黒き蛇は死水に潜る
御月ケイ
第1章 死の影に揺れる紫煙
第1話 香りに惑う
莫大な広さを持つその屋敷には、内部だけで囁かれる噂話があった。
──曰く、黒鉄屋敷には『呪い』が存在する。
そこに暮らす
人が宇宙にも深海にも行けてしまえるようなこの時代に、そんなものがあるはずはない。
(じゃないと──)
焦燥感に駆られながら、安曇は今日も辞書を片手に古書をめくる。畳の上で倒れるように眠りに落ちたのは、もう明け方近く。
眠る安曇の横には、『呪われた人間』のリストが開かれていた。
そんな黒鉄屋敷には、もうひとつの顔がある。指定暴力団『黒鉄組』の本拠点という顔だ。
しかし、拠点の入口にはスーツの厳つい男たちが並び、門をくぐれば怒号が飛び交う……なんてことはなく。
「チャーンチャーラチャチャチャチャ」
野太い歌声が、枯山水を思わせる奥ゆかしい中庭に響き渡る。
「腕を前から上にあげて~!」
(うるさ……)
もぞりと起き上がれば、昨日はどうやら畳で寝てしまったらしい。床には古書や紙が散らばり、安曇が寝ていた場所はくしゃくしゃとシワになっていた。
「イチ、ニ、サン、シ!」
(……)
安曇は障子と窓を開け、そばにあった消しゴムを持って大きく振りかぶった。
「毎朝、毎朝──」
そして怒りのままに腕を振るう……!
「──うるさいんだよ!!」
消しゴムは安曇の怒りを乗せて直線に飛び、先頭で音頭を取っていた組員のおでこに直撃した。
(こっちは寝不足なのに!)
「手足のうんど──だっ!?」
ランニングと褌の男は、額を押えてうずくまる。
「あー! 安曇坊ちゃん、暴力!」
「暴力はんたーい!」
しゃがみ込んだ男を囲んだ組員たちは、お揃いのランニングと褌でやいのやいのと安曇を指さす。
(……次、何投げよう)
欠伸を噛み殺しながら、安曇は畳を見て僅かに眉を顰める。開かれた古書が目に入ったからだ。
そっと古書を閉じ、これでいいかと飲み終わったペットボトルを手に持ったその時──
「朝からうるさいぞ」
朝の空気よりも冷たい少年の声が、一同を凍りつかせた。
「……兄さん」
安曇が目を向けた先には、すでに身だしなみを整えた兄の
「安曇、物を投げるな。人に当たる」
「いや、当たってますぜ、総司坊ちゃ──あ、なんでもないです」
安曇と総司が睨んだので、無精髭の褌男はヒュッと肩を竦めて黙る。
「上に立つ者が下の者を虐げるな」
「虐げられたの僕なんだけど」
ため息混じりに不満を漏らす。
野太いラジオ体操が、まだ耳に残っている。
「安曇」
温度のない声音に、安曇は目を細める。この兄は昔から人の話を聞かない。兄としての自分しか見ていない。
「すみませんでした」
「よろしい。早く支度をするように」
言いたいだけ言うと、兄の小さな背中は奥の広間の方へ消えていく。
ごくり……と唾を飲み込んだ組員たちが、コソコソと安曇のそばに来る。
「こわ……。さすが総司さん」
「大笑いする時とかあるのかな……」
「さぁね」
安曇が首を振ると、目の前にスッ……と茶色い何かが差し出された。
「……スルメ、食います?」
心配そうにスルメを渡してくる組員。
「……」
朝の空気が冷ややかに吹き抜ける。
これがいつもの、黒鉄組の朝なのだ。
身支度を整え、胸の中の重い空気を吐き出すようにため息をつく。
(どうしてここまで何も見つからないんだ……)
チラリと古書が散らばったままの畳を見て、誰も来ないからいいかとそのまま放置して部屋を出た。
黒鉄屋敷は古く、長い歴史を抱えた木造建築だ。節だらけの柱、黒ずんだ
梅雨の晴れ間の板張り廊下はどこか湿り気を帯びていて、歩くとギシリと音を立てる。
(……あ)
ほのかに漂う甘味を帯びた香りに、安曇は顔を上げる。
近くの部屋の襖が薄ら開いていた。匂いは紫煙と共にその部屋から漂ってきている。
「……叔父さん」
チラリと部屋を覗くと、窓際であぐらをかいて煙管をふかしている叔父と目が合った。その姿にホッとする。
(まだ、大丈夫そうだ)
薄曇りの光が、障子越しにゆらりと落ちている。
「安曇」
羽織を一枚肩から掛け、敷きっぱなしの布団を放置して座っている叔父──
父の兄であり、安曇にとっては剣術の師範でもある人だった。
「おはよう、叔父さん」
「ああ」
まだ三十歳という若さなのに、時々老人のようにも見える。ゆったりとした笑みを浮かべ、煙管の煙を燻らせている。
安曇はこの少し異質な叔父の存在が、一番好きだった。うるさすぎる黒鉄屋敷で、一番落ち着く。
しかし、悠然とした態度のこの叔父は──どうやら呪われているという。
