雪の娘 2-2

 一二六号線を走行する間、美津江が訊ねてきた。

「森本さんは、どうしてそんなによくご存知なんですか、奥さんのこと」


 事情を少しでも知っている人間なら、たぶん口にするはずのない質問だ。

 確かに、哲夫が草間邸を頻繁に訪れていた頃、この娘を一度も見たことがない。


「……答えなきゃいけないのかな。ちょっと言いにくいんだな、色々と」

「……私に、あんなことを訊いておいてですか」

 哲夫は苦笑した。確かにこの場合、美津江に理がある。


「君はいつ頃から、あそこで働いていたの?」

「奥さんがお輿こしれになった時です」

 それならば、何も知らなくて当然だった。

「まあ、端的に言えば、草間と結婚する前、里子は僕といっしょに暮らしていたんだ」


 美津江は黙りこんだ。

 信号ひとつ分の間を置いて、言葉が返った。

「……すみません」


「なんのなんの、さっきの不躾ぶしつけな質問のお返しとしちゃ、軽いジャブってとこかな」

「奥さん、浮気しちゃったんだ」

「浮気じゃないよ。本気。現に草間とちゃんと結婚したし、その後、僕とは一度も会ってない」

「でも、森本さんを裏切ったんでしょ?」


 哲夫は不思議に痛みを感じなかった。

 むしろ美津江の、あまりに無防備な世間れの無さに、一種驚嘆の念を覚えた。

 かつて草間の家で見知った女中という職業の女性たちが、押しなべて、なにか要領のいい耳年増といった印象だったからかもしれない。


「……里子が僕より草間を愛するようになって、それでも僕といっしょに暮らしていたとしたら、それは、僕と草間と自分の全員を裏切ってることになるんじゃないかな」


 美津江はまたしばらく考えこんでいたが、やがてぽつりと答えた。

「……そうですね」


「まあ、正直言って、僕はそっちの裏切りを続けてくれてた方が、まだありがたかったのかもしれない。でも、それは結局、里子をいちばん苦しませる――なんて、綺麗きれいごとさ。実は未練たっぷりだから、こうやってジタバタしているわけだ」


「森本さん、お人好しなんですね」

 ただの無神経なのか、それとも褒めているつもりなのか、美津江の口調からは読めなかった。

「でも……やっぱり、好きなら無理矢理でも引き止めれば良かったんです」


 確かに、それが人間らしい人間なのかもしれない。

 しかし哲夫のこれまでの来し方にとっては、執着や情熱といった感情よりも、ただ淡々と生きていくことのほうが優先事項だったのである。


          *


 あえて美津江に話すつもりもなかったが、哲夫は栃木北部の山間、貧しい雑貨屋のひとり息子として育ち、同郷の里子は、広大な山林を所有する旧家、九条家のひとり娘だった。ふたつ年下のその可憐な娘を、哲夫は幼い頃から見知っていたが、当時はただ『良い所の子供』として、いささかの羨望と共に瞥見しているだけだった。


 やがて小学校入学直後、両親が相次いで流感で亡くなり、哲夫は千葉の叔父一家に引き取られた。その転校先の同級生が、草間だった。陰陽対照的な性格からか、かえって馬が合い、草間が学区外の名門私立中学に上がってからも、親交が続いていた。

 しかし哲夫の高校卒業を前に、今度は叔父夫婦が交通事故で急逝してしまい、哲夫は身一つで世間に放り出される形になった。

 奨学金やアルバイトで学費を捻出し、なんとか公立大学の夜間部に籍を置いたものの、結局、目標だった公務員への道は遠く、生活のため、下請電装品会社の経理職に就かざるを得なかった。

 それでも口に糊はでき、僅かながら貯金もできる。食うや食わずの幼時に比べれば、遙かに上等とも思えた。


 里子と再会したのは、夜間部在学中、県人コンパの席である。

 里子が思いきったように話しかけてくるまで、哲夫は、その華やかな後輩が旧知であることに気付きもしなかった。その後も、哲夫から積極的に近づいたわけではない。やはり里子の方が、彼の穏やかな性格を慕ったのである。

 しかし同郷同学といっても、里子は無論昼間部であり、高級女子学生マンション暮らしのお嬢様である。対する哲夫は、将来の見通しも立たない、安アパート暮らしの根無し草にすぎない。


 就職後、哲夫は真摯な気持ちで何度か里子の実家を訪ねたが、一度として、まともな待遇を受けられなかった。そして仕送りを断たれた里子は、駆け落ち同様に、哲夫の部屋に転がりこんだ。

 そんな縺れた状況の中で、哲夫は里子を連れて草間邸を訪れ、せめて旧友の祝福と、一時の慰撫を得ようとしたのである。


 誰が悪かったわけでもない。

 人の真の心は、当人にさえ規制できない。

 草間は良い男だ。

 里子は良い女だ。

 人が人を思慕することの重さは、哲夫自身も良く解っている。

 そして草間家と九条家の縁組であれば、どこからも横槍は入らない。哲夫がそれを受け入れ、また九条家が、娘の同棲歴に口を閉ざしている限り。

 さらに、里子が雪であることを、自身と哲夫以外の誰も――当の九条家の人々でさえも、悟れない限り


          *


「……でも、いつから奥様が、ああいう方だって、知ってらしたんですか」

 美津江が、今度はずいぶん遠慮がちに訊ねてきた。本当は、それが一番知りたかったのだろう。


「それは、今夜のかたがついたら教えてあげよう」

 哲夫は答えを保留した。

「もしかたがつかなかったら、それは君が知っても仕方のないことだ」

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