第1話:聖夜の断罪と、グラスの音

第1話:聖夜の断罪と、グラスの音


王宮の大舞踏会は、まさに凍り付いていた。 天井から降り注ぐシャンデリアの七色の光は、今や鈍い鉛色に変わり、クリスマスの暖かな装飾さえも、血の通わないオブジェのように冷たく見える。舞踏音楽は既に止み、代わりに耳朶に突き刺さるのは、貴族たちのひそやかなざわめきと、時折響く「カチャリ」というグラスの触れる音だけだった。


その中心に立つのは、第一王子アルフレッド。彼の顔には、熱に浮かされたような高揚感が漲り、その碧い瞳は、隣に寄り添うマリアという娘に釘付けだった。マリアのドレスは、この絢爛たる舞踏会には不釣り合いなほど質素だが、彼女自身は勝ち誇ったような笑みを浮かべ、アルフレッドの腕に強くしがみついている。そこから漂う甘ったるい香水の匂いが、リリアーナの鼻腔をくすぐり、微かに眉間を刺激した。


「リリアーナ・ヴァン・アシュクロフト公爵令嬢!」


王子の声は、まるで劇場で大見得を切る役者のように、芝居がかって響き渡った。 リリアーナは、感情の波一つない完璧な淑女の顔で、一歩前へ進み出た。彼女の纏う純白のシルクドレスが、わずかに擦れる音だけが、この場の緊迫感を増幅させる。


「はい、アルフレッド殿下。いかがなさいましたか?」 彼女の声は、冬の澄み切った空気のように冷たく、しかし一点の揺らぎもなかった。


アルフレッドは、リリアーナのその完璧さに、むしろ苛立ちを募らせたようだった。 「白々しい! 私は決めたのだ。貴様のような冷酷で、愛の欠片もない人形には飽き飽きした! 私はもう、君のような感情のない女とは、一秒たりとも関わりたくはない!」


王子の言葉は、容赦なくリリアーナの心を抉るはずだった。だが、リリアーナの表情は、ただひたすらに静かだった。まるで、遠い国の物語を聞いているかのように。


「私はこのマリアこそを、私の魂が求める真実の伴侶として、王妃に迎える! 故に、リリアーナ! 私は貴様との婚約を、今この場で破棄する!」


会場全体が、息を呑んだ。 シャンデリアの輝きが、一瞬、翳ったように見えた。


マリアが、勝ち誇ったような視線をリリアーナに送る。その口元には、薄っすらと嘲りの色が浮かんでいた。 「リリアーナ様、殿下はもう、真実の愛を見つけてしまわれたのですわ。諦めて、身を引くのが淑女の務めですわよ?」


リリアーナは、マリアの声にも、王子の罵倒にも、一切反応を示さなかった。 ただ、静かに問い返す。 「殿下。今のお言葉、王家としての公式な意思決定ということでよろしいですね? アシュクロフト家と王家が数世紀にわたり築き上げてきた『血の盟約』と『経済的相互保証』を、殿下ご自身の『真実の愛』とやらで、今この瞬間に全て白紙に戻す、と?」


「そうだ! 古い盟約など、愛の前には紙切れに等しい! 私は愛のために、王子の身分さえも投げ出す覚悟だ! 君には分からぬだろう、そんな崇高な感情が!」 王子の言葉は熱を帯び、彼の両頬は興奮で赤く染まっている。


リリアーナは、そっと目を閉じた。 (ああ、この方は本当に何も分かっていらっしゃらない) 彼女が王妃教育に費やした血の滲むような日々。アシュクロフト家が、この国の経済と軍事を支えるために、どれほどの血と汗を流してきたか。それは「愛」という、取るに足らない感情一つで簡単に捨てられるような、軽薄なものでは決してない。


リリアーナはゆっくりと目を開けた。その瞳には、もはや一切の悲しみも、怒りもなかった。 あったのは、ただひたすらの**「放棄」**。価値のないものを見限った者だけが持つ、透明な虚無だった。


「承知いたしました。殿下のそのご決断、謹んでお受けいたしますわ」 リリアーナは、優雅にカーテシーをした。完璧な所作だ。しかし、その動きはまるで、壊れた人形が最後に一度だけ動くかのように、どこか冷たく機械的だった。


「お父様」


リリアーナの呼びかけに、会場中の視線が、一斉に壁際に立つ公爵へと向かった。 アシュクロフト公爵。彼はこれまで、一言も発していなかった。ただ、手にしていたクリスタルのワイングラスを、じっと見つめているだけだった。深紅の液体が、シャンデリアの光を反射して、まるで底知れぬ深淵のように見えた。


公爵は、ゆっくりと歩き出した。 カツ、カツ、と、磨かれた床に響く靴音が、まるで処刑台への階段を叩く音のように、貴族たちの心臓を直接叩く。 彼の顔には、一切の感情が読み取れない。怒りも、悲しみも、戸惑いも。 ただ、**「無」**だった。 それが、何よりも恐ろしかった。


