「真実の愛、見つけたり!」
「真実の愛、見つけたり!」
眩いばかりのシャンデリアが、その一言で一瞬にして色褪せた。 聖夜を祝う王宮の大舞踏会。着飾った貴族たちの間で、第一王子アルフレッドの声が、冷たく張り詰めた空気を震わせていた。
リリアーナ・ヴァン・アシュクロフトは、微動だにせずその場に立ち尽くしていた。 視線の先には、最愛の婚約者であったはずの男と、その腕にしがみつく一人の娘。 娘の名はマリア。男爵家の出という触れ込みだが、安物の香水の匂いが、重厚な薔薇の香りに満ちた会場で異様に浮いている。
「……アルフレッド殿下。今のお言葉、本気でいらっしゃいますか?」
リリアーナは問うた。彼女の声は、冬の泉の底に沈んだ硬貨のように冷たく、一点の濁りもない。
「本気も本気だ! 私はもう、君のような感情の欠片もない人形には飽き飽きしたのだ。マリアは違う。彼女は私の心を溶かし、生きる喜びを教えてくれた。彼女こそが、私の魂が求める真実の伴侶だ!」
王子の瞳には、情熱という名の狂気が宿っている。彼は、自分が何を口にしたのか、その言葉がどれほどの重量を持っているのか、まるで見えていない。
マリアが勝ち誇ったように、リリアーナを見つめて鼻を鳴らした。 「リリアーナ様、ごめんなさいね。殿下は、強要される義務よりも、溢れ出す愛を選ばれたのですわ」
周囲の貴族たちは、一様に息を呑み、そして次の瞬間、視線を一箇所へと向けた。 リリアーナの背後。 壁際に静かに佇む、アシュクロフト公爵。
彼は、この国の軍事の要であり、経済の心臓部だ。 王家が贅沢を極めることができるのも、国境が守られているのも、すべてはアシュクロフト家の「理知」と「資産」があるからに他ならない。
公爵は、何も言わなかった。 ただ、右手に持っていたクリスタルのグラスを、じっと見つめている。 中の赤ワインは、まるで王子の不敬を呪う血のように、不気味な光を放っていた。
「殿下、一度だけ申し上げますわ」 リリアーナは、流れるような動作で一歩前へ出た。シルクのドレスが擦れる微かな音が、沈黙の会場に響く。 「この婚約は、我が家と王家が数代に渡って築き上げてきた信頼の結晶です。それを、その……『真実の愛』という、目にも見えず、形もないもののために、今この瞬間に断ち切る。そう仰るのですね?」
「しつこいぞ、リリアーナ! 契約、契約と……君の口から出るのは金と義務の話ばかりだ! 愛情という人間らしい感情はないのか!」
王子は吐き捨てた。 リリアーナは、そっと目を閉じた。 (ああ、この方は本当に、何も分かっておいででないのだわ) 彼女がどれほど、王妃になるための教育に血の滲むような時間を費やしてきたか。 アシュクロフト家が、どれほどこの国を「システム」として守ってきたか。
「……分かりました。その決断、謹んでお受けいたしますわ」
リリアーナが目を開けた時、その瞳からは一切の未練が消えていた。 代わりに宿ったのは、透明な殺意にも似た「放棄」だった。
「お父様」
彼女の呼びかけに、公爵がゆっくりと顔を上げた。 公爵は、ゆっくりと歩き出す。一歩、また一歩。 その靴音が、まるで処刑台への階段を叩く音のように、会場中の心臓に響く。
公爵は王子の前まで来ると、一言も発さず、ただ無表情に王子の顔を見た。 「アシュクロフト公爵。君も、娘の不備を認めろ。これからはマリアを――」
言いかけた王子の言葉を遮るように、公爵は手にしていたグラスを、横にいた給仕のトレイに置いた。
――カチャリ。
乾いた、小さな音だった。 だが、その瞬間、王宮を包んでいた魔法的な熱気が、一気に引き潮のように去っていった。
