死の床で気づいた、私は乙女ゲームのヒロインだった

みなも

死の床で気づいた、私は乙女ゲームのヒロインだった

息が、浅い。


天蓋の向こうの光が滲んで、輪郭だけが残る。

白い布の匂い。薬草の苦い甘さ。

遠くで誰かが小さく水を替える音がする。


私の手を握っている人の指先だけが、やけに現実的だった。


「……行かないでくれ。君がいなくなったら、俺は……」


夫の声が震える。泣いている。この人が、こんなふうに泣くのを見たのは――初めてかもしれない。


泣かないで、と言いたい。

大丈夫よ、と言いたい。

五十年分、言ってきた言葉のはずなのに、喉がもう動かない。

指先も、返事の形を作れない。


それでも、目だけは夫の顔を追う。


皺だらけの頬。白くなった髪。昔と変わらない、静かな目。


――そのとき。


視界の端に、半透明の四角がふわりと浮かんだ。


『★期間限定★ 死後の世界で使える「前世のチート能力」ガチャ開催中! 今なら初回10連無料!』


……は?


もう一枚、ぴょこん。


『異世界転生応援キャンペーン実施中! あなたの人生の選択を振り返って、次こそ“正解ルート”を目指しましょう!』


意味は分からない。

ただ、ひどく場違いだという感覚だけが、先に来た。


…うるさいわね。

今、夫との大事な時間なのよ。

視線を必死に動かす。けれど四角は消えない。むしろ、増える。


『 無念ですね!』


無念じゃないわよ!最高に幸せだったわよ!


夫の手の温度がある。部屋に花がある。季節の匂いがする。孫が昨日置いていった手紙が枕元にある。これ以上、何が要るのよ。


――また、ぴょこん。


『今なら特価! ダイヤ50個で会話回数+3! 最後に“伝えたい言葉”を届けよう♪』


『コンティニューしますか? YES / YES(課金)』


心の中で何かが叫んだ気がしたけれど、声にはならなかった。

部屋の空気の温度が、急に下品になる。


視界が、ぎゅんと引きずられた。


天蓋も夫の顔も遠ざかって、眩しい光が広がる。世界が巻き戻る。

走馬灯――というより、もっと露骨で、もっと嫌な感じ。


『PLAY LOG:薔薇と剣の舞踏会』


その文字を見た瞬間、思い出した。


前世。日本。

夜中にコンビニのカフェラテを飲みながら、スマホで“乙女ゲーム”を周回していた私。


大好きだった――『薔薇と剣の舞踏会』。


……まさか。


私、そのゲームの世界に転生してたの?


