無光層
川瀬えいみ
無光層
生臭く生あたたかい暗闇の中に、私はいた。息をするのも困難なほどの湿気。海が近いのだろうか。この生臭さは、そういえば死んで腐った魚のそれに似ている。
振り向くと小さな光が見えた。目に突き刺さるような鋭い光だ。課された義務を果たさずに外に出ると命がないことはわかっていたので、私は光に背を向けた――背を向けるしかなかった。自分に課された義務が何なのか、私は知らないのだけれど、それでも私はこの洞窟(?)の奥に向かって進むしかない。
左右の幅も天井の高さも識別できない闇の歩廊。蠟燭や松明をかざし持つ従者もいないので、私は自分の歩の進め方を自分で決めるしかなかった。私は、壁伝いに注意深くそろそろと進むことにした。ところが、頼りの壁にはぬめぬめと粘液のようなものが貼りついていて、手の平全体で触れることは憚られる。そんなことをしたら、私の身体は、手の平から、この軟体動物のような壁に呑み込まれてしまいそう。だから、触れるか触れないか、右手の人差し指の先で壁をつつきながら、私は少しずつ奥に進んだ。
どれほどの時間、どれほどの距離を歩いただろう。洞窟が急に狭くなった。
この狭い道を通り抜けて向こう側に出れば、逆行して元の場所に戻ることはできなくなる。死んで腐り落ち泥状の何かになって流れ出るか、逆に鋼のように強固な肉体を得て、この狭い道を打ち壊してしまう以外の方法では。つまり、死ぬか生まれ変わるかしなければ。私はどちらも嫌だ。
どちらも嫌だけれど、その気持ち以上に重要なことは、何としても元の場所に戻りたいと、私が願っていないことだ。
狭い通路を少し進むと、予感通りに広い場所に出た。目で確かめたわけではない。頬や剥き出しの肩で感じ取れていた圧迫感のようなものが弱まったので、そうだろうと察しただけ。
周囲は相変わらず生臭く、生あたたかい。本当にここはいったいどこなんだろう。
私は、敵国アッシリアに行くよう神に命じられた預言者ヨナのように、巨大な魚に呑み込まれたんだろうか。ここは巨大な魚の腹の中?
いいえ、神が用意した避難場所がこんなに臭くて不快なはずがない。
では、私はなぜここにいるの。何かから逃げているの?
それとも、私はここに逃げ込んだわけではないのかしら。やはり、預言者ヨナのように、神が私に何事かを成し遂げさせようとしている?
まさかね。
我ながら馬鹿げた考えだ。私は自嘲気味に笑った。声を出して笑ったつもりだったのに、私の声はぬめぬめした洞窟の壁に吸い取られてしまった。
壁に吸い込まれていったのではなく、吸い取られた。
え? それはどういうこと? 洞窟の壁が生きているとでもいうの?
それこそ馬鹿げた考えだと、私は自嘲を重ねた。
今度は、笑い声が壁から滲み出てくる。ぬめぬめと不快なこの洞窟も、私と同じことを思ったのかしら。それは馬鹿げた考えだと?
そうね。生きている洞窟に囚われたただなんて、馬鹿げた妄想。まだ巨大な食虫植物に囚われたという空想の方が正鵠を射ているような気がするわ。
とはいえ、意思を持っているかのように、洞窟の壁が蠢いているのは事実。
もしかしたら、ついさっき声をあげて笑ったのは、本当に私自身ではなく洞窟自体だったのかもしれない。そうと信じられないこともない。むしろ、その方が理に適っているような気がするわ。
なにしろ私は信心深い人間ではない。その上、生まれながらに原罪を背負わされている女だ。子を産むこと以外に、神が私に何らかの仕事を命じるはずがない。
好きで女に生まれたわけじゃあないけどね。まあ、そういうものとして生まれたからには、そういうものにふさわしい生を楽しみたいとは思っているけれど。
それにしても、ここはどこ。この闇は何。
私の視力が失われたわけではなさそう。闇の中にいると最初に気付いた時、私の目は確かに光を捉えたのだもの。
私は誰かに誘拐された? そして、海辺の洞窟に閉じ込められた? それは見当違いな推測だろうか。
この湿気は海が近いせいで、生臭さの元は魚の死骸だと決めつけていたけれど、ここに充満している臭いは腐った卵のそれにも似ている。
卵の腐敗臭が充満している場所というとどこだろう。鶏や家鴨が卵を捨てに来る場所でもあるのかしら。卵の墓場?
