ある時計屋と天才猫の話
倉澤ちえ
ある時計屋と天才猫の話
この世界の猫さんたちの首には、ひとりにひとつ、常に懐中時計が下げられていました。
懐中時計は、決して壊れない不思議なもので、猫さんたちの生命と等しく時を刻み、記憶やその時の感情をもその中に刻み込みます。
才能も、環境も、容姿も、地位も――――この世界は、不平等でできています。
けれどひとつだけ、平等なものがあります。それは時間です。時間だけは、神様がすべての生き物に等しく与えたものなので、猫さんたちは何よりそれを大切にしていました。
そして、自分の生きてきた道程がそのまま宿ったそれぞれの懐中時計もまた、猫さんたちは自分自身と同じように大切にしていました。
そんな世界にひとりだけ、唯一、その懐中時計から記憶と感情を「取り出し」て他の者の懐中時計に「刻み直す」ことのできる、不思議な時計屋を営む猫さんがおりました。
時間が唯一公平で、だからこそ尊いと思われているその世界で、「記憶とその時の感情」は、その時計屋さんでのみ売買することもできました。けれどどんな記憶と感情が、どれほどの値段なのかは、誰も知りませんでした。ひどく口数の少ない、機械仕掛けのようにも見えるその時計屋の猫さんを除いては。
そしてその世界に、もうひとりの有名な猫さんがいました。どんな発明も、どんな研究も、どんな商売も、やるそばから成功してしまう、生まれながらの天才猫さんです。
誰もがその才能を羨み、ときには妬みながらも、称賛しました。同時に天才猫さん自身もまた、自分は特別なのだと思っていました。
今日もまた、天才猫さんの頭脳の中で、新しい閃きが光りました。
ただ、それは今まで成功させてきたアイデアとひとつだけ大きな違いがありました。これまでなんでも自分ひとりでやってきた天才猫さんでしたが、その試みだけはどうしてもひとりでは実験が難しい思いつきだったのです。
天才猫さんは、仕方なく、幼い頃通ったアカデミーで自分の次に成績のよかった努力家の秀才猫さんに助手を頼むことにしました。
お人好しの秀才猫さんは、スケジュールを詰めてまで、協力すると言ってくれました。
昼ごはんの時間になると、それぞれお弁当を持ってきて、実験室でビーカーでお茶を沸かしながら一緒に食べることもありました。
天才猫さんは、栄養価とカロリーをきちんと計算した上で、とてもおいしい自分で作った弁当を持参しました。
一方で秀才猫さんは、少し焦げたおかずの入った、不格好なお弁当を広げていました。
それでも秀才猫さんは、その弁当を、とても嬉しそうに食べていました。
天才猫さんは、それをどこか少しだけ不思議に思ったのですが、それもほんの一瞬のことで、ふたりの話はすぐに実験についての議論に戻っていました。
アカデミーで天才猫さんにこそ勝ったことはなくとも、ずっと次席の座を守っていた秀才猫さんもなかなか優秀で、天才猫さんがいちいち説明をしなくとも少しの言葉で考えを悟ってくれるので、天才猫さんもとても快適に研究を進められました。気がつけば日が暮れていた、という日も珍しくありませんでした。
そうして過ごした日々は短く感じるほど早く過ぎ、実験はいよいよ大詰めになりました。
そして、これこそが、天才猫さんがひとりでは達成できないと初めて他者を頼った原因であり、同時に一番の難関でした。
四種類の液体を、スポイトから一滴ずつ全く同じタイミングで落とすことが肝心だったのです。
天才猫さんも秀才猫さんも、最大限に集中力を高めて、その最後の工程に臨みました。
「次に秒針が12時を示した瞬間、その瞬間、その直後に合わせよう」
そう天才猫さんは言い、秀才猫さんも慎重に頷きました。
四滴の液体を入れるタイミングは、一秒どころか、コンマ何秒のズレも許されない、それくらい難しいものでした。
ふたりでカチカチと秒を刻む大きな置き時計を横に、秒針が頂点をさしてすぐに、ふたりはそれぞれの両手のスポイトから一滴ずつの液体を落としました。
その瞬間、ぼふん、と湯気が上がって、液体は濁りました。
あろうことか、最後の最後で失敗してしまったのです。
天才猫さんにとって初めてだった『失敗』に、天才猫さんは大きく混乱し、そして落胆し、そのあとすぐに秀才猫さんを責めました。
