完全犯罪の構造欠陥

古木しき

露呈─完全犯罪の構造欠陥

   1


 宮脇加奈子は、私の書斎のソファに腰を下ろしたまま、三度目の同じ言葉を繰り返した。

「ねえ、もういいでしょ。早く、別れてよ」

 その言い方には、涙も震えもなかった。要求だった。感情ではなく、期限の設定に近い。

 私は原稿用紙から視線を上げずに、短く答えた。

「……まだだ」

「“まだ”って、いつまで?」

 私はペンを置き、ようやく彼女を見た。

 売れっ子作家の自室だ。壁一面の書架、書きかけの原稿、賞状、映像化ポスター。

 彼女はその中心に座っているが、もうこの空間の一部ではない。

「今じゃない。少なくとも、今月は」

「またそれ?」

 加奈子は笑った。だが、その笑顔は私の成功に向けられていない。

「次はいつ? 次の次? それとも、あなたのシリーズが終わるまで?」

 私は答えなかった。

 答えが存在しない問いに、返す言葉はない。

 代わりに言った。

「今日は、新刊のパーティーだ」

「だから?」

「だから、余計な話はしたくない」

 彼女は立ち上がり、私の机に手をついた。

「……私、いつまで“客間”なの?」

 その言葉で、私は理解した。

 彼女はもう、関係を揺さぶっているのではない。

 居場所を要求している。

 私は、そこで初めて結論に至った。

 ――ああ、この関係は、物語として破綻している。なら、結末は書き直すしかない。

 その夜、霧島邸ではささやかな新刊パーティーが開かれた。

「霧島矢一先生、新刊おめでとう! ってことで乾杯!」

 編集者が二人、古くからの作家仲間が一人。そして、妻の直子と、宮脇加奈子。

 ワインは良いものだった。祝いの席にふさわしい。香りも、余韻も、物語性がある。

 私はグラスを一杯だけにした。

「明日、出版社でサイン本を大量に書かなきゃいけないんですよ。いやぁ、腱鞘炎にならなきゃいいが」

 それは事実だったし、誰も疑わなかった。

 作家は翌日に仕事がある。健康管理も、イメージ戦略の一部だ。

 直子は二杯目に進み、加奈子は三杯目で頬を赤らめた。

 私は、それを確認した。

 誰がどれだけ飲んだか。

 誰がどの程度、判断力を鈍らせているか。

 ――計画に必要なのは、凶器ではない。

 状況だ。

 やがて、客は帰り、家は静かになった。

 午前一時過ぎ。

 私は自室の時計を見た。

 全員、就寝した時間だ。

 完全犯罪において重要なのは、手順を単純にすることだ。

 余計な工夫は、必ず誤差を生む。

 私は、鍵を持って廊下に出た。

 足音は立てない。立てる必要がない。

 この家は、私の動線で設計されている。

 客間のドアを開ける。

 宮脇加奈子は、布団に入って眠っていた。

 酒のせいで、呼吸は深い。

 私は、布団の上から刺した。返り血を浴びないためだ。

 彼女は、声を出さなかった。

 次に、部屋を荒らす。引き出しを開け、鞄を倒し、装飾品を床に落とす。

 強盗は、秩序を嫌う。だから、秩序を壊す。

 最後に、掃き出し窓のガラスを割った。内側から。

 破片が部屋に散るよう、角度も計算した。

 これでいい。

 私は、部屋を出て、鍵を閉めた。

 そして、自室に戻った。

 数分後。

