首を吊って死んだけど意識は残るらしい
小屋隅 南斎
首を吊って死んだけど意識は残るらしい
首を吊った。なかなか上手くいかなくて、何度も何度も吊って、気が付けば六時間以上の大奮闘の末、漸く意識が遠くなった。自分は、生命活動を終えた。しかし、そこで終わりとはいかなかった。まるで仮眠から目覚めるように、再び意識が浮上したのだ。
死ねなかったのだと最初は絶望した。しかし、眠りから覚めたにしては違和感があった。四肢が動かせない。口が開かない。目も開けられない。自分の身体でないかのように、全身に力が入らない。当然周りを見ることも、声を発することも出来ない。……それどころか、呼吸も出来ない。自分の意思で何も出来ないまま、首を絞めているロープの食い込む痛みと苦しみだけを体は感知し続けている。
(……死んだ、のか)
死んで体を動かせなくても、意識は残るものらしい。てっきり死んだら魂が抜けるものだと思っていたが、そうではないようだ。死んで初めて知る事実だ。恐らく誰も知り得ないだろう。妙に冷静に、そんな感想を抱く。動かせない体に反して思考ばかりが研ぎ澄まされるのは、言いようのない恐怖と底知れない孤独を感じさせた。
目は開けられないが、耳は意思に関係なく勝手に音を拾っていた。……静寂。エアコンの稼働音が唸りを上げているくらいだ。家主の死んだ賃貸アパートの一室は、五月蠅いくらいの静けさが支配していた。
音のみの世界。首に食い込むロープの痛さだけが、外界との唯一の繋がりに感じられた。
(今、何時なんだろう)
ピクリとも動かせない体をロープで吊らされながら、ぼんやりと考える。景色のない世界で、苦しみと痛みを掻き分けて無意味な思考ばかりが過っていった。
冷蔵庫に入っていない食品が腐り始めるんじゃないかとか、生前整理出来なかった物が沢山あるなとか、ベッドの隅の掃除を忘れたから汚いところを見られちゃうなとか、取り留めのない思考が浮かんでは消えていく。永遠に思える時間の中でそれを何百と繰り返していると、壁越しと思えるくぐもった声が聞こえてきた。隣人が帰ってきたらしい。生前は騒音に眠れず随分苦労した。相変わらず五月蠅いな、と僅かに怒りが湧き起こり、今後はもうそれに煩わされることはないんだ、という解放感が遅れて顔を出した。壁一枚隔てた先に死体があるとは想像もしていないのであろう隣人は、いつも通り大きな笑い声を響かせていた。
そんなことを何度か繰り返した。つまり、数日が経ったのだと思う。
静寂を裂き、ガタガタ、という物音が聞こえてきた。壁越しではない。玄関の方からだ。続いて足音が近づいてきた。複数のドタドタという音。扉の開く音、息を呑む音。全て耳は拾っていた。
まあっ、という声は馴染みのないものだった。……恐らく、この部屋の賃貸会社の社員だろう。そして、泣き声を噛み殺すような声。……こちらはすぐにわかった。母親だ。恐らく音信不通の子供を訝しんでやってきて、賃貸会社の人に頼んで鍵を開けてもらったのだ。自殺した我が子を発見した母親は、どうやら涙を流しているらしい。目が開かないため自分がどのような様相なのか知ることは出来ないが、なるべく醜くない姿が映っているといいな、と漠然と思った。母親の泣き声はとても小さかった。音信不通の時点でこの結果を察していたのだろう。それに、声色からそれ程深く悲しんでいないのであろうことが長年の付き合いからわかる。電話で警察に説明していると思われるやり取りを聞きながら、死体はぼんやりとそんなことを考えた。
「お母さん、ショックだろうけど気を確かに、ね」
警察へ連絡を終えたらしい社員の掛ける言葉、まるで悲劇のヒロインのような「はい」というか細い声。全て他人事のように耳に入っては抜けていく。それから足音が僅かに遠ざかった。どうやら机の上に残した遺書に気付いたようだ。二人はそれを読んでいるらしく、しばらく沈黙が続いた。
その後、扉の開く豪快な音が響き、ドタドタと足音が加わった。どうやら警察が到着したらしい。お世辞にも綺麗とはいえない部屋のため、出入りに苦労しているようだった。心の中で謝っておく。
「自殺のようですね」
状況説明のやり取りの後、ぼそりと近くで呟かれた声を耳が拾った。目は開かないが、痛い程の視線を感じる。小さく聞こえてくる音からして、死体を見て何かを書き留めているらしい。そうして散々観察された後、漸く体を持ち上げられた。首を絞めつけていたロープが緩むのがわかった。痛さと苦しさが少し弱まり、少しほっとする。相手は死体に意識があるものだとは露程も思っていないらしく、その手つきは少々乱暴で雑だった。