ひなが孵る前に人間に食われてしまうくらいならいっそ――と考える母鳥がいても、私は嘲ったりしないわよ。もしそうなのであれば、私はこの場所のことは誰にも言わない。永遠に秘密にしておく。母鳥たちは、この場所を無慈悲な人間たちには決して知られたくないでしょうから。
とはいえ、この臭い。同情心で耐えられる臭いじゃないわ。
ここにいるだけで、臭いが肌に染み込んでいくよう。どれだけ香油をふりかけても消えそうにない――むしろ香油と混じり合って更なる悪臭になりそうな臭い。すべての悪臭を集めて香油瓶に凝縮したような臭いだわ。
卵の墓場なんて馬鹿げた考えは、さっさと捨てるとして。
誘拐? 私は何者かに拐かされたの?
誰かに誘拐されるような価値が私にあったかしら。私は、身代金を取れるほど裕福な家の生まれなの?
それとも、私は一人の女として高い価値を有しているのかしら。私は美しいの? 若いの?
どうかしらね。随分長く生きていたようにも思えるけれど、それにしては私は自分が今いる場所もわからないほど弱いおつむしか持ち合わせていないようだし。まあ、未通女でないことだけは確かでしょう。
ただ、今の歳の実感はない。
そもそも若さなんて、いつかは失われるもの。明日には無価値。
人間の美しさだって、一皮むけば、誰も大差ない。老若男女の別なく、金持ちも貧乏人も変わらない。絶世の美女もしみだらけの老女も、たった一人でこんな洞窟に閉じ込められたら、目も耳も鼻もない不気味な姿のヒル同然。
いいえ、ヒルの方がましかもしれない。ヒルなら、この洞窟を不快と感じることはないだろし、あの狭い通路を逆行してここから逃げ出ることだって可能でしょうから。
目も耳も鼻もないヒル以下の私はどうなるのかしら。この不快な場所に永遠に閉じ込められたまま?
考える力も湧いてこない。眠い。
どことも知れぬこんな場所で眠るなんて、誰かに危害を加える許可を与えるようなものだけれど、誰かがこの洞窟に入ってこれるなら、それは希望と捉えるべきことなのかもしれない。
我が身の安全以前に、こんな気持ちの悪い場所で眠れるのかと懸念を抱きもしたけれど、眠気には勝てそうにない。
「イザボー」
睡魔に侵され意識を手離す直前、誰かに名を呼ばれた気がした。
これは神の声? 悪魔の声? それとも、あなたの声だったかしら。
私は目を開けた。相変わらず、私は闇の中にいる。私は闇の中に座り込んでいた。
違う。周囲は闇のままだけど、私の手元にだけ、薄い明かりがたまっていた。前日までの嵐が過ぎ去った真夏の昼、農道にできた小さな水たまりのよう。時を置かずに意地の悪い太陽に存在を消されてしまいそうな、小さな光だまりだ。
そのか弱い光の中には一枚の紙があった。様々な色の端切れが六枚貼られている。ドレスを作る時に仕立て屋が持ってくる布地の見本のようだ。
白、青味を帯びたクリーム色、薄桃色、黒鋼色、茶色、鼠色。色だけでなく、肌ざわりも違う。どれかを選べということだろう。
「これがいいわ」
私は、見本の中から一つを選んだ。
次は、糸の見本。
黒、茶色、灰色、金色、銀色、赤――細い糸、太い糸、まっすぐな糸もあれば、波のようにうねった糸もある。
もしかして、本当に私のドレスを作ろうとしているの? 中の一つを指で示す。
次に選ぶのは宝石。
青、緑、紫、黒、茶、灰色。
この見本を持ってきた宝石商は、まるで気が利かない愚図のようね。ダイヤがないじゃないの。ルビーもない。真珠もない。
この宝石商の王宮への出入りは、今日を限りに禁じてしまおう。そんなことを思いながら、私はしぶしぶ、示された六つの石の中から一つを選んだ。
次に私の前に並んだのは果物だった。
熟した洋梨、潰れかけたアケビ、ひしゃげた無花果。それからウツボカズラのような――これも果物なの? 私がこの洞窟に連れてこられたのは、私のドレスを仕立てるためじゃなかったの?