 私は、他の人間と同じ顔で、同じように廊下に出た。

「……今の音、何だ?」

 そう言いながら。

 ガラスの割れる音は、想定よりも乾いていた。

 澄んだ破裂音。重低音ではない。――投げ込まれたものではない、そう思った。

 私は、ベッドから起き上がった。

 時計を見る必要はなかった。

 この時間に起きる理由は、一つしかない。

 廊下に出ると、隣の寝室のドアが開いた。

「……今の音、何でしょう?」

 編集者の中野だった。

 寝起きの声。酔いはまだ残っている。

「外かもしれない」

 私はそう言った。

 外部要因の可能性を、先に提示する。

 これは、混乱を最小限に抑えるための配慮だ。

「見てくる」

「私も行きます」

 私と中野はそのまま、客間へ向かった。

 廊下の突き当たり。

 加奈子が使っている部屋。

 理由は明確だった。

 ガラスを割ったのは、あの部屋だ。

 音の方向も、割れる角度も、すでに把握している。

 危険がある場所に、最初に行くのは当然だ。

 私はそう判断した。

「鍵がかかってますね」

 中野が言う。

「マスターキーがある」

 と、私は部屋に戻り、マスターキーを持ってきて、ドアを開ける。

 暗い。カーテンは閉じたまま。

「……加奈子?」

 返事はない。

 私は、電気をつける前に、カーテンを開けた。外の様子を確認するためだ。

 侵入者がいる可能性を、排除する。

 月明かりが差し込む。

 床に散ったガラス。

 荒らされた室内。

 そして、布団の上の影。

 私は、そこで一度、息を止めた。

 ――成功している。

 計画通りだ。過不足はない。

 それでも、私は声を出した。

「……おい、加奈子」

 呼ぶ必要はない。

 だが、呼ばなかった場合の不自然さを、私は嫌った。

 次に、私は廊下に戻った。

「直子!」

 声を張る。

「……ちょっと、来てくれ!」

 彼女が駆け寄ってくる音を聞きながら、私は頭の中で次の工程を並べた。

 救急車。警察。状況説明。

 順番は重要だ。

 人は、混乱したときほど、順番の正しさを信じる。

 直子が部屋を覗き込み、息を呑んだ。

「……っ」

「強盗だと思う」

 私は即座に言った。

 仮説は、早く提示した方がいい。

 空白を作ると、人は余計な想像をする。

「窓を割って、金目のものを探したんだろう」

「……救急車、呼ばなきゃ」

「待って」

 私は、そう言ってしまった。

 一瞬だけ。

「まず、状況を確認しよう」

 理屈としては正しい。

 無闇な通報は混乱を招く。誤報もある。

 私は、そう思っていた。

 直子は、震える手でスマートフォンを握っていた。

「……じゃあ、警察?」

「……いや」

 私は言葉を選んだ。

「まず、家の中を確認しよう。他にも誰かいるかもしれない」

 それも、正しい判断だ。理論上は。

 私は、自分が“正しい行動を積み重ねている”と信じて疑わなかった。

 直子は、私を見た。

 何か言いたそうだったが、言葉にならなかった。

 そのとき、ようやく私は気づいた。

 彼女が、私を見ている視線が、少しだけ違うことに。

 直子は、私ではなく――廊下の奥を、一度だけ見た。

