雪の娘 3-1
3
草間に教えられた銚子港の冷凍倉庫は、埠頭沿いの黒い壁のような建物群の中で、一つだけシャッターが半分上がり、暖かい明りを漏らしていた。
クラクションに応じて、シャッターがさらに上がりはじめた。
小柄な作業服姿の老人が現れ、哲夫たちの車を倉庫内に誘導する。
仕分け用の作業場に降り立つと、哲夫は老人に頼んだ。
「後ろのタンクの中身を、全部冷凍室の方に入れたいんです。それから、中身が全部入るくらいの、ドラム缶でもなんでもいいんですが……」
作業場には、両側にまとめられた何列もの台車以外に荷物らしい物はなく、魚介類の匂いもさほど強くはなかった。
寒々とした空間の突き当たりの壁に、数個の金属製の扉が、等分の間を置いて並んでいる。
哲夫は老人に従って、いったん横手の通用口から裏に回り、雑多な箱や廃材などが積んであるプレハブの物置から、広口のドラム缶を一つ運び出した。
導かれるまま、最右端の冷凍室にドラム缶を据え、車からポリ容器を運ぶ。
美津江もそれを手伝った。
零下の気温のためか、室内の床や壁の染みからも、まったく臭気は感じられなかった。
金属製の棚やドラム缶に素手で触れてしまうと、そのまま皮膚が貼りついてしまう恐れがあるので、哲夫と美津江は、老人から作業用の手袋を借りていた。
容器の残り湯はすでに冷めていたが、それでも盛んに白い湯気を上げた。
厳冬を知らないらしい美津江が、なにか困惑したように、しきりに小鼻を蠢かせた。
鼻孔の内で鼻毛が凍ってゆく、そのぱりぱりとした感触に、哲夫は確かな郷愁を覚えた。
室内は、両側の棚にも通路にも、海産物はまったく見当たらなかった。幅は自分のアパートの部屋と同程度だが、奥行きは数倍あるだろう。
「わざわざ空けていただいたんですか?」
「若旦那の話だと、何か温かいものを運びこむという話でしたからな」
老人は二人の作業を手伝いながら答えた。
「なあに、もともと予備の冷凍室です。たいした物は入っちゃいません」
「夜分にすみませんでした。こんなわけの解らない仕事に、おつき合いさせてしまって」
「まあ、若旦那と哲夫さんの悪戯には、昔もずいぶん苦労しましたからな」
哲夫は狼狽してしまった。
確かにそれらしい記憶はあるのだが、今親しみ深げに笑っているその老人の顔を、どうしても記憶から呼び起こせない。
「もうお忘れでしょう。お二人がまだ小学校の頃ですから」
「……すみません」
ドラム缶の三分の二ほどで、残り湯は終りになった。
美津江は歯をかちかちと鳴らしながら、錆や油膜の浮いた水面を、不安そうに見つめている。
「さあ、車で待とう」
「……見てなくて、大丈夫なんですか?」
美津江の問いに、哲夫ではなく老人が答えた。
「何が始まるのかは知りませんが、その前に凍えちまっちゃあ、
作業場に出ると、老人は冷凍室の扉を閉めながら、哲夫に訊ねた。
「鍵はどうしましょう」
「開けておいていただけますか。時々覗くことになると思うので」
「じゃあ、私はまた二時間ほどで全室チェックに来ますが、何かあったらそこの内線で呼んでください。事務所に繋がりますんで」
老人は通用口から引き上げていった。
哲夫と美津江は、車に戻った。
「さて、ここで終ってくれるならいいんだけど、先があるかもしれない。ちょっと一眠りさせてもらおう。君も寝てたほうがいいよ」
哲夫は腕時計のアラームをセットして、シートをリクライニング・ポジションに倒した。
腕組みをして、シートに背中を預ける。
後部座席の美津江も、無言でそれに従ったようだ。
やがて、微かな寝息が聞こえはじめた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます