婚約破棄の帰り道

みなも

婚約破棄の帰り道

婚約破棄を叫ぶ婚約者に視線を合わせるように、鼻の位置に目線を置く。

彼の鼻穴が少し膨らんでいて、いつもより興奮しているように見えた。


「……その……数々の――」


声が大きい。周囲がざわついている。

誰かが息を呑む音が聞こえた気がした。


「よって、ここに婚約を――」


ちょうど破棄理由を言うクライマックスに合わせて、下を向く。

ヒールに薄く残った指の跡が少し気になった。午後の光が当たるとそこだけ曇って見える。

あの新人侍女ね。

拭けばいいだけだと分かっているのに、今は動けない。


「――破棄する!」


拍手が起きた。誰かが小さく歓声を上げている。

顔を上げる。息を小さく吐く。

鼻穴が何か言っているが、意味は入ってこない。


「はい、承知致しました」


いつもより少し大きな声で、

明日は少し遅く起きられるといいな、と思いながら返事をした。


少し間をおいて、

お菓子を食べ過ぎた事を思い出しながらゆったりと足を進める。

扉の前に立つまで、誰も何も言わなかった。

拍手はいつの間にか止んでいて、空気だけが少し硬い。

扉脇に立っていた警備の騎士が、一拍遅れて進路を空ける。

兜の縁がわずかに傾いた。

それだけで十分だった。

背中に視線を感じるが、振り返らなかった。


廊下に出る。

光が違う。部屋の中よりやんわりと少し白い。

空気もたぶん綺麗。

天井が高いせいか、足音が一歩遅れて返ってくる。

追ってくる人はいなかった。

当たり前かしら。

曲がり角の向こうから、別の令嬢が歩いてくる。

歩幅がずれる。私の方が少し遅い。

すれ違う直前、視線が一度だけ肩に触れた気がしたが、声はかからなかった。

香水の匂いだけが微かに流れていく。


ふと、窓際で足を止める。

外はよく晴れているし、風は凪いでいる。

庭の砂利が少し光って見えて、雲の切れ間から控えめな光が漏れていた。

窓枠に指を置いてみる。

塗装が少し剥げていて、白い粉が手に付いた。

払うか迷って、なんだかそのままにした。


帰りの馬車はまた揺れそう。

この時間帯は人が多い。

きっと御者は気を遣う。

声をかけるなら、短くでいい。


廊下の奥で誰かの笑い声が聞こえた。

遠い音で、内容は分からない。

小鳥の鳴き声が混じって響いて、

手前の影が丁度境界線みたいになっている。


歩き出す。

靴音が一定になるまで、少し時間がかかった。

私はこの日、貴族令嬢としての役目を一つ終えた。

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婚約破棄の帰り道 みなも @minamo_

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