった。またこいつはほだされるのか。女は結んだ口を痙攣させて堪えている。
「いいぜ」
ニコラスが女から手を離した。
「仕事を手伝え。そうしたら金を貸してやる」
「危険、なことですか?」
「期待してねえよ。ただの偵察だ。スカ区は分かるな?」
スカ区──スカベンジャー地区。
この街の一番端にある最下層の地区のことだ。この街の住人の行きつく果てだけど、死人にたかるぐらいしかできない弱いスカベンジャーしかいない。威勢がいいのは使い捨ての駒を探しに来たスカウトマンぐらいのもので、逆に安全な場所だと笑いものになっていた。
「分かります」
「俺たちはそこに逃げ込んだ奴から金を回収する。場所は分かってるから、あんたは俺たちが昼飯を食ってる間にそこまで行って、そいつがそこにいるか見張っててくれ」
しばし考え込むような間が開き、女は頷いた。
「分かりました。どんな人ですか」
「銃で撃たれたとかで左の手首から先が吹っ飛んでる。川沿いにある二本の樹の間に寝床を作ってるらしい」
内容を繰り返し暗唱して、女は事務所を出ていった。
「取り立ては自分でしろよ」
俺がため息交じりに言うと、ニコラスは短い笑い声を漏らした。
「貸すわけねえだろ。次の取り立て相手が厄介でな、都合の良いのが欲しかったんだよ」
どうだか。
ニコラスとは短い付き合いだ。女より金というのは分かってきたけど、本音を見せない小狡さのせいで得体が知れないところがある。
「エイシロウ、てめえも気ぃ張っていけよ。どうも軍にいたらしくて拳銃を隠し持ってるなんて話がある」
そういうことか。ニコラスがにやにやと笑っている。俺は肩を竦めて事務所を出て、一人で昼飯を食いに行った。
手早く済ませて事務所に戻り、ニコラスと合流してスカ区に向かう。
スカベンジャー地区といっても実態はただの林だ。この街自体山林を切り開いてできた街で、スカ区は街の外周部にあり、伐採に向かない斜面に街ですら生きていけない人間が居着いている。
飲むのにも苦労しそうな細い川を辿っていく。
近くには木や枝、使い古した服などを使った粗末な寝床がいくつかある。暇を余しているのか漠然と死を待っているのか、立っている奴はほとんどいなかった。子供は一人もおらず、若い奴もまずいない。静かで日光の通りも良いのにどうにも陰気な場所だ。
例の女と再会した。女が口を開こうとして、ニコラスが手で塞いで黙らせた。女が落ち着いてから手を退け、男が寝床にいるのを確認する。
ニコラスが俺に目配せした。分かっている。俺が実行してニコラスは陽動だ。俺は足音を殺して二本の樹の間にある寝床に後ろから近づき、ニコラスたちは正面から行く。
「よう! 催促に来たぜ、いるんだろ?」
ニコラスは女の肩を借りながら、その胸を揉んでいた。女は女でニコラスに躰を寄せ、上手く顔を隠している。
俺は右の樹の裏に身を潜め、一瞬だけニコラスに姿を見せる。それでニコラスはよろめいたふりをして立ち位置を変え、俺が死角に入るよう調整した。
「今忙しいんだ、出直してくれ」
敵意むき出しの声が寝床から聞こえた。ニコラスは気の抜けた笑い声を出し、不用心に寝床に歩み寄る。
「なんだお楽しみ中か? だったら実際に女見ながらしたらどうだ? 見ろよ、乳だけは立派なんだよ」
「利息分は払うから帰ってくれ」
そう言って、男が寝床から出てきた。
ニコラスの位置からは見えないだろうけど、俺からは腰に差したリボルバー式拳銃が確認できた。左手は聞いていた通り手首から先を失っている。体格は普通の人間より気持ちデカいぐらいか。
「利息だあ?」
ニコラスが歯を剥いた。
「寝ぼけたこと言ってんじゃねえぞ!」
男の手が腰のリボルバーに伸びる。ニコラスが女を突き飛ばす。
俺は駆けた。銃声が響く。一発だけだ。弾丸は女に当たった。男は急いで体勢を変えようとし、そこにニコラスが女を盾にしながらぶつかっていく。
男が地面に倒れた。右手に握ったリボルバーはニコラスを狙っている。当のニコラスは俺に余裕の笑みを向けていた。
俺は、男の腕を蹴り抜いた。リボルバーがどこかにすっ飛んでいく。これで獲物はなくなった。でも脚を掴まれた。そのまま俺も倒される。
すぐに殴り返した。一発、二発、三発、数よりも確実な一撃を入れる。男は俺の躰にしがみつき、少しずつ上ってきた。力任せに引き剥がそうとする。それと同時に男が転がった。俺の力も利用され、あっさり上を取られた。
口に砂が入っていた。背中が水に濡れている。初夏の空は真夏に比べて突き抜けるような高さはないけど、それでも気持ちよさそうな色をしていた。
頭に血が上るのが、自分でも分かった。
無我夢中で男を殴った。男のことも、ニコラスのことも、女の生死も、全てがどうでも良かった。土の味が口に広がり、喉の奥まで染みていく。
川の水と土が混ざり、躰中が泥だらけだ。それでいい。そう思った瞬間、俺は殴るのを止めていた。
男の上から退き、川の水で顔を洗う。男を滅多打ちにしたのは短い時間だ。男は動けはしないけど、意識もちゃんと残っている。
「当然、お前が連れて来いよ」
ニコラスがリボルバーを手に近づいてきた。答える気になれなかった。俺は男に肩を貸して立ち上がらせ、そのまま帰路につく。
撃たれた女に人が群がっていた。純粋な先着順のようで争いもおきず、餌を与えられた猿のように物を手にした奴から一目散に逃げていく。
女は死んだらしい。
俺も最期はああなるんだろう。木々の合間に見える空は、さっきよりも遠く見えた。
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