「きみの入れたタイミング、少し遅かったんじゃないか?」
「……そうかもしれないね。僕のタイミングが、よくなかったのかもしれない」
ずっと一人で何もかも成功させてきた天才猫さんには、自分が『失敗』したのだと考えつくことが、どうしてもできなかったのです。
そんな天才猫さんをちらりと見て、秀才猫さんは目を閉じて少しだけ頭を下げました。自分の間違いではないとも言い切れないことがわかっている秀才猫さんは、ただ静かにその言葉を受け止めたのでした。
次の日、天才猫さんは珍しくイライラしていました。
初めての『失敗』という苦い経験を、他人を頼ったせいで味わうことになったと思っていたからです。だから天才猫さんは、今後はどんな理由があっても、誰かを頼るような研究や実験はやめようと心に決めました。
そうしてふと思いついたのは、噂に聞いたことのある“記憶と感情を売買できる時計屋”に行ってみることでした。
いっそのこと、失敗の記憶を他の記憶と交換してもらおうか。天才猫さんはそんなことも思いつきました。
けれど、それはなんとなく嫌な気がしました。別に失敗の記憶なんて、大した価値もないに決まっています。わざわざ汚点を他者に見せる必要もありません。
そう考えた天才猫さんは、たくさんあるポケットマネーを持っていって、良い記憶と感情を買って、ストレス解消すればいい。この時点ではそんな風に安易に思っての行動でした。
そうして思いついたことを全て成功させてきた天才猫さんは、善は急げだと、すぐに行動に移りました。
はたして時計屋の猫さんは、どこか機械のように感情を伺わせない、寡黙な猫さんでした。
「気分が晴れるような良い記憶を買いたいんだ。そうだ、いっそ一番良い記憶がいいな! これで売ってくれないかな?」
天才猫さんは開口一番そう言って、自分のポケットマネーを見せました。
けれど時計屋の猫さんは、ゆっくりとかぶりを振りました。
「記憶は記憶で買うなら等価で買える。けれど、金銭に換算すると、値は10倍になる。そんな金じゃ上等な記憶は買えない」
天才猫さんは目を丸くして仰天しました。昨日の『失敗』もそうですが、『否定』、『不可能』といったことも、今まで天才猫さんにはずっと縁遠いものだったのです。
それが、天才猫さんをかえって意固地にさせてしまいました。
「なら、このお金に足して、ぼくのいくつかの記憶を売ってもいい! これでもぼくは色々な研究や商売を成功させているんだ、だからその中のいくつかが減ったってかまわない。だから一番良い記憶を売ってくれ!」
時計屋の猫さんは、少しの間じっと自信満々で言う天才猫さんの目を見て、ひとつだけため息をはいてから、片手を差し出しました。
「……おまえさんの時計を見せな、」
時計屋の猫さんはそう言って、天才猫さんから首に下げられていた懐中時計を手にしました。
そうして時計屋の猫さんは、かちゃかちゃといくつかの不思議な道具を使って、しばらく慎重に懐中時計を調べました。天才猫さんは時計屋の猫さんがどうやってその特殊な懐中時計を操作しているのかはわかりませんでしたが、彼はこの世界で唯一懐中時計の記憶と感情に手を加えることを神様に許された猫さんでしたので、さすがに嫉妬したりすることもありませんでした。むしろ天才猫さんがこの世でたったひとり一目置いている存在、それが時計屋の猫さんでした。
けれど、そんな時計屋の猫さんは、一通りのことを終えたようで懐中時計を天才猫さんに返しながら、また首を横に振るだけでした。
「どの成功もろくな値がつかない。諦めて帰るといい」
その言葉に、あたかも自分の人生を全否定されたように感じた天才猫さんは、雷に打たれたような衝撃を受けて、混乱しながら気づけば家路についていました。
ですが更に翌日、今まで色んなことにチャレンジし成功させてきた天才猫さんは、ショックをやる気に変えて、もっともっとお金をため成功を作り、必ず一番良い記憶を買ってやるぞと、それはもう躍起になりました。
研究に明け暮れたり、特許を取ってみたり、誰も思いつかないような商売を始めてたくさんのお金を得たりと、急かされるように忙しく過ごしました。
