Article 9 永遠の愛 — それは福音なのか、呪文なのか！？

廃屋の様な古いビルだった。

階段を上がるたびに、鉄骨の軋む音がした。

手摺りを覆う赤茶けたサビが、鉄の皮膚をめくり上げるように侵食している。

エレベーターはない。

男は薄暗い階段の上を見上げる。

「本当にこんな場所にあるのか...？」

三階の突き当たり、プレートの外れた質素なドア。

「古物診断所」とだけ書かれた、不自然に曖昧な看板。

男は息を付く。

「ここかよ...」

男は震える指でドアを押した。

中は薄暗い。

昔の会社で使われていたような、安い蛍光灯。

スチール机が二つ並び、奥にはキャビネット。

壁は黄ばんでいるが、どこか整っていて乱雑ではない。

古い事務所。

しかし、空気が異様に静かだ。

窓が全て磨りガラスのせいか、室内が白んで見える。

カウンターと思しき木製テーブルの前に座っていた女――ミナトが、静かに立ち上がった。

白いシャツに黒のタイトスカート。

髪は後ろでひとつに束ねられ、整ったその顔が男を見た瞬間、男は息を呑んだ。

均整の取れた身体が、ヒールの音を深く響かせながら男に近付いてくる。

男は、ミナトの全身を値踏みするように眺めた。

（なるほど、この女がこのボロい部屋を飾る唯一で最高級の調度品ってわけか）

「ようこそお越しくださいました。

　では、まず書類の確認をさせていただきます。

　こちらにお座りください」

ミナトは男をパーティションで仕切られた狹い応接スペースへ誘導する。

清潔で澄んだ声。しかし温度はない。

男とミナトは低いガラステーブルを挟んで、向かあいあって座っている。

男は分厚い封筒を差し出す。

ミナトは封を切り、内容物を一枚ずつ見ていく。

男はミナトの白い手の動きをじっと見つめていた。

紹介組織の承認状、紹介コード、守秘契約。

費用の受領証には、途方もない額が記されていた。

ミナトは淡々と質問を開始した。

「まず初めに、どこでこの事業を知りましたか？」

「……仲介の者が……。知人の紹介で……」

「知人の氏名を。」

「そ、それは……言えません」

「承知しました。

　では、仲介者の登録番号と、手数料の支払い方法を」

男は焦りながら答える。

ミナトは手帳の照合表に目を走らせる。

「ありがとうございます。

　匿名性が高い経路ではありますが、規定範囲内です」

ミナトは次の紙を取り上げた。

「守秘義務契約について、内容はご理解されていますね。

　業務内容、場所、担当者に関する情報を外部へ漏らした場合、

　仲介組織による“処理”が行われること」

男は小さくうなずいた。

「……ご理解いただけているなら結構です。

　では――依頼内容を、どうぞ」

男は唾を飲み、声を絞り出した。

「妻を……依頼したいんです。

　今、病院で……意識がなくて……。

　もう……長くは……」

ミナトは瞬きもせず聞いている。

「奥様のご年齢と、病名を。」

「四十四です……肝臓の……末期で……。

　医者は……あと数日だと……」

ミナトはわずかに頷いた。

「つまり、亡くなる前に“転写”を行いたい、ということですね。」

男は強くうなずく。

「そ、そうです！　どうか……お願いします……！

　妻の……妻の資産のことを……話せるのは……彼女だけで……。

　亡くなったら……全部……わからなくなる……！」

ミナトの赤い唇が、わずかに波打った。

「奥様とのご関係をもう少し詳しくお話しください。可能な範囲で結構です」

その顔は、唇以外のすべてが静止していて、

まるでCGで造られた映像のように、現実味のない動きだった。

男は貧乏ゆすりをしながら、下を向いて話し始めた。

「私は...婿養子なんです。妻は大変裕福な家の出で...」

男は、組んだ両手を震わせている。

「実は、いろいろありまして...今は、経済的に妻の実家の支援に頼らざるを得ない状況なのです。妻の実家は私でなく妻に送金していて、妻は『あなたは余計な事を心配しなくてよい』と言って、金銭を含め、どこにどれくらいの資産があるかなど、私には一切教えないのです...」

ミナトが男を制すように切り出す。

「つまり奥様が財産管理の一切を仕切っていて、あなたはそれについて何も知らされていない。この状態でもし奥様がお亡くなりになると、あなたは文無しになって露頭に迷う事になる、なので、奥様がご存命のうちに、奥様の脳内の財産情報を転写しておきたい、という理解でよろしいですか？」

男は卑屈な表情を浮かべ、ミナトを一瞬だけ見て、また俯いた。

「はあ、まぁ、そんなところです...」

その瞬間、ミナトの瞳の温度がすっと落ちた。

「申し訳ありませんが――お引き受けできません」

「な……何故だ！？

　金は払った！　しかも大金だ！

　私にサービスを受ける資格がないとでも言うのか！」

「資格とは、“取引に値する動機”のことです。

　あなたの依頼は、一過性の利得目的です。

　そのような目的のためにデュプリカントを生成することは、

　当オフィスの基準では不適格です」

男は机をガラスのテーブルを叩いた。

「ふざけるな！

　じゃあ何が“適格”なんだ！？

　俺の金を無駄にする気か！

　大枚を叩いたんだぞ！！」

ミナトは一切動じない。

「無駄かどうかは、あなたの判断です。

　ただ、書類にもございます通り――

　依頼の受諾は、我々の“選択権”です」

「金を取っておいて断るのか！？」

「お支払いは“紹介組織”に対して紹介料として行われたものであり、

　ここはその審査機関にすぎません。

　こちらに返金義務はありません」

男は顔を真っ赤にして罵倒を吐いた。

「大金を巻き上げといて、この.……！

　偉そうにしやがってよ……！　女のくせに……！」

ミナトは目線を上げた。

怒りはない。軽蔑すらない。

ただ、価値の喪失を確認する視線。

「最後に一点だけ、申し上げます」

ミナトは丁寧に深く頭を下げた。

「本日の出来事、当オフィスの存在、

　仲介組織の情報を外部に漏らされた場合――

　あなたの生命の保証はありません。

　これは、契約書に明記された“承諾事項”です」

男の顔色が一気に蒼白になる。

テーブルの上の書類を乱雑に鞄に仕舞い込むと、男は逃げるように部屋を出ていった。

扉が閉まる音だけが、古い部屋に反響した。

奥の扉が静かに開いた。

薄暗い奥から、髪の長い無精髭の男――九条斎が、

静かに姿を現した。

細い体。無表情。

全てを聞いていたようだが、感情の影はない。

ミナトは振り返り、浅く頭を下げた。

「先生……コーヒー、淹れましょうか？」

九条は小さく頷いた。

「頼む」

古い雑居ビルの空気は、

何事もなかったように、再び静寂に沈んだ。