どれも選びたくなかったけれど、これも私に課せられた義務だから――私は皮肉な気持ちでウツボカズラを選んだ。
次に出てきたのは、妙にぶよぶよした――これはミミズ? 魚の内臓? これこそヒルだろうか。でも、かさかさに乾燥したものもある。色だけは、さくらんぼ色、にんじん色、白味がかった苺色と、妙に明るいものが揃っているけれど。
私はいったい何を選ばされているの。かなり投げやりに、私は中の一つを指差した。
このわけのわからない作業はいつまで続くの。もう、うんざり。
私は、神を呪う金切り声をあげようとした。
どうせ、ここには誰もいない。おそらく神も。どんな汚らわしい言葉を吐いたって、神に聞こえさえしなければ、地獄に落とされることもないでしょう。
そう考えて、私は神に挑むように大きく息を吸った。そうして吐き出した呪いの言葉。
確かに吐き出したはずの声を、私の耳は聞くことができなかった。その声を聞き取る前に、私は洞窟の外に追い出されて(?)いたから。
私は砂浜にいた。海は見えない。周囲にあるのは砂ばかり。にもかかわらず、ここが砂漠ではなく砂浜だとわかるのは、砂が生臭く湿っているから。
これはどういうこと? ここで魚や貝でも採集しろと? 私は漁師ではないのに。
私が砂浜でできることは(砂浜に限ったことではないけれど)、遊ぶことだけよ?
ええ、わかってるわ。これも私に課せられた義務なのね。
私は砂遊びを始めた。砂で塔を作るか、穴を掘るか。暫時迷ってから、私は湿った砂を掻き集め、塔を作り始めた。無心に、必死に。
この砂の塔が天に届くことはない。それはわかっていたのだけれど。
また、誰かが私を呼んでいる――。
「王后陛下、お気づきになられましたか。おめでとうございます。お健やかな王太子様のご誕生です」
瞼を上げなくても、自分がもうあの洞窟の中にいないことはわかった。目を閉じたままでも光を感じ取ることができたし、私に王太子誕生を知らせる産婆の声は、石壁にぶつかって撥ね返ってきた堅苦しさをまとっていたから。
私は産褥にいた。といっても、分娩椅子は既に片付けられ、私の身体は寝台に横たえられている。
闇に慣れた目を、私はゆるゆると開けた。
「お見せ」
右手の人差し指の先だけを動かして、私は産婆に命じた。
何はともあれ、生まれた王子の――私が産んだ子の――姿を確かめなくては。
私は気を失っていたの? どれほどの時間? あまり長い時間でなかったらいいのだけど。産婆や女官たちは致し方ないとしても、私の目より先に王子の姿を見る男の目があってはならないわ。
私の憂いを察したのか、私が問う前に、私の知りたいことを産婆が知らせてくれた。
「王太子様は産湯をお使いになり、ただ今は別室で産着をお召しになっておられるところでございます。まもなく、こちらのお部屋においでになりましょう」
私はさほど長く意識を失っていたのではなさそう。
少しずつ――意識が明瞭になるにつれ、混乱していた記憶の時系列が正されてくる。
私があの洞窟の夢を見たのは、もう何ヶ月も前のこと。あの洞窟での結果を、私は今日産んだわけね。
ああ、疲れた。赤ん坊を産むのがこんなに大変なことだったなんて、新しい発見だわ。これまでに幾度も――十回以上――経験してきたことなのに、今回は特に命がけの難事業だった。記憶の混乱も当然よ。今度の子は呪われているんじゃないかしら。
まあ、そんなふうに思うのはかわいそうね。少なくとも、王太子は私の命を奪わなかったいい子よ、とても。
私の寝室の扉が開く。いよいよ我が子と対面かと、私は思ったのだけれど。
「お世継ぎのご誕生、おめでとうございます、イザボー様」
祝辞を口にしながら部屋に入ってきたのは、幼な子ではなく、成人した六人の男たちだった。
王子誕生の報を受けて、誰よりも先に祝辞を言うために、王妃の産褥に押しかけてきたらしい。
黒い髪と茶色の瞳の王弟。
金色の髪と緑の瞳の近衛隊士。
銀色の髪と灰色の瞳の王宮医。
黒い鋼の肌の勇猛な将軍。
鼠色の肌のダンス教師。