 それは「寝室」ではなく、「何かがまだそこにある」方向だった。

 だが、それを意味として処理する前に、私は次の行動に移っていた。

 自室に戻り、スマートフォンを手に取る。

 通話履歴を開く。

 ――削除。

 履歴は、余計な情報だ。残す理由がない。

 私は、そのあとで、警察に電話をかけた。

 落ち着いた声で。驚いたふりをして。

 すべては、計画通りだった。

 ――ただ一つだけ。

 私は、最初に確認すべき存在を、最後まで“確認しなかった”。


  2


 サイレンの音は、思っていたよりも遠慮がちだった。

 住宅街の深夜では、あれくらいが限界なのだろう。

 警察は手際よく動いた。

 制服警官が規制線を張り、鑑識が床に散ったガラス片を写真に収める。

 客間はすでに「現場」になっていた。

 私は、事情聴取を受けながら、何度も同じ説明を繰り返した。

 音がしたこと。

 最初は外だと思ったこと。

 部屋を確認し、強盗だと判断したこと。

 刑事たちは、頷きながらメモを取る。

 疑念はない。少なくとも、表情には出ていない。

 そのときだった。

 廊下の奥から、足音が聞こえた。

 急いでいるようで、急いでいない。

 場違いに、だるそうな足取り。

「すいませ〜ん。遅れました〜」

 現場の空気に、緊張が一瞬、抜けた。

 若い女だった。

 みすぼらしいコート。

 寝癖を誤魔化す気もない髪。

 そして――盛大な欠伸。

「十北署、殺人課の東雲灯です〜一応警部補です」

 私は、思わず聞き返してしまった。

「……殺人課?」

 職業病だろう。制度の齟齬は、放っておくと気持ちが悪い。

 こういう“些末な正しさ”にこだわるのが、私の悪癖だ。

「日本の警察組織に、正式な殺人課は存在しないはずだが。正確には、捜査一課内の殺人係——」

 彼女は、私の説明を最後まで聞かなかった。

 欠伸を噛み殺し、肩をすくめる。

「いやぁ〜、私もそう思うんですけどねぇ。

 色々ありまして、警視庁から左遷されまして〜」

 左遷。

 その単語だけで、私は彼女を分類した。

「で、十北署に来たらですねぇ。

 捜査一課の中に、私専用の“殺人課”ができてまして」

 彼女は、ふふっと笑った。

「通称、ぼっち課です」

 場に、微妙な沈黙が落ちる。刑事の一人が、気まずそうに視線を逸らした。

 私は、内心で結論した。

 ――なるほど。

 警視庁キャリア。何かやらかした。地方に飛ばされ、持て余されている。

 しかも、初対面の参考人に自分の失敗談を喋る。

 推理作家の世界なら、第一章で退場するタイプだ。

 私は、わずかに口角を上げた。

「……それは、大変でしたね」

 これ以上、適切な相槌はない。

 彼女の経歴も、部署の歪さも、この事件の本質とは無関係だ。

 東雲灯は、私の反応を気にする様子もなく、現場を見回していた。

 床。窓。散ったガラス。

 視線は動いているが、焦点が定まっていない。

 少なくとも、そう見えた。

 私は、完全に確信した。

 ――この女刑事は、大したことがない。

 そして何より、完全犯罪を前にした人間の目を、まだ知らない。

 私は、そう判断した。

 東雲灯は、客間の中央で立ち止まり、床を見下ろしたまま言った。

