びしゃがつくの子ども

円衣めがね

びしゃがつくの子ども

雨の降る夜にサミットの駐車場で僕は、びしゃがつくの子どもに出会った。


【びしゃがつく】とは、福井県のある地方に伝わる妖怪で、雪や霙の降る夜に歩いていると後ろから「びしゃびしゃ」と音を立てて付いてくる妖怪だ。全国的には【べとべとさん】という名のほうが通りがいいかもしれない。


僕は福井生まれで昔から【びしゃがつく】のことは曾祖母から聞かされていた。好きで読んでいた水木しげるの妖怪辞典でも馴染みがある。その辞典でもたしか「ひょうたん型の黒い体に一つ目があり、足元が根のように枝分かれした」容姿をしていると書かれていたが、いま目の前にいるのは身体こそ小さいが、まさにそんな物体だった。


「こんな雨のなか、どうした?」


僕は、びしゃがつくの子どもに声をかけた。びしゃがつくの子どもは根っこのように枝分かれした足をモジモジさせて「お母さんとはぐれてしもうた」と言った。


「お母さん。お前は母親から生まれるんだったか」


そういえば図解でも体内で新しい【びしゃがつく】が生まれるとか書いてあった気がする。そこからどう育てるのか、鳥などのように巣立つということがあるのか、そこまでは分からない。


「はぐれたのなら、お前の家はどこか分かるか?」


びしゃがつくの子どもは「びしゃびしゃ」と音を立てて考え込む。しかし寒いな。ここだけどんどん冷気が強くなってきている。びしゃがつくの出す冷気のせいだろうか。足元の水たまりが薄っすら凍ってきていた。


「秋津? 秋津って西武池袋線の秋津駅か」


それならここからそんなに離れていない。各駅停車に乗っても20分程度で着けるだろう。僕は、お金は持っているか? 駅まで行けば後は自分で帰れるか? と聞いてみた。すると、びしゃがつくの子どもは再度、秋津駅まで行きたいと「びしゃびしゃ」音を立てながら僕に伝えた。


びしゃがつくの子どもがお金なんて持っているわけもないから、僕は一緒に西武線に乗って秋津駅まで送ってやることにした。傘を渡そうとすると、びしゃがつくの子どもは首を横に振り、雨に濡れることは好きだと言った。ふしゅーふしゅーと冷気を出して興奮しているようだ。


「あまり興奮するのはよしてくれ。寒くてたまらない」


僕は、びしゃがつくの子どもを落ち着かせ、駅まで歩いた。


雨はいつのまにか霙になっていた。じゃり、じゃりと霙を踏みながら歩く僕のスニーカーはずぶ濡れになっている。これでは靴下もびしゃびしゃだろうな。【びしゃがつく】とは、まさにこのことだな。


そんなことを考えながら駅に着く。駅員に「びしゃがつくの子ども」は電車賃は発生するのかと聞いたが、駅員は「分からない」とぶっきらぼうに言う。分からないでは困るのだが、どうしたらいいのか問い詰めると「背の高さからすると幼児くらいだから無料でいいのではないか」と逆に聞いてくるので、面倒になり「ありがとう」とそのまま通ることにした。


ちょうど各駅停車がきて僕とびしゃがつくの子どもは乗り込んだ。車内には優先席にひとり老人が乗っているだけだったが、びしゃがつくの子どもは「暑い、暑い」としきりに駄々をこねだした。


「暑いと言っても暖房は下げられないし、窓も開けられないからなぁ」


僕が困っていると、びしゃがつくの子どもは、ふしゅーふしゅーと霞を出した。車内は靄がかかって窓ガラスには一面、霜が降りだした。今度は僕が寒くなってきたので「おい。ちょっと靄を抑えられないか?」と、びしゃがつくの子どもに言うと、びしゃがつくの子どもはすねたのか、ひときわ大きな音で「ふっしゅぅぅぅううう!」と靄を出してきた。


そのタイミングで駅に着いたので、一斉にドアが開いて冷気も一気に外へ逃げて行った。やれやれ。なんの気の迷いで迷子のびしゃがつくなんて拾ったのか。今さらながら自分の軽率さに呆れてしまう。


「ほら。次が秋津だ」


窓の外はいつの間にか雪が降っていた。


秋津駅に着き電車を降りると、一緒の車両にいた老人が何ごとか囁いた気がしたが、ドアが閉まってしまったのでよく聞き取れなかった。老人も寒かったんだろう。小刻みに震えているのは横目に分かった。


「さて、じゃあここでもう大丈夫か?」


改札を出て、びしゃがつくの子どもに聞くと、もう少し新秋津駅のほうまで着いてきてくれと言いだした。大粒の雪が降るなか、すこし離れた新秋津駅まで行くのは面倒ではあったが、ここまできたら同じことかと思い付いていってやることにした。


びしゃがつくの子どもは、しきりに、ふしゅーふしゅーと靄を出して歩きだした。なんだ、どうした。と聞くと、それがお母さんへの合図になると言う。たしかにこれだけの靄が出ていれば、分かる人間(妖怪か)が見れば分かるのだろう。しかし、あまりに靄が広がるから僕の視界は一寸先も見えない。


「おい。こっちでいいのか?」


びしゃがつくの子どもに問いかけると、真っ白な視界の先に薄っすらと黒い塊が見えてきた。おお、あれがお母さんかな。そう思ったと同時に、僕の脳裏にはとんでもない恐怖が生まれた。


ガタガタガタガタ……。


寒いからか、恐怖からか、その両方からなのか。僕は途端に身体の芯から震え出した。「おい、びしゃがつく。なんだこれは」そう言おうとしたが、舌も回らない。歯はさっきからバカなカスタネットみたく「ガチガチ」と鳴るばかりだ。心臓もバクンバクンと波打つように鼓動を増す。


じわりじわりと黒い塊に近づいていく。すると、周りを覆っていた霞がスーッと晴れていった。


ここは……。


さっきまで秋津駅から新秋津駅までの商店街を歩いていたはずが、いつの間にか辺りは雪深い山奥になっていた。心臓は今にも口から爆発して飛び出しそうなくらい、バクンバクンと音を立てていた。


びしゃがつくの子どもは無邪気に笑っているようだった。お母さん、お母さんとくねくねしながら根っこをバタつかせていた。どうやら、びしゃがつくの子どもは母親のもとに帰れたようだ。


しかし、ここはどこだ?


僕の疑問は、声になる前に「ひゅぅぅ」と喉から細く出て途切れた。

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