あの、『黒鉄の呪い』に。
「……」
煙管の甘くて苦い匂いがゆらりと流れ、安曇はまるでここが異世界のように感じた。
「起きてていいんだ?」
体調が悪いと聞いていたのだが、叔父は柱に体をあずけていても自分で起きて座っている。
「お前が起きてくる時間に寝てたら、格好つかんだろ」
喉を鳴らすように笑う叔父に、安曇は布団をちらりと見る。
「調子良いの?」
「まあまあだな。お前は学校か」
「うん」
「そうか」
相槌を打ってからまた煙管を吸う。
あの中に、痛み止めが入っていることを安曇は知っている。
「痛むの?」
「……さぁな。いつもと同じだろ」
(いつもと、同じ)
それはいつも、ギリギリということで。
だからこそ安曇は、一刻も早く見つけなければならない。
「……呪われてるから?」
安曇は叔父の横に座って外を見る。
赤紫の花をつけた紫陽花が見頃だった。
「……呪いねぇ」
立ち上る紫煙に目を細め、薄く笑う。
呪われるのは屋敷で常にひとりだけ──今はこの叔父だ。
呪いに侵された者は体のあちこちに黒い傷が現れ、やがて全身に広まる。そして広がりきった先に、死が待っている。
(叔父さんは……まだ大丈夫。まだ、傷は少ない)
だからまだ、死なない。
「次は僕だって言われてる」
呪いは伝染るのだと。
黒鉄に、呪われた人間は常にひとり。
小さい頃、体が弱かった安曇は、次に呪われるのだと周りに囁かれていた。
正直、どうでもよかったけれど。
「呪いが移るかもしれないのが怖いのか?」
愉しそうに笑うその声は、呆れているようにも馬鹿にするようにも聞こえた。
「わからない」
安曇は目を伏せる。
自分が死ぬのはそんなに怖くない。
(でも叔父さんが死ぬのは……)
「お前も呪いを信じてんのか」
指さすように煙管を安曇に向けると、叔父は軽い調子で笑った。
ボロボロの人に笑われるのは釈然としない。
「あんまり。迷信だと思ってる」
遺伝病、風土病や、他にも土地が悪いという可能性だってあるはずだ。
チラリと叔父の包帯を見つめる。
あの下にある黒い傷。そして体調不良。同じような病さえ見つけられたら……いや、見つけなければならない。
この家の“呪い”を否定できなければ、叔父を救えないのだから。
「ふぅん?」
クスクス笑うが、そのまま軽く咳き込む。
(前より咳をする頻度が増えてる……)
正直、病というにはおかしい点が多い。本当に、理解したくもないが──呪いはあるのかもしれない。
呪いだというのなら、その詳細がほしい。けれど叔父は話してくれない。
だから安曇は病だと思うしかないのだ。
「……」
安曇は難しい顔をして黙り込む。
「お」
「?」
叔父は安曇の腰に結んである房紐を見て、ニヤリとからかうような表情をする。
「それ、まだ持ってんのか」
「これは……御守りなんだから普通でしょ」
本来は、刀の柄か何かに結ぶ用の丈夫な紐だ。今は安曇のベルトに結ばれていた。
「はは、素直じゃねぇなぁ」
煙を揺らし叔父が笑う。そしてそのまま、また少し咳き込んだ。
安曇は目を伏せ、薄紫の房紐は小さく揺れた。
──ボーン
壁の振り子時計を見れば、朝食の時間が迫っていた。遅れると総司がうるさい。
「僕、朝ごはん行ってくる」
「おう。食ってこい」
叔父は安曇を追い払うようにヒラヒラと手を振り、思い出したように顔を上げた。
「そうだ、お前。放課後、幹部会があるから」
「……僕も出るの?」
「全員だ」
「……わかった」
黒鉄組は定期的に幹部会を開く。臨時で開くことも少なくはない。しかし子供まで呼ぶのは珍しい。
(何だろう……)
部屋を出ようとした安曇に声がかかる。
「安曇」
「?」
振り返ると、叔父はフッと煙を吐く。そして真っ直ぐに安曇を見据え、ニヤリと口元を歪める。
「──呪いはあるぞ」
「え……」
叔父は視線を煙管に移し、それを火鉢にカンッと当てる。中の灰がパラパラと火鉢に捨てられた。
「呪いは存在する。そしてお前は……」
叔父はそこで言葉を切り、新しい葉を煙管に入れて、再び火を灯す。
視線だけ安曇に向けて、叔父は再び薄い笑みを浮かべた。
「呪いに呼ばれてるのさ」
「──」
指先から冷えていく。
(──どうして?)
どうしてよりによって、あなたがそんなことを言うのか。そんな言葉が喉元まで上がってくる。
安曇はグッと手を握りしめて部屋を出た。
新しい紫煙が部屋をたゆたう。
甘く苦い香りに惑うように。息が止まりそうな──そんな時間だった。
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