「……寒くないですかぁ?」

 場違いな一言だった。鑑識も、他の刑事も、一瞬だけ動きを止めた。

 私は、意味を測りかねて彼女を見る。

「夜中ですし、窓も割れてますし〜。風、けっこう入ってきますよねぇ」

 そう言って、彼女はまた欠伸をした。

 誰も答えない。答える必要のない問いだった。

 胸の中で、勝敗の札が裏返った。――やはり、現場の緊張感がない。

 死体のある部屋で、温度の話。鑑識の邪魔をするような雑談。

 この女刑事は、事件を“構造”として見ていない。

 感じたことを、そのまま口にしているだけだ。

 私は、安心した。

 警察という組織には、二種類の人間がいる。

 一つは、事件を「事実の集積」として扱う者。

 もう一つは、事件を「雰囲気」で理解したつもりになる者。

 東雲灯は、明らかに後者だった。

 彼女は、順序を問わない。仮説を立てない。

 ただ、思いついたことを口にしている。それは、推理ではない。観察ですらない。

 私の計画は、観察に耐えるようには作っていない。論理にしか、耐えない。そして、彼女は論理を持ち込まない。――勝った。私は、そう判断した。

 この事件は、捜査書類の上で終わる。

 強盗致死、侵入経路不明、外部犯行。それで終わりだ。

 推理作家として、私は数え切れないほど“詰み筋”を書いてきた。

 そのどれよりも、この現実は単純だった。

 東雲灯は、ようやく私の方を見た。

「でぇ」

 と、間の抜けた声で言う。

「第一発見者は、霧島矢一さんですよねぇ? あっもしかして推理作家の? 私ファンなんですよぉ。あとでサインでも……」

 呆れた。他の刑事が睨みつけているが、東雲灯は気にしていない。

「ええ」

「そのとき、どう動きました?」

 あまりにも普通の質問だった。私は、すでに何度も説明している。他の刑事にも。書類にも。

「音がして、廊下に出ました。ガラスの割れる音だったので、宮脇さんの部屋を確認しました」

「ふむふむ」

 彼女は頷きながら、窓の方へ歩いた。

「で、鍵がかかってたんですよねぇ?」

「そうです」

「マスターキーで開けた」

「ええ」

 問題はない。すべて、事実だ。

 彼女は、しゃがみ込み、ガラス片を一つ指でつまんだ。

 鑑識に止められる前に、床に戻す。

「おやぁ」

 その声は、小さかった。

「強盗が外から入ったって話でしたよねぇ?」

「その可能性が高いと考えています」

「ですよねぇ」

 彼女は、立ち上がり、窓枠を指差した。

「でもぉ」

 そこで、少しだけ間を置いた。

「外から窓ガラスを割って侵入した場合、

 普通は、破片は部屋の中に散らばるんですよねぇ」

 私は、即座に答えようとした。

「それは、割り方によって——」

「ところが」

 彼女は、私の言葉を遮った。

「この現場、ガラスの破片が外に多いんですよぉ」

 室内。庭先。比率。私は、それを見たことがなかった。見ていなかった。

「それとぉ」

 灯は、床を指さす。

「割れたあと、ここ……わりと綺麗なんですよねぇ」

 灯はそれ以上説明しない。

「……妙ですねぇ」

 私は、そこで初めて、背中に汗が浮かぶのを感じた。

 否定はできる。理屈は組める。

 だが、――なぜ彼女は、これを最初に言った?