じゃあ、私って――。


『あなたのロール:ヒロイン』


うわ。やだ。今さら。


◆イベント:王太子からの婚約指輪


ログが開く。音もなく、華やかな場面だけが出てくる。


十八歳の社交界。

金髪碧眼の王太子が、片膝をついて巨大なダイヤの指輪を差し出してきた。

人だかり。祝福。歓声。拍手。


「君を妃に迎えたい」


『あなたの選択:丁重にお断りしました』


ああ、そうだった。

あんな成金趣味のデカいダイヤ、なんだか落ち着かなかったのよね。


――その後、王太子は五回結婚してた。断って正解だったわ。


今、私の指にあるのは夫がくれた細い銀の指輪。

派手じゃない。

けれど、五十年、一度も外したことがない。

掃除もしやすい。サイズ直しも一回で済んだ。

最高だったわ。


◆イベント:運命の夜会


ログが切り替わる。きらびやかな舞踏会。音楽。シャンデリア。笑い声。ドレス。香水。


『あなたの選択:途中で会場を抜け出し、屋台で串焼きを食べました』


ああ、あの夜。

頭が痛くなるくらい煌びやかで、息が詰まって。私はこっそり抜け出した。

庭の暗がりに逃げたら――そこに、先客がいた。

黒い外套。背の高い影。

ひとりで立っていて、こちらを見ても慌てない。


「……君も、疲れたのか」


低い声。静かで、余計なものがない。


「ええ。あの喧騒、苦手で」


「俺もだ」


そこにいたのは、大公――当時は“ただの遠縁の貴族”みたいに扱われていた人。

なのに彼は、私の顔を見て妙に困ったように笑った。


「……腹は減っていないか」


「え?」


「この城は、空腹に不親切だ」


そう言って、彼は私を城下町の屋台に連れ出した。

串焼きの油の匂い。庶民の笑い声。湯気。手の中の温度。


「美味しい!」


「……そうか」


彼の口元が少しだけ上がる。その“少し”が、誰よりも優しく見えた。

人の声が近くて、うるさくて、でも嫌じゃなかった。


「美味しい?」


そう聞けば、彼は小さくうなずいただけだった。

あの夜が特別だったのかどうかは、正直よく分からない。

ただ、気づいたら、あの人はそこにいた。

私は、王太子の派手な言葉じゃなくて屋台の煙と人の声を選んだ。

そしてその選択の先に夫がいた。

無口で、地味で、でも誰よりも優しい人。

子供を産んで、孫の顔を見て。

平凡で、騒がしくて、愛おしい五十年を過ごした。


それだけでよかったのよ。


ログが最後まで走りきる。


画面の隅に、また広告が出る。


『“平凡な大公妃END”到達!』


『報酬:安堵(小)/後悔(少)/幸福(多)』


……ほら、幸福(多)って書いてあるじゃない。


なのに、システムはしつこい。


視界がまた、寝室へ戻る。


夫の顔が近い。涙で赤くなった目。私の手を握る力が、少しだけ強い。


その上に、今度はでかいポップアップが被さる。


『今すぐ“前世の記憶”を叫んで周囲を驚かせれば、聖女ルートに転向可能です! ラストチャンス!』


『特別オファー:聖女ルート移行パック(ダイヤ300) ※今だけ“神託演出”付き♡』


いらないわよ……。


心底うんざりしながら、私は夫の顔を見る。


皺だらけの顔。白い髪。でも、目だけは、五十年前と同じだ。


……言葉にしたいことは山ほどある。


ありがとう。

ごめんね。

一緒に過ごせて幸せでした。

あの夜、屋台に連れて行ってくれたこと。

冬の朝、黙って私の肩に毛布をかけてくれたこと。

何も話さずに、同じ部屋で別々のことをしていた午後。


でも、もう時間がない。


私は最後の力で、声を作った。


「……あなた」


夫が顔を上げる。涙の膜の向こうの目が、まっすぐこちらを見た。


「大好きよ」


それだけでいい。


夫の目がさらに潤んで、でも、口元が少し笑う。


その瞬間、また広告が割り込んできた。


『感動演出を強化しませんか? “涙の光量+30%”』


消えろ。


私は続ける。


「あと……クローゼットの奥の箱、私が死んだら中身を見ずに捨ててね」


夫が一瞬、固まる。


「……箱?」


視界の端で、システムが勝手に注釈を付けた。


『※箱の中身:若い頃の恥ずかしいポエム/夫への惚気日記50年分/自作の痛い恋愛小説(未完)』


絶対に見られたくない。墓場まで持っていく秘密よ。


「約束……して」


夫は泣きながら、小さく笑った。


「……ああ、約束する」


よし。


『※重要選択:秘密の保持(成功)』


成功って言うな。


視界がゆっくりと暗くなる。


広告の文字が、じわじわ薄くなる。


最後に、夫の手の温度だけが残る。


――ありがとう、あなた。


私、幸せだったわ。

 



前大公妃は、静かに息を引き取った。

その顔は穏やかで、どこか満足げだった。

前大公は、その手をずっと握りしめたまま動かなかった。

泣いて、笑って、静かに息を吐いた。


「……最期まで、君らしいな」


誰にも聞こえないくらいの声で呟く。


「君との五十年は、一秒も退屈しなかったよ。……ああ、本当に」


彼は彼女の頬に、そっと手を添えた。

もう熱はない。

けれど、形だけはまだ柔らかい。

舞踏会の夜。庭の暗がり。笑ったときの、手のひらの温度。

それからふとクローゼットの奥を思い出して吐息をついた。


「……箱、か」


約束は守るつもりだ。

中身を見ずに葬儀の火と一緒に空へ送ってやろう。

長年連れ添った夫としての勘が、その中身には触れるなと言っている。

彼は立ち上がり、静かな部屋の空気を整えるような仕草で薄く微笑んだ。

そして、亡き妻が遺した最後の「困ったお願い」を胸に抱いて、ぼやけている視界を軽く拭った。

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