赤毛と青い瞳の小姓頭。
みんな、私の親しい友人たち。
布地の見本、糸の見本、ダイヤやルビーを欠いた宝石型録――。親しい友人たちの肌、髪、瞳、鼻の形、唇の様子を見渡した私は、あの洞窟で自分が何を選んでいたのかを理解し、並べられた見本の出どころに気付いた。
してみると、浜辺での砂遊びは子どもの性別を決める行為だったのね。その決定だけは、見本を必要としない。
私、誰の肌色、髪色、瞳の色を選んだのだったかしら。
いやだ、王子の鼻の形がウツボカズラになるということ? どうしましょう。物心がつくまで成長したら、王子はそんな鼻を選んだ私を恨むかもしれない。
でも、今はそんなことより。
どうしたものかしら。私は、私の夫である国王の姿を思い出せない。隣り合った国同士の政略で結婚して十八年、最近ではろくに顔も合わせていなかったのだから、それも当然。
完全には覚醒しきっていない頭を宥めすかして目覚めさせ、私はこれまでにも何度か繰り返したことのある思案を始めた。
肌の色――肌の色が将軍のような黒鋼色でさえなければ、何とでも言い逃れはできるわ。何とでもする。髪の色は染めればいい。ああ、でも、瞳の色は……言い訳のできない色だったら、どうすればいいかしら。王子と同じ色の瞳を持つ先祖をまた捏造するしかないかしら。
『世継ぎの誕生、おめでとう』だなんて、私の親しい友人たちは、素敵に白々しいこと。
今度の王子が誰の子なのかを一刻も早く知りたくて、王妃の産褥に馳せ参じたのでしょうに。
「国王陛下が王后陛下を労いにおいでです」
王の侍従の先触れが、私の寝室に飛び込んでくる。
いったいどういう気まぐれかしら。顔も覚えていない私の夫――フランス王が、もうやってきた。
『やっとご登場』と言うべきかしら。王太子の父である王は、私の親しい友人たちに完全に遅れをとっている。
でも、王子が生まれたその日のうちに、妻の産褥にまでやってくるなんて――王も王子の誕生を喜んでいるのかしら。
王の妻である私が産んだ男子は、この国の王位継承者。その王位継承者がこの男の子でないことは、私にはわかっている。
「我が后イザボー。具合いはどうか。疲れているようだが。顔色が真っ白だ」
王は光の中から問うてきた。
白い光。
闇に慣れ、闇を好む私の目には眩しすぎて、私は王の顔色を確かめることもできない。
「陛下のお気遣い、嬉しく思います」
「何か心配事でも?」
「いいえ。王に跡継ぎを差し上げるという后としての務めを果たすことができたことを知り、安堵したのです。今度こそ、無事に成人してほしいものでございます」
私は命がけの仕事を終えたばかりで、疲れ切っているの。ここで王に頭を下げる必要はないわよね?
神への誓い背き、姦淫の罪を犯し、夫を裏切る邪悪な女――。私は、自分が臣民から『淫乱王妃』と罵られていることは知っているわ。
だからなに? それがなに? 私がフランスと王権に損害を被らせたことが、これまでに一度だってあったかしら。
私がこれまでに産んだ男子は、第一子シャルル、次男のシャルル、三男のルイ、四男のジャン、みな夭逝した。王と神によって夭逝させられた。みな王の子だったのに。
王子たちとは対照的に、イザベル、ジャンヌ、マリー、ミシェル、カトリーヌ――王女たちはみな健やかに育っている。サリカ法に依って王位に就けない王女たちは、誰の子であっても殺す価値もないということなのでしょうね。
「ならばよいが」
光の中で、王が微笑む。国民から愛され敬われる『親愛王』にふさわしい柔和な微笑。狂気の片鱗が見え隠れする穏やかな笑み。
「なに、何の心配もいらない。この国では、赤ん坊の三人に一人は一歳になる前に命を失うのだから」
悪魔のような神。神のような悪魔。常に、おぞましいほど暗く明るい光の中に在る人。それが私の夫。
その微笑みさえ、私はもう怖くない。
無光層 川瀬えいみ @kawase-eimi
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