 他にも確認すべきことは山ほどあるはずだ。

 死因、凶器、侵入経路。

 なのに、彼女は最初の一手で、盤面を裏返した。

 私は、ようやく理解した。

 この女は、事件を解こうとしていない。犯人の思考順を、再生している。

 東雲灯は、ガラス片から手を離し、私の方を見た。

「あと、もう一つだけ変なんですよぉ」

 その言い方には、もはや間の抜けた軽さはなかった。

 欠伸もない。ただ、確認するような視線。

「第一発見者としての行動順です」

 私は、表情を変えなかった。変える必要がない。行動順は説明できる。

「音がして、廊下に出て、客間を確認しました」

「ですよねぇ」

 彼女は、メモ帳も端末も出さずに言った。

「でも、それってちょっとだけ、順番が変なんです」

「……どこがでしょう」

「普通ですねぇ」

 灯は、ゆっくりと言葉を選ぶ。

「一軒家で、夜中に物音がして。

 同居している人がいる場合」

 彼女は、私の背後にある廊下をちらりと見た。

「まず、誰の無事を確認します?」

 質問は、致命的に些細だった。

 法律でも、手続きでもない。

 心理だ。

「……危険がありそうな場所を」

 私はそう答えた。

「ガラスが割れた音がした。侵入者がいるかもしれない。だから、音のした方向へ行くのは合理的です」

「うんうん」

 東雲灯は頷いた。

「理屈としては、正しいです」

 ――だが。

 その続きを、私は待ってしまった。

「でもですねぇ」

 東雲灯は、ほんの少しだけ声を落とした。

「霧島さん、最初に心配しませんでしたよねぇ」

「……何をです?」

「奥さんです」

 空気が、一段冷えた。

「音がした直後、あなたは奥さんの寝室を確認しました?」

「……いや」

 私は言い返そうとした。

「危険がある可能性が——」

「ええ。ありますあります」

 灯は遮らない。否定もしない。

「だからこそですねぇ」

 彼女は、淡々と続けた。

「普通はまず、一番守るべき人を確認するんです」

 鑑識の一人が、わずかに視線を動かした。

 私の妻、直子の方へ。

「侵入者がいるかもしれない。だからこそ、家族の安否を最初に確かめる」

 灯は、私を見る。

「でも、霧島さんは違った」

 私は、口を開いた。理屈はある。説明は可能だ。

 だが、その前に、彼女は言った。

「あなた、迷いませんでしたよねぇ」

 その一言で、盤面が止まった。

「音がした。即座に、客間へ向かった」

 灯は、軽く首を傾げる。

「まるで、誰が、どこにいるかを知っていたみたいに」

 私は、何も言わなかった。

 言葉を探しているわけではない。

 否定のルートが、すでに潰れている。

「親しい間柄……つまり愛人の宮脇さんの部屋ですよねぇ」

 その名前を、彼女は初めて口にした。

「あ、失礼しました。勝手に決めつけちゃって。ガールフレンドとでも言いますか?」

 東雲灯は、申し訳なさそうに笑った。

「いくら、その、親しいガールフレンドの方が大事でもですねぇ」

 そして、静かに言った。

「まず、妻を心配しない人は、“第一発見者”にはなりません」

 私は、そこで理解した。

 ガラスでもない。侵入経路でもない。凶器でもない。

 詰みは、最初の一歩で完成していた。

 私は、正しい行動を積み重ねたつもりだった。

 だが、人間が“普通に間違える順番”を、私は一度も踏まなかった。

 それは、計画を知っている者にしかできない。

 灯は、最後にこう言った。

「はて、おかしいですねぇ」

 その声は、もう眠そうではなかった。

「慌てていたとしても、普通はこの順番、取りませんよ」

 東雲灯は、それ以上何も言わなかった。

 ガラスの件も。行動順の件も。

 それらを「証拠」として積み上げる様子はなかった。ただ、私の反応を一度だけ見て、あとは興味を失ったように現場を見渡した。

「ん〜……」

 と、彼女は小さく伸びをする。

「ここ、鑑識さんもいるし、もう私、邪魔ですよねぇ」

 その言葉に、刑事の一人が反射的にしっしとやっている素振りを見せていた。東雲灯はすでに踵を返していた。

「一回、署に戻ります〜。続きは書類で」

 “続き”という言葉が、妙に引っかかった。

 まるで、この現場はもう読み終えた、と言っているみたいだった。

 私は、何も言わなかった。言う必要がない。彼女は何も掴んでいないはずだ。ガラスの割れ方も、行動順も、すべて“おかしいかもしれない”という感想にすぎない。完全犯罪は、感想では崩れない。