背中に冷たさが広がった。床に仰向けに寝かせられたらしい。少し間があったのは、合掌されたのだろうか。その後再び手が触れて、今度は俯せにひっくり返された。そして下半身を包んでいた感触がなくなった。履いていたものを脱がされたらしい。尻に異物を挿され、不快感を覚えたが意思に反して体は微塵も動かない。
(体温測定されてんのかな)
どこか暢気に、そんなことを考える。やがて体温計と思われる異物が抜かれ、脱がされた衣服が戻されたのが足に当たる感触でわかった。再び仰向けにされ、両手を胸の前へ整えられた。
「死亡していますね」
どこか軽い警官の声を、耳が拾う。微塵も動かせず呼吸も出来ないことからして、確かに死んではいるのだろう。しかしその言葉をこうして死体が聞いていることに、警官は全く気が付いていない。
「遺書もありますし、自殺と思われますがね……」
この説明は、母親に向けてしているらしい。耳を欹てていると、どうやら司法解剖をするようだった。それを聞いて、今から気が重くなった。死んだ後もロープに吊られた痛みや苦しみを感じたということは、解剖される時も痛みや苦しみを感じるということだ。……さらにその後火葬が控えていることを考えると、燃やされる苦痛も覚悟しなければならない。死んでからも辛いことは終わらない。人生とは、本当に残酷で無情なものだ。
警官の言葉が止んだ。母親への説明が一通り終わったらしい。その後賃貸会社の社員との会話が聞こえたあと、二人分の足音が遠ざかっていった。一気に賑やかさに支配された部屋は、再び静寂へと戻った。静かな部屋に、一人分の息遣いだけが聞こえていた。不意に、頬に温かいものが触れた。この感触は母の手だと分かった。自分の死に顔を見つめているのだと察せられた。何を思っているのだろうかと考えたが、すぐにその思考を放棄した。
その後、再び部屋を何人かが出入りし、体が部屋から運び出された。数多の声、車の音や鳥の声、遠くのサイレンの音、辺りに響くチャイム。ただただ音の洪水を浴びながら、微動だにしない体を揺らされ続ける。車で何処かへ運ばれたようだった。小さい頃に両親に連れられたドライブをふと思い出して、懐かしい気持ちになった。やがて揺れが収まり、静かな場所へ運ばれて横たえられた。どこかの施設に移されたらしい。耳は何も拾わなくなった。取り留めのないことを考え続け、この先にある恐怖を少しでも紛らわそうとした。そのまま、時間ばかりが過ぎていった。
どれくらい経ったかわからないが、また場所を移された。運び込まれた部屋で、薬品の匂いがつんと鼻に入った。これから解剖されるのだな、と察せられた。体が動かないため、抵抗することは出来ない。声をあげることも出来ない。死体に意識があると、周りの人間に伝えることなど叶わない。すぐに着ていた衣服が取り払われ、冷たい金属が肌に宛がわれた。それを、無力な死体はただただ迎え入れることしか出来なかった。肌が裂かれる痛みは、ロープで首を吊った時の痛みとは全く別のものだった。冷たく固いものが体に侵入してきて、当たり前に思っていた一部を裂いていく。その度に走るような痛みが全身を駆ける。それは苦しさにかわり、既に動かない体に重くのしかかった。医療器具の先が体の中を弄る感覚が、酷く不快だった。それは肌や血管、肉や筋、内臓を掻き分けて中へ中へと入っていく。ブツブツと体の何かが切れていく違和感と、冷たいものが体をかき混ぜる不快感。微塵も動かない体を支配する苦しみと痛み。どうにかなりそうだった。
やがて解剖は終わり、再び静かな場所へと移された。痛みと苦しみと不快感と違和感、そして疲労感を存分に残した体は、死体であっても『満身創痍』という熟語がよく似合うように感じられた。こんな感覚は何時ぶりだろうと、現実から逃げるように過去へと思いを馳せた。幼い頃の怪我、そして学生時代の部活動での激しい貧血、社会人になってから病院に掛かった時のことを順に脳内に蘇らせた。時間は、有り余る程あった。
長い時間が経った後、体は再び揺られて場所を移された。これが最後だということは察していた。いよいよ、火葬されるのだろう。
複数人の声が耳に届く。その中には聞き覚えのある声も混じっていた。両親だ。親族だけの小さな葬式が開かれているらしい。そんなことに金を使うなら美味しいものでも食べてもらいたかったが、口が開かない以上伝える術はない。服を着替えさせられ、顔を柔らかなもので擽られ、固い箱の中に収められた。お経のような声を遠くに聞きながら、やはり燃やされたら意識はなくなるのだろうなあとぼんやりと考える。こうして思考出来る時間も、そろそろ終わりが見えてきた。