公爵は、懐から取り出した絹のハンカチで指先を拭うと、それを床に捨てた。 「リリアーナ」
初めて発せられた公爵の声は、低く、そして驚くほど穏やかだった。 「……はい、お父様」
「帰るよ。もう、ここに私たちがいる理由はなくなった」
公爵は王子の存在を、そこに転がっている石ころと同じように無視した。 彼が身を翻すと、同時に、会場のあちこちで「動き」が起きた。
王宮守備隊の隊長が、無言で剣を納め、会場を去る。 王家の金庫番である高官が、真っ青な顔で自分の首を抱えるように震え出した。 王室御用達の商人たちが、一斉に手帳を取り出し、何かを書き込み始める。
「おい、待て! 私の話はまだ終わっていないぞ!」 王子の叫びは、虚しく空を斬った。
公爵は出口へ向かう足取りを止めず、背中越しに独り言のように呟いた。
「アルフレッド殿下。私は、商売人であり、軍人であり、そして何より一人の娘の父親です」
その声には、怒鳴り声よりも恐ろしい「断絶」の意思が込められていた。
「商売人は、投資価値のない契約を破棄します。軍人は、守るに値しない拠点を放棄します。……そして父親は、娘を傷つけた獣を、決して許さない」
公爵はちらりと首を巡らせ、凍りついた国王と王妃を見やった。 「陛下。今夜を持ちまして、アシュクロフト家が王家に行っている一切の債務保証、および徴税代行、物流ルートの提供を停止いたします。これまでのご愛顧、誠にありがとうございました」
「公爵! 待て、そんなことをすればこの国は――!」 国王が椅子から立ち上がり、叫ぶ。
だが、公爵は二度と振り返らなかった。 リリアーナは、最後に一度だけ王子とマリアの方を見た。 マリアは、まだ何が起きたのか理解できず、王子の腕を掴んで「凄いですわ、殿下! あの公爵を黙らせるなんて!」とはしゃいでいる。
リリアーナは、彼女の浅薄な喜びを哀れに思い、唇の端をわずかに吊り上げた。 「アルフレッド殿下。……どうか、その『愛』が、飢えと寒さを凌げるほどに温かいものであることを、心からお祈りしておりますわ」
リリアーナが会場を去ると同時に、城の巨大な門が重厚な音を立てて閉まった。
外は、雪が降り始めていた。 馬車に乗り込むと、公爵はリリアーナの冷えた手を、温かな大きな手で包み込んだ。
「リリアーナ。悲しいかい?」
「いいえ、お父様。ただ……あまりの馬鹿馬鹿しさに、少し疲れましたわ」
リリアーナが公爵の肩に頭を預けると、公爵は窓の外、遠ざかる王宮の灯りを見つめた。 その瞳には、すでに「次の処理」を計算する冷徹な数字が並んでいた。
「明日の朝、王宮に届くパンは昨日の半分になるだろう。薪は届かず、魔法石の供給も止まる。……一週間後には、彼らは気づくはずだ。愛で腹は膨れないし、愛で寒さは防げないということに」
公爵の手が、娘の髪を優しく撫でる。 「お父様は、おこですよ。……本当に、おこなんだ。あのような塵のために、お前が涙を一滴でも流すかもしれないと思うだけでね」
「泣きませんわ、お父様。そんな価値、もうあの方にはありませんもの」
「そうだね。……さあ、リリアーナ。明日からは、新しい人生の準備をしよう。あの国が自重で潰れていく様子を、特等席で眺めながらね」
馬車の轍が、雪の上に深く刻まれていく。 それは、一つの時代の終わりと、愚かな王子への「理性の暴力」による断罪の始まりを告げる足跡だった。
聖夜の鐘が、遠くで鳴り響いた。 それは祝福の鐘ではなく、崩壊へのカウントダウンを刻む、弔いの鐘だった。
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