深夜二時の三分クエスト

@inenoe

深夜二時の三分クエスト

 午前二時。深夜の静寂を切り裂くように、電気ケトルのスイッチがパチンと跳ね上がった。ボコボコと泡立つ湯の音だけが、今の俺に残された唯一の癒やしだ。


 手元にあるのは、ドラッグストアのセールで買った一個八十八円のカップ麺。パッケージには「シンプル・イズ・ベスト」なんて都合のいい言葉が踊っているが、要するに具なしの素ラーメンである。かやくの袋すら入っていない潔さだ。

 蓋を半分まで剥がし、内側の線ぴったりに熱湯を注ぐ。ここまでは、どこの独身アパートでも繰り広げられる侘しい光景だろう。だが、俺の場合はここからが違う。


 スマホのタイマーを三分にセットし、スタートボタンを押した瞬間――立ち昇る湯気の向こうに、透けた顔色の悪いサラリーマン風の男が立っていた。


「……あのぅ、すみません」

「要件を言え。時間は三分しかない」


 俺は割り箸をパキリと割りながら、眼前の浮遊霊を睨みつけた。

 これは幻覚ではない。いや、最初は連日の残業による過労で、脳の回路が焼き切れたのだと思っていた。

 だが、違った。この「カップ麵を待つ三分間」という短い隙間に彼らの未練を晴らしてやると、どういう理屈か、この貧相なカップ麺が劇的に美味くなるという事実に気づいてしまったのだ。