公爵は、王子の前に立つと、その無表情な顔を、ゆっくりと王子に向ける。 「アシュクロフト公爵。娘の教育が行き届かぬのは残念だったな。だが、これからはマリアを――」


王子の言葉を遮るように、公爵は、右手に持っていたグラスを、傍らに控えていた給仕が差し出す銀のトレイに、コトリと置いた。


その音は、まるで乾いた木の葉が落ちるように、小さく、しかし、この凍り付いた会場の空気を、物理的に打ち砕くような、決定的な響きを持っていた。


公爵は、懐から取り出した絹のハンカチで、丁寧に指先を拭う。そして、そのハンカチを、床にヒラリと捨てた。 それは、王子への、この場所への、そしてこの国への、最大限の侮辱だった。


「リリアーナ」 公爵の声は、先ほどと同様に穏やかだった。だが、その声の底には、地獄の業火が宿っているかのような、途方もない冷徹さが宿っていた。 「帰るよ。もう、ここに私たちがいる理由はなくなった」


公爵は、王子に背を向け、出口へと歩き出す。 彼の動きに合わせるように、会場のあちこちで、様々な「変化」が始まった。


王宮守備隊の隊長が、無言で剣を鞘に納め、一礼して会場を後にする。 王家の金庫番である老高官が、真っ青な顔で、自分の首を抱えるようにガタガタと震え出した。 王室御用達の商人たちが、一斉に手帳を取り出し、何かを書き込み始める。彼らの顔は、まるで葬儀の場にいるかのように沈痛だった。


「おい、待て! 公爵! 私の話はまだ終わっていないぞ! 貴様は国王への――」 王子の叫びが、虚しく空を斬った。


公爵は、振り返ることもなく、出口へ向かう足取りを止めなかった。 その背中越しに、独り言のように呟いた。


「アルフレッド殿下。私は、商売人であり、軍人であり、そして何より一人の娘の父親です」


その声には、怒鳴り声よりも恐ろしい「断絶」の意思が込められていた。


「商売人は、投資価値のない契約を破棄します。軍人は、守るに値しない拠点を放棄します。……そして父親は、娘を傷つけた獣を、決して許さない」


公爵はちらりと首を巡らせ、凍りついた国王と王妃を見やった。 彼らの顔は、公爵の言葉の重みに耐えきれず、蒼白に染まっていた。 「陛下。今夜を持ちまして、アシュクロフト家が王家に行っている一切の債務保証、および徴税代行、物流ルートの提供を停止いたします。これまでのご愛顧、誠にありがとうございました」


「公爵! 待て! そんなことをすれば、この国は、国は――!」 国王が椅子から立ち上がり、叫ぶ。だが、公爵は二度と振り返らなかった。


リリアーナは、最後に一度だけ王子とマリアの方を見た。 マリアは、まだ何が起きたのか理解できず、王子の腕を掴んで「凄いですわ、殿下! あの公爵を黙らせるなんて!」とはしゃいでいる。 その浅はかな喜びに、リリアーナは哀れみを覚えた。彼女の唇の端が、わずかに吊り上がる。


「アルフレッド殿下。……どうか、その『愛』が、飢えと寒さを凌げるほどに温かいものであることを、心からお祈りしておりますわ」


リリアーナが会場を去ると同時に、城の巨大な門が、重厚な音を立てて閉まった。 まるで、愚かな王子を外界から隔絶するかのように。


外は、雪が降り始めていた。 王宮の塔のてっぺんに、白い雪が降り積もり、一晩で純白の冠を被らせるだろう。 それは、新しい王の戴冠ではなく、滅びゆく王家の棺を覆う弔いの布になる。


馬車に乗り込むと、公爵はリリアーナの冷えた手を、温かな大きな手で包み込んだ。 彼の掌からは、娘を慮る温かさと、そして鋼鉄のような意志が伝わってくる。


「リリアーナ。悲しいかい?」 公爵の声は、静かに響いた。


「いいえ、お父様。ただ……あまりの馬鹿馬鹿しさに、少し疲れましたわ」 リリアーナが公爵の肩に頭を預けると、公爵は窓の外、遠ざかる王宮の灯りを見つめた。 その瞳には、すでに「次の処理」を計算する、冷徹な数字の羅列が見えているかのように思われた。


「明日の朝、王宮に届く白パンは、昨日の半分になるだろう。いや、届けばいい方か。薪は届かず、魔法石の供給も止まる。……一週間後には、彼らは気づくはずだ。愛で腹は膨れないし、愛で寒さは防げないということに」


公爵の手が、娘の髪を優しく撫でる。 「お父様は、おこですよ。……本当に、おこなんだ。あのような塵のために、お前が涙を一滴でも流すかもしれないと思うだけでね」


「泣きませんわ、お父様。そんな価値、もうあの方にはありませんもの」


「そうだね。……さあ、リリアーナ。明日からは、新しい人生の準備をしよう。あの国が自重で潰れていく様子を、特等席で眺めながらね」


馬車の轍が、降り積もる雪の上に深く深く刻まれていく。 それは、一つの時代の終わりと、愚かな王子への「理性の暴力」による断罪の始まりを告げる足跡だった。


聖夜の鐘が、遠くで鳴り響いた。 それは祝福の鐘ではなく、崩壊へのカウントダウンを刻む、弔いの鐘だった。


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