近くから小さなすすり泣きがきこえてきた。聞き覚えのある鼻息も聞こえる。両親が自分を見下ろしているのだろう。思考を切り上げ、耳に意識を向ける。しかし、二人は何も言葉を発しなかった。泣き声ばかりが続いている。じっと、青い顔の我が子を見下ろしているらしい。
両親に思っていることは山ほどある。言いたいことも沢山ある。だが全てを胸に閉まった。二人も何も言わない。
(……私のことなんか忘れて、幸せに長生きしてね)
自分は死んだ、もう過ぎたことだ。恨みつらみを思うより、退場する者として二人の幸せだけを願おう。いろいろ思う所はあるにせよ、自分にとってこの人達は唯一無二の親なのだ。意識の残っている最後の時間、大好きで、愛している両親を近くに感じよう。そう思っていたが、最後に少しだけ、もう少し甘えたら結果が変わっただろうか、もう少し本音を晒し出せば違う未来があったのだろうかと、小さな小さな後悔が胸を締め付けた。
葬式はほとんど経験したことがないため段取りは良く分からないが、しばらく寝かせられたあと、蓋が閉まる音がして何も聞こえなくなった。拾う音から感じる閉塞感。いよいよ火葬されるのだろうと予測がついた。
(燃やされるのってかなり苦しいらしいし、嫌だなあ)
どこかのんびりとそう思っていると、自分の収まっている箱が大きく揺れた。そして、再び静けさが訪れる。火葬炉に入れられたようだ。
(……最後、お母さんもお父さんも何か一言言ってくれても良かったのに)
自殺したことを怒っているのかもしれないな、と思う。ろくでもない子供を持ったと、嘆いているかもしれない。きっと口を開けば罵詈雑言しか出てこないから何も言えなかったのだ。ごめんね、と心の中で謝る。
でも、自分は……限界まで、必死に藻掻いて生きてきた。二人には決して分からないだろうが、自分は常に耐え、やれるだけのことをやり、全力でこの地獄を生きてきたのだ。二人が何を思おうとも、自分だけは、自分の頑張りを認めようと思う。自殺する時に、決めたことだ。
(私の人生……嫌なことばかりだった。でも、恵まれてはいたんだろう)
家があり、親がいた。戦争のない平和な国に生まれた。それだけで有難く思わなければならない。そんな中でも自殺を選んだのは、自分が弱かったからだ。
(勿論死なんて選びたくなかった。もっと生きていたかった。でも、それ以上に生きるのが苦痛だった。限界だった。どうしようもなかった。だから死んだ。……嫌な人生だったけれど、最期だけは勇気を出して自分で掴みとった。それだけは、本当に……よく頑張った)
頭の中で自分の一生を振り返っていると、パチパチ、という燃える音が聞こえてきた。風が肌に当たる。冷たい体に、熱さが暴力のように迫って来た。いよいよ、この世界ともお別れだ。
(来世は……猫にでもなりたいな。……無理か)
自殺した者が良い来世を迎えられるとは思えない。
(養鶏場の鶏とかかも。卵を産んで、殺されて、人間の糧になるだけの一生。本来首を斬って死ぬはずが実際は仕事が杜撰過ぎて死にきれず、意識のあるまま熱湯に入れられて茹で殺されたりするんだっけ。逆さづりになりながら次々に殺される仲間の悲鳴を聞き続け、首を斬られた痛みに喘ぐのも束の間、熱湯に入れられて全身やけどにもがき苦しむ最期……)
炎が全身を包む。熱いという感覚はすぐになくなり、苦しみと痛みにかわって一気に全身に押し寄せる。
(結局命に意味があるなんて、傲慢な人類のただのきれいごと。無意味で悲惨な生を受け、地獄のような最期を待つだけ)
……それでも、と思う。自分も傲慢な人類の、一人だから。暗闇の中、消えゆく意識の狭間に祈る。
(願わくば……次の生は、今世よりもほんの少しでも、幸せでありますように)
違う最期を、迎えられますように。死に際に、親や友達と言葉を交わせますように。もう動かない心の奥底で、体を焼く炎にも負けない熱い想いが燻った。
このどうしようもなく地獄で残酷な、けれども愛しく美しい世界へと別れを告げる。動かせない瞼の裏には、賃貸の狭い部屋から見る夕焼けに染まった街の景色が浮かんでいた。
〈了〉
首を吊って死んだけど意識は残るらしい 小屋隅 南斎 @nekoiro_0112
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