 東雲灯は、玄関の方へ歩きかけて――そこで、思い出したように立ち止まった。

「あ、そうだ」

 振り返らずに言う。

「もう一つだけ、確認いいですかぁ」

 その声は、相変わらず間が抜けている。だからこそ、私は気を抜いた。

「……何でしょう」

「最初に電話、誰にしました?」

 私は、一瞬だけ言葉を失った。

 ほんの一瞬だ。だが、その沈黙は、自分でも分かるほど不自然だった。

「警察です」

 私はすぐに答えた。

「異変に気づいて、すぐに通報しました」

「ふむふむ」

 東雲灯は頷く。こちらを見ないまま、靴を履きながら続ける。

「じゃあ、救急より先ですねぇ」

「……当然でしょう」

「ですよねぇ」

 彼女は、玄関の扉に手をかけた。

 もう、この会話は終わりだ。そう思った。

 だが、灯は最後に、ぽつりと言った。

「通話履歴、消してありましたけど」

 私は、息を吸うのを忘れた。

「推理作家さんなら、ご存知でしょうが……最近はですねぇ」

 と、彼女は独り言のように続ける。

「履歴消しても、通信会社のほうには、ちゃんと残るんですよぉ。何時何分に、どこへかけたか……」

 扉の開ける音が、小さく鳴る。

「あ、気にしないでください。消す人、いますから」

 東雲灯は、ようやくこちらを振り返った。

 その目には、まだ眠そうにしていて表情からは何を考えているのか読み取れなかった。

「署でゆっくり、確認しますねぇ」

 扉が閉まった。

 私は、その場に立ち尽くしていた。

 否定の言葉は、まだあった。

 説明も、可能だ。履歴を消した理由も、理屈は立てられる。

 だが――彼女は、問い詰めなかった。責めなかった。 「おかしい」とも言わなかった。

 ただ、“確認する”と言っただけだ。

 その態度が、何よりも致命的だった。

 完全犯罪とは、痕跡を消すことではない。

 自分以外が、続きを記述できない世界を作ることだと、私は思っていた。

 だが今、その続きを、彼女は、私より先に書こうとしている。


  3


 私は、その夜ほとんど眠れなかった。

 東雲灯の言葉が、頭の中で反復される。

 ――通話履歴。

 ――確認しますねぇ。

 だが、確認される前に、考える余地はある。

 完全犯罪とは、完璧である必要はない。説明可能であればいい。

 推理作家として、私はそれを何度もやってきた。

 破綻しかけたトリックに、後付けの一行を足す。

 読者が「なるほど」と思えるなら、それは成立だ。


 翌日、私は自ら十北署へ出向いた。任意だ。

 逃げていないという姿勢は、常に有利に働く。

 取調室は、思ったよりも狭かった。

 東雲灯は、机の向こうに座っていた。

 今日は、欠伸をしていない。しかし眠そうな表情ではある。

「わざわざありがとうございますぅ」

 相変わらず、軽い声だ。

「昨日の件で」

 私は、先に切り出した。

「一点、補足したいことがあります」

 灯は、ペンを持たない。メモも取らない。ただ、私を見る。

「“最初に電話した相手”の件です」

 私は続けた。

「履歴を消したのは、意図的ではありません。混乱していた」

 自分でも、安直な言い訳だと思った。

 だが、そこで止まらない。

「仮に」

 私は、机の上で指を組んだ。

「仮に、私が最初に警察ではない誰かに電話をしていたとしても」

 一拍。

「それが、犯行を示すとは限らない」

 灯は、首を傾げた。

「ほぉう?」

 私は、少しだけ声を落とす。

 推理作家としての声だ。

「例えば、私が最初に電話した相手が、出版社の編集者だった場合──あるいは、弁護士。もしくは、友人」

 灯は、遮らない。

「深夜に異変があった。動揺して、判断を仰ぐ」 「それ自体は、人間として自然です」

 私は、論理を積み上げる。

「つまり、通話履歴は“犯意”ではなく、“性格”を示すだけだ」

「私は、即断を避けるタイプの人間です。だから、誰かに確認した」

「その後で警察に連絡した。それだけの話です」

 完璧な別解だった。読者なら、納得する。裁判でも、十分に争える。

 私は、少しだけ安堵した。ここまでは、盤面を立て直せている。

 だが。東雲灯は、頷かなかった。否定もしなかった。

「……なるほどぉ」

 ただ、それだけを言った。

 私は、続きを待った。反論が来る。論理が返ってくる。そう思っていた。だが、東雲灯は違った。

「霧島さん」

