雪の娘

バニラダヌキ

雪の娘 1-1


     1


 銭湯を出ると、雪が降っていた。


 雪国生まれの彼には、雪と呼ぶにも歯痒はがゆいほどの頼りない雪片たちだが、それでも暮れも押し迫って、ようやくの初雪である。


 ――今夜は雪見酒だ。


 連日の酒席でさんざん胃を荒らしているにもかかわらず、性懲りもなく角の自動販売機でカップ酒を買いこみ、哲夫はアパートに戻った。


 雨ざらしの階段を上り、がたのきた扉を開けば、先だってのボーナスで買いこんだ温風ヒーターが、ぬくぬくと六畳一間を温めているはずだ。


 しかし、彼は階段の途中で気が変わり、アパートから少し離れた、住宅街の小公園に足を向けた。


 ベンチに腰をおろし、出来そこないの味醂みりんのような二級酒を舐めていると、顔が湯上がりの火照ほてりを取り戻し、濡れたままの髪は、逆に氷のように冷えてゆく。

 頭の中が、しんしんと冴え返ってくる。

 哲夫は思った。


 ――去年の冬は、よかったな。


 ヒーターを買う余裕はなかったが、里子と二人で布団にくるまっていれば、充分に温かかった。実際は冷たかったのかもしれないが、それでもやはり、温かかった。


 思わずカップを一息に飲み干し、哲夫は立ち上がった。


 いつまで悔やんでいても仕方がない。ひとりになったおかげで貯金も増えはじめたし、この都会でこうして大過なく暮らしていけるだけでも、幸せというものだ。

 哲夫は公園のはずれのくずかごに、カップを投げ入れた。


 ――とにかく里子は、彼ではなく、草間を選んだのだ。


 田舎者らしい純朴な顔に、若さに似合わぬ年寄りじみた頬笑みを浮かべながら、彼は小雪の中を歩きはじめた。


 アパートに着くまでのわずかな間に、雪はみぞれに、そしてただの冷たい雨に変わってしまった。


 ようやく酒が頭まで回ってきたらしく、茫洋とした気分で階段を昇っていくと、かすかに電話のベルが聞こえてきた。

 どうやら、彼の部屋で鳴っているらしい。


 彼は歩調を変えなかった。

 勤め先は仕事納めを終えているし、こんな夜更けに電話をかけてくるような親しい知り合いもいない。急いで出たところで、どうせ間違い電話だろうし、のろのろと上りきるまでに、やんでしまうだろう。


 しかし、ベルは延々と鳴り続けた。

 誰とも話したくない気分だったが、その切迫した響きにある期待を抱いて、哲夫は受話器をとった。

「はい。森本です」


 返答はなかった。

 かわりに、男の荒い息づかいが聞こえてきた。

 期待した相手ではなかった。

 激しい懊悩おうのうのさなかを思わせるその息づかいは、ときたま何か言いかけるようにとぎれ、しかし言いだすきっかけが掴めないのか、また切羽つまった呼吸に戻る。


 哲夫は思った。

 ――あのときと同じだ。

 次の言葉は『里子を俺に譲ってくれ』――いや、それはもう半年前に終わった。


「どうした、草間」

 数瞬の沈黙の後、答えが返った。

『……親父を殺した』

 他人の言葉を繰り返すような、抑揚よくようのない声だった。


 哲夫は動揺を抑えて訊ねた。

「里子はどうした。家にいるのか」


『里子は……溶けた』

 嗚咽おえつまじりに、草間は言った。

『……溶けちまった』 

      

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る