 つまり、今の俺は単なる寂しい独身労働者ではない。今から食う飯を豪華にするために、霊の悩みを解決してやる善人だ。


「未練はなんだ。女か? 金か? それとも消し忘れたブラウザの履歴か?」

「えっと、実は……」


 タイマーの数字が減っていく。残り二分五十秒。俺の至福の一杯を賭けた、短い戦いが始まった。


「……部下の佐藤くんに、金庫の暗証番号を伝える前に死んじゃって……! 中には明日の朝イチで必要な契約書が!」


 男は涙目で訴えてきた。なるほど、典型的な社畜の未練だ。


「会社名は?」

「株式会社〇〇です!」

「佐藤の下の名前は?」

「健太です!」


 俺は片手でスマホのフリック入力を高速で叩く。

 残り二分十秒。検索エンジンで会社名を打ち込み、SNSのリアルタイム検索へ飛ぶ。

 深夜二時。この時間帯に起きている社畜なら、必ずネットの海に悲鳴を上げているはずだ。俺もそうだからわかる。


 予想通りヒットした。

『部長が急死してマジで詰んだ。金庫開かない。明日までに契約書出さないと会社終わる』

  アカウント名は「satoken@社畜」。五分前の投稿だ。間違いない。

 というか、こいつ情報モラルがなさすぎやしないか? 会社名も出してるし、アカウント名もほぼ実名……まあ俺には関係ないが。


「番号を言え」

「えっ?」

「暗証番号だ! 早くしろ、時間がない!」

「あ、一、二、二、九です!」


 俺はその投稿に対し、捨て垢を使ってリプライを飛ばした。


『部長の霊曰く、1129だってさ』


 残り一分ジャスト。

 幽霊の男が、不安そうに俺のスマホ画面を覗き込む。

「そ、そんな怪しいリプ、信じてもらえますかね……?」

「深夜二時まで起きてる追い詰められた人間はな、藁だろうが蜘蛛の糸だろうが掴むんだよ」


 数十秒の沈黙。カップ麺の容器が微かに震え、醤油スープの香ばしい匂いが漂い始める。

 その時、スマホが通知音を鳴らした。


『開いたあああああああ!! マジでありがとうございます!! 部長ありがとう、成仏してくれ!!』


「よっしゃ!」


 俺がガッツポーズを決めると同時に、幽霊の男の体が光の粒子になり始めた。


「あぁ……佐藤くん、よかった……。あなたも、ありがとうございました……」 「礼はいい。さっさと行け」


 男が完全に消え去ると同時に、ピピピピ、とタイマーが鳴った。

 三分終了。完璧なタイムマネジメントだ。


 俺は期待に喉を鳴らしながら、ペリペリと蓋を完全に剥がした。湯気とともに現れたのは――。


 本来なら貧相な縮れ麺しか入っていないはずの容器一面を覆い尽くす、分厚いバラ肉のチャーシューが五枚。さらに、半熟の煮玉子が黄金色の輝きを放って鎮座していた。

 特売のカップ麺が、行列のできる名店の特製チャーシュー麺に化けたのだ。


「……これだから、深夜二時のカップ麵はやめらんねえ」


 俺は割り箸を割り、肉厚のチャーシューを一枚持ち上げる。ずっしりとした重み。噛み締めれば、ジュワリと脂の甘みが口いっぱいに広がった。

 俺は深夜のワンルームで一人、ズルズルと至福の音を響かせた。





 翌日の深夜も電気ケトルの前に立っていた。

 今夜の相棒は、コンビニで見つけた新作『背脂マシマシ・ニンニク激辛地獄麺』だ。疲労困憊の体には、暴力的なカロリーと刺激が必要だ。昨日のようにチャーシューが増えれば、最強のスタミナ食になるはずだ。


 期待を胸に熱湯を注ぐ。

 タイマー、スタート。湧き上がる湯気の向こうに現れたのは――割烹着を着た、優しそうな老婆だった。


「あらあら。こんな夜更けに……お体に障りますよ」

「……今日の客は婆さんか。悪いが時間は三分しなかい。何が未練だ?」

「それがねぇ、孫のことが心配で成仏できなくてねぇ。あの子、私が死んじゃって落ち込んでるみたいだから……ご飯もちゃんと食べてるのかしら」


 情に訴える系か。こういう類は失敗しやすい。

 俺はため息をつきつつ、スマホを構える。

「孫の連絡先は?」

「ライン? とかいうのは知らなくて……電話番号なら」

「それでいい。番号を言え」


 残り二分。

 教えられた番号にショートメッセージを打ち込む。老婆の温かい口調を脳内で再現し、入力する。


『タカシ、ばあちゃんだよ。天国から見てるけど、あんたが元気ないと悲しいよ。冷蔵庫にプリンあるから、それ食べて元気お出し』


「プリンなんてあるのか?」

「ええ、私が死ぬ前に買っておいたの。賞味期限、切れてないかしら」

「知るか。腐ってても、食えば生きる気力も湧くだろ」


 送信ボタンを押す。時間は残り一分。既読がつかない。

 そりゃそうか、深夜二時だ。もう寝ているか、あるいはスマホすら見ていないか。

 焦りが募る。このままでは時間切れだ。


「おい婆さん、念じろ。孫の夢枕に立つつもりで名前を呼べ!」

「タカシ……ご飯食べて……」


 残り三十秒。

 スマホが震えた。


『ばあちゃん……? ごめん、俺、頑張るよ』


 短い返信。どうやら通じたらしい。


「あぁ、よかった……。ありがとうねぇ、親切なお兄さん」

「いいから行け。麺が伸びる」

「ええ、ええ。お礼に、お兄さんのご飯も『体にいいもの』にしておくからねぇ……」


 老婆は慈愛に満ちた笑顔を残し、光となって消えていった。


 ピピピピ。タイマーが鳴る。

 ミッションコンプリートだ。

 俺は涎を垂らしながら、『背脂マシマシ・ニンニク激辛地獄麺』の蓋を勢いよくめくった。

 さあ、今日はどんな肉祭りだ?


「…………は?」


 俺は目を疑った。真っ赤だったはずのスープは、透き通るような黄金色の和風出汁に変わっている。ギトギトの背脂は跡形もなく消え失せ、代わりにたっぷりのほうれん草、煮た大根、そしてとろろ昆布が、優しく麺を覆っていた。

 あろうことか、油揚げ麺は真っ白な「手打ち風うどん」に変化している。


 ――『体にいいもの』にしておくからねぇ。


 老婆の最期の言葉がリフレインする。


「ふざけんな! 俺が食いたかったのはジャンクなのに……!」


 深夜のワンルームに、俺の絶叫が虚しく響いた。

 だが、文句を言っても変質した麺は戻らない。俺は仕方なく、その「特製お節介うどん」をすする。


 ……ズズッ。


「……っ」

 

 染みる。鰹出汁の優しい香りが、疲れた胃袋と荒んだ心に、痛いほど染み渡る。  ニンニクの刺激など比ではない。

 これは、実家の味だ。ジャンクフードで誤魔化していた疲れが、物理的に癒やされていくのを感じる。


「……くそっ。余計なことしやがって」


 俺は目頭が少し熱くなるのを感じながら、スープの一滴まで飲み干した。


 明日の深夜も、俺はお湯を沸かすだろう。腹を満たすためか、それとも、誰かの未練を晴らすためか。それは、蓋を開けてみるまで分からない。

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