愛してしまう、その前に

ひろの

愛してしまう、その前に

昔ながらの喫茶店だった。


壁に染みついた珈琲の匂い。

磨き込まれた木のカウンター。

時間が止まったようなその店は、繁華街から一本外れた通りに静かに佇んでいる。


店内にいるのは、彼女と、もう一人だけ。


「……いつものオムレツでいい?」


そう声をかけると、男は顔を上げた。


「ああ。頼む」


短く刈った金髪。

軍服の上着を椅子の背にかけ、湯気の立つ珈琲を一口飲む。


彼の名前は エドワード・レイン。

帝国軍艦長。

そして、彼女――ミリア・ローゼンの幼馴染だった。


ミリアはカウンターの向こうでフライパンを温めながら、背中越しに言う。


「出撃、決まったの?」


「ああ。今朝な」


彼の声は淡々としている。

危険な任務ほど、こういう話し方になることを、ミリアは知っていた。


「おそらく戻るのは……半年くらい先になる」


油の弾く音が答えの代わりに響く。


「そう」


それ以上、聞かなかった。

聞いても意味がないことも、もう分かっている。


オムレツを皿に移し、ケチャップで軽く模様を描く。

それは昔からの癖だった。


「……死なないでね」


ふと、そう口にしてしまった。


エドワードは一瞬だけ目を伏せ、それから頷いた。


「ああ」


それだけ。


ミリアは皿を差し出しながら、意を決したように続ける。


「ねえ、エド。

 この店、もう閉めようと思ってるの」


フォークが止まった。


「……なんだって?」


「戻ってくる頃には、たぶん、もうここはないわ」


静かに、しかしはっきりと言った。


エドワードは椅子から立ち上がり、カウンターに手をつく。


「どういうことだ、ミリア」


「そのままの意味よ」


ミリアは彼を見ない。

フライパンを洗いながら、続ける。


「あの人が亡くなってから、二年。

 この店を守るために、ずっと頑張ってきた」


夫――アラン・ローゼン。

この店を愛し、珈琲を淹れ、常連と笑っていた人。


彼は二年前、艦隊戦で帰らぬ人となった。


「でもね……もう、限界」


蛇口から流れる水の音が、声を少しだけ隠してくれる。


「娘もいるし。

 ここじゃなくて、故郷に戻ろうと思うの」


「……待て」


エドワードの声が震えた。


「それは、俺が戻ってくる前に、全部終わらせるってことか?」


ミリアは、ゆっくりと頷いた。


「そう」


沈黙。


それから、彼は深く息を吸った。


「ミリア。

 ……俺の気持ちは、分かってるだろう?」


分かっている。


分からないふりをしてきただけだ。


「俺は、ずっとお前が好きだった。

 アランがいた頃も、亡くなってからも」


言葉が、胸に突き刺さる。


「俺と一緒になってくれ。

 君も、君の娘も、一生守る。

 必ず、生きて戻る」


まっすぐな告白だった。


ミリアは、ようやく彼を見る。


誠実で、優しくて、強い。

娘も彼に懐いている。

継父として、これ以上の相手はいないだろう。


そして何より――

アランを失ったあと、彼女を支え続けてくれたのは、エドワードだった。


「……ありがとう」


それでも、ミリアは首を横に振る。


「でも、駄目」


エドワードが言葉を失う。


「娘にも、父親がいた方がいいと思う。

 あなたなら、きっと大切にしてくれる」


そこで一度、言葉を切った。


「でもね、エド。

 もう誰かを不安に思いながら待つのは……無理なの」


声が、少しだけ震えた。


「あなたを愛してしまったら、

 また、同じ恐怖を抱えることになる」


戦争は終わらない。

彼は、また宇宙へ行く。


必ず帰ってくる保証なんて、どこにもない。


「私は……それに耐えられない」


ぽたり、と涙が落ちた。

拭わなかった。


エドワードは、何も言えなかった。

それ以上、何を言えばいいのか分からなかった。


彼はゆっくりと席を立ち、代金を置いて軍帽を取る。


「……分かった。でも――

 考え直してほしい」


それだけ言って、店を出た。

ドアの前で入退店を知らせるベルが鳴る。


それから数日後、彼は出撃した。

ミリアは、見送らなかった。


喫茶店は、予定通り閉めた。

最後の日、常連たちは静かに珈琲を飲み、何も聞かなかった。


娘の手を引いて、ミリアは故郷へ戻った。


時間が流れる。

半年後。


エドワード・レインは、生きて帰ってきた。


傷はあったが、命はあった。


彼は真っ先に、あの通りへ向かった。


記憶の中の場所。

しかし、そこにあったのは――


 「閉店しました」


色あせた紙が、シャッターに貼られているだけだった。


喫茶店は、もう存在しなかった。

エドワードは、しばらくその場に立ち尽くした。


彼女は、約束を守ったのだ。


愛してしまう前に、すべてを終わらせた。


ベルの鳴らない店の前で、

彼は初めて、声を出さずに泣いた。

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