ただ、ひとつだけ、もう二度と他者の手は借りないと決めたことだけを胸に、お金を稼いでは成功を積み重ねました。
そうして過ごしていたとある日、天才猫さんはたまたま例の時計屋さんのごく近くで用事を終わらせることがありました。
気付いてしまうとどうしても気になって、天才猫さんはなんとなくちょっとだけ時計屋さんを覗いてみることにしました。
すると中には先客がいたので、天才猫さんは邪魔をしないように、そっと中を伺いました。
中にいたのは、小さな子猫さんを連れた母猫さんでした。身なりや雰囲気からして、お世辞にも裕福とは言えないような、貧しそうな親子です。
そして、遠目にもやはり機械仕掛けのように表情を伺わせない時計屋の猫さんが、ぼそりと母猫さんに掛けた声が聞こえました。
「……この時間、本当に売っちまっていいのかい」
すると母猫さんは寂しそうに言いました。
「はい、……いいんです、仕方ありません、この子にさえ思い出と食べ物をあげられればよいのです」
それを聞き届けた時計屋の猫さんはただ一度だけ頷いて、天才猫さんにしたのと同じようにさっと手を差し出しました。そうして、母猫さんの持っていた懐中時計を受け取り、また同じように何をしているのかわからないですが見たことのない道具で作業を始めました。
そこで天才猫さんははっとして、これは覗いていいものではなかったかもしれない、と数歩だけ店から離れました。
天才猫さんにとって、その時間は一分には足らず五分では多いくらいでした。時計屋さんから、母猫さんが子猫さんに少し切なそうながらも笑みを向けつつ、その手を引いて出てきました。
そうして、母猫さんのもう片手には、充分過ぎるほどずっしりと感じられるお金の入った布袋がありました。
それを見て、前回と同じか、それ以上の衝撃が天才猫さんを襲いました。天才猫さんの思考は、一瞬完全に停止しました。
母猫さんが持っていたお金は、天才猫さんにとって、以前自分が提示したポケットマネーと比べて、あまりにも不公平だと思えるものだったのです。
――――おかしい。時計屋の猫さんは、きっと気まぐれや贔屓で金額を決めているに違いない。そうじゃなければ、どう考えたって釣り合わないじゃないか。
天才猫さんは次に頭が動き出した時にはそう考えていて、気付けば時計屋さんの店内に駆け込んでいました。
「どういうことなんだ!?」
不躾に怒鳴り込んできた天才猫さんを、けれど時計屋の猫さんは感情の窺えない平坦な目で見返すだけでした。
「ぼくはあんなにお金を出した! 足りないならって、記憶だって売るって言った! なのにあなたは、ろくに見もしなかった!」
天才猫さんは、感情任せに叫びました。
「だったら、さっきあれだけのお金を持って帰った母親は、いったいどんな記憶を売ったっていうんだ!」
感情的に言い募る天才猫さんでしたが、時計屋の猫さんは少しも動じることはなく淡々と答えました。
「記憶の内容も値も当事者以外には言えない。言わない。おれは、ただ提示された記憶に値を付けて渡すことと、提示された金と記憶に見合うだけの記憶を渡すことだけだ」
時計屋の猫さんはそう言って、「それが気に入らないってんなら、帰れ」とすげなく出て行けというようなジェスチャーで手を振るだけでした。
冷たいほどに冷静な時計屋の猫さんの態度に、逆にあおられた天才猫さんは感情が振りきれるほどかっとなり、気付けば啖呵を切っていました。
「なら! ぼくの今あるお金と、成功の記憶! 全部売ってやるから、それに見合うだけの記憶をくれよ!」
時計屋の猫さんは、目を閉じ以前と似たようにひとつため息をついて、それから再び天才猫さんに向き直りました。
「おまえさんがそれでいいってんなら、そうするが。いいんだな」
「もちろんだ! ぼくは今まで、失敗したことは――――ぼくがしたことで失敗したことは、一度だってないんだ! きっとあなたも、今回こそ最高の記憶を売るしかないって思うに決まってる!」
「……わかった。じゃあ、時計をよこしな」
時計屋の猫さんはただそれだけ言っただけでしたが、頭に血が上っている天才猫さんは『わかった』という言葉で最高の記憶が手に入るのだと勘違いして頷きました。