 彼女は、静かに言った。

「今のって、“別解”ですよねぇ」

「ええ」

 私は即答した。

「合理的です」

「でも」

 東雲灯は、視線を落とす。

「それ、起きたことじゃないですよねぇ」

 私は、言葉を失った。

「可能性の話」

 東雲灯は続ける。

「もしもの話」

「そうだったら説明がつく、って話」

 彼女は、顔を上げた。

「霧島さん」

 声は穏やかだった。

「私、事実の再構成、頼んでないんですよぉ」

 その一言で、私は理解した。

 ――ああ、そうか。

 私は今、犯人としてではなく、作者として振る舞っている。

 東雲灯は、淡々と告げる。

「起きたことは、もう一通りしかないんです」

「別解を出せるのは」

 一拍。

「それを書いた人だけなんですよぉ」

 私は、ゆっくりと息を吐いた。

 修正提案。後付けの一行。説明可能性。

 それらはすべて、“物語の中でしか通用しない技術”だった。

 現実では、続きを書こうとした瞬間に、それは“自白に近い何か”へと変質する。

 私は、初めて悟った。

 この将棋は、王手をかけられていなかった。  だが――もう、動かせる駒がない。

 私は、かすかに笑った。

「……なるほど」

 そして、こう思った。

 私はようやく悟った。――推敲の余地があるのは、紙の上だけだ。


 翌日。

 私は再び十北署の取調室にいた。

 昨日と同じ部屋。同じ机。同じ椅子。

 だが、盤面はもう別物だった。

 東雲灯は、椅子に深く腰掛け、珍しく欠伸をしていなかった。

 代わりに、机の上に一枚の紙が置かれている。  報告書でも、供述調書でもない。ただのメモだ。

「これで、一通りですぅ」

 その言葉で、私は悟った。もう“質問”は来ない。

 私は、深く息を吐いた。胸の奥に溜まっていたものが、静かに落ちていく。

「……参ったな」

 自分でも驚くほど、素直な声だった。

 灯は、少しだけ眉を上げ、目をパチクリとさせた。

「おやぁ?」

 私は、椅子の背にもたれ、天井を見上げた。  

 敗北した人間の姿勢としては、あまりに呑気だったかもしれない。

「なんででしょうね」

 私は、独り言のように続けた。

「こう……実際にやろうとすると、なんでこうも上手くいかないんだろうなぁ」

 灯は、何も言わない。ただ、聞いている。

「推理小説なら」

 私は、乾いた笑みを浮かべた。

「これだけの材料があれば、一冊書けますよ」

「ガラスの破片」「行動順」「通話履歴」「心理のズレ」

 一つ一つを章にして、伏線にして、最後に回収する。それが、私の仕事だった。

「でも、現実は違う」

 私は、首を振った。

「一行目で、もう終わってる」

 東雲灯が、静かに言った。

「最初の一手、ですかぁ」

「ええ」

 私は、頷いた。

「音がして、どこへ行くか。誰を心配するか。どの順番で、電話をかけるか」

 私は、苦笑した。

「そんなところに、推敲の余地があるなんて、思わなかった」

 灯は、椅子の背に体を預けた。

 そして、少しだけ困った顔をした。

「推理作家さんって」

 一拍。

「みんな、“直せばいい”って思うんですよねぇ」

 私は、その言葉を否定できなかった。

「物語なら」

 東雲灯は続ける。

「あとから理由を足せる。行間に意味を入れられる。読者は、待ってくれる」

 彼女は、机を指で軽くトントンと叩き、ふふっと笑った。

「でも、現場は待ってくれません」

 私も、笑った。本当に、可笑しかった。

「チェックメイト、ですね」

 私は言った。

「王手をかけられた覚えは、最後までなかった」

「はぁい」

 灯は、あっさり頷いた。

「でも、もう動かせる駒がありませんでした」

 沈黙が落ちる。

 それは、敗者に与えられる時間だった。

 私は、最後に一つだけ訊いた。

「……最初から、私だと?」

 灯は、首を横に振った。

「うーん。まぁ」

 一拍。

「“この人にしか書けない手順だなぁ”って思っただけです」

 私は、目を閉じた。

 完全犯罪とは、痕跡を消すことではない。

 論理を完璧にすることでもない。

 続きを書けなくなることだ。

 私は、ようやく理解した。

 推理作家として、最も書いてはいけない結末を、 自分自身で書いてしまったのだと。

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