そして、今までずっと首から下げてきた懐中時計を、時計屋の猫さんに渡しました。
時計屋の猫さんが、また同じように時計をいじりはじめてしばらくすると、ふわりふわりと天才猫さんの頭の中で不思議な異変が起こりました。強いて例えるならまるで、しゃぼん玉が弾けるような、そんな感覚でした。
そして気付けば、天才猫さんの頭の中には、少しの記憶しか残っていませんでした。
残っているのは――――幼い頃、悪戯をして母親に怒られて許された記憶や、初めてテストで満点以外を取った時、それをぐしゃぐしゃに小さく丸めてゴミ箱の一番下に隠した記憶など、幼い頃のわずかな部分――――そして最近のものでは、秀才猫さんと一緒に実験をして失敗した記憶くらいでした。
そのどれもが、天才猫さんにとっては汚点だったはずなのに、残った今になったからでしょうか、なぜかそれらからわずかに温かみが感じられる気がしました。
そうして、ひとつだけ見知らぬようで、よく知っているような、おかしいはずなのに違和感のない記憶がひとつあり、天才猫さんはそれにぶわりと毛並みが柔らかな空気を含んで膨らんだような気がしました。そしてその温かさは毛先まで行き渡り、穏やかな気配にほどかれていきました。
不思議なぬくもりに包まれる中、天才猫さんは何が一番おかしいか理解できていました。なぜならそれは、誰もが持っているはずで、誰もが本来忘れているはずのものだったからです。
それは、あまりにも暖かいたくさんの笑顔に囲まれた中で、赤ちゃん猫が生まれた瞬間に嬉しくて泣いた記憶でした。
「…………ねえ、」
我知らず天才猫さんは声に出していました。
先程までの癇癪はすっかり落ち着き、冷静さを取り戻し始めていた天才猫さんの声音はどこまでも凪いで静かでした。
対する時計屋の猫さんの返事も、また静かなものでした。
「なんだ」
「――――この記憶の価値は、最高のもの?」
「まあそこそこ上等、くらいだ」
「……そう、」
天才猫さんは、それが最上のものではないと知っても怒ることなく、ただ事実を受け止めました。
そうして称賛されながら生きてきたほとんどの記憶を売ってしまった天才猫さんは、自分が何をして生きてきたのか、うまく思い出せませんでした。更に、全てのお金を費やして、自分がこれからどうすればいいのかも、よく分からなくなっていました。
「……ぼく、こんなに空っぽなのか。ぼくは明日からどうすればいいんだろうな、」
自嘲気味に、けれどなぜか時計屋の猫さんに対して負の感情も抱かず、ぽつりと天才猫さんはつぶやきました。
答えを求めていなかった、ただこぼれた言葉に、初めて時計屋の猫さんは自分から口を開きました。
「おまえさんが売ったのは全部、成功の記憶だ。だから――――失敗の記憶。それならまだ持ってるだろ」
「ある、けど……あんなのでどうしろっていうんだい?」
「その記憶を売れば、今払った金くらいは返してやれるぞ」
記憶と記憶は等価。けれど、金銭価値にすると十倍――――その仕組みを、天才猫さんははっと思い出しました。
「売るか?」
どうしてか、天才猫さんはすぐに答えられませんでした。あんなもの全部、生きてきた中の汚点だったはずなのに。
見越していたように、時計屋の猫さんは「だろうな、」と返事を待たずに言葉を継ぎました。
「失敗の記憶ってのはな、たいてい、同時に誰かに赦されているもんだ」
だから結構値が付きやすい。そう言われて、少し前、秀才猫さんが失敗の責任を引き受けてくれたときの苦笑が、天才猫さんの脳裏をよぎります。
「妙な勘違いしてるやつが多いがな、本当に値のつく記憶ほど、誰も売ろうと思いもつかないのさ」
時計屋の猫さんは、肩を竦めて皮肉気味にそう言葉を締めくくりました。
こころの不可思議の真ん中を射るようなその言葉で、初めての感覚と感情を持て余しながら、天才猫さんは思わず自分の胸に手を当てました。そこにはただ、時計のように規則正しく鼓動する、自分の心だけがありました。
ある時計屋と天才猫の話 倉澤ちえ @krsw_neko
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