送り狼に噛まれました。
ふるーる
第1話 クズだったわ
金曜日の午後は、空気が少しだけ軽い。
それでも私のデスク周りだけは、相変わらず静かに忙しい。
「真帆、これ今日中でいける?」
モニターから顔を上げると、隣の席の佐藤美咲が、資料を片手に立っていた。
「いけるけど、修正入ったら来週に回す」
「さすが。安定感の塊」
キーボードを叩きながら、軽くため息。
「金曜に修正出す人、だいたい罪重いよね」
「分かる。しかも“急ぎで”って言うやつ」
美咲は私より一つ年下で、愚痴のテンポがちょうどいい。
「ていうかさ」
「なに」
「今日、予定ある?」
嫌な予感がして、視線を上げずに答える。
「……あるような、ないような」
「それ絶対ひとり飲みでしょ」
「なんで分かるの」
椅子を引いて、こちらに身を寄せてくる。
「顔に書いてあるもん。“今日も例のバー行きます”って」
「書いてない」
「書いてる」
小さく笑いながら、私は画面を閉じた。
「今週、上司にまた言われた?」
「言われた」
「結婚?」
「それ以外ある?」
美咲は露骨に顔をしかめる。
「ほんと、余計なお世話」
「親も同じこと言うし」
「板挟みじゃん」
肩をすくめる。
「だから金曜は、現実逃避」
「例のイケメン店員?」
「……そう。弟みたいなものよ」
「やば」
「なにが」
「それ半年通ってて進展ゼロなの?」
少しだけ言葉に詰まる。
「進展させるつもりもないし」
「じゃあなんで行くの」
「楽だから」
嘘ではない。
ただ、全部でもない。
「真帆ってさ」
「うん」
「ちゃんと一線引いてるのが逆に危ない」
苦笑する。
「今さら、恋愛で振り回される体力ない」
「でも、寂しくない?」
少し考えてから答える。
「……金曜の夜だけは、ない」
定時を知らせる通知が鳴る。
「はい、今週終了!」
「おつかれ」
「飲みすぎないでね」
「努力はする」
バックを持ち上げて、会社を出る。
バーのドアを開けると、いつもの匂いがした。
少し甘くて、少しだけ現実から遠ざかる匂い。
「いらっしゃい。お疲れ顔ですね」
カウンターの向こうで、大和くんがそう言って笑う。
「それ、毎回言ってない?」
「毎回来るたび、ちゃんと疲れてるから」
ため息をつきながら、席に座る。
「今日は、強めで」
「はいはい。何がありました?」
「仕事」
「即答」
「あと、親」
「結婚?」
「……言わなくても分かるんだ」
氷を入れる音が、会話の合間を埋める。
「真帆さんって、ちゃんとしてるから」
「なにそれ」
「周りが放っておかないタイプ」
グラスを受け取って、一口。
「ちゃんとしてるの、疲れるよ」
「じゃあ今日は、ちゃんとしなくていい日ですね」
「それ、一番危ないやつ」
そう言ったのに、否定はしなかった。
「大和くんはさ」
「はい」
「私のこと、どう思ってるの」
酔いのせい。
そう言い訳しながら、視線を向ける。
「常連さん」
「それだけ?」
「……綺麗な人」
「年上?」
「それも含めて」
少し間が空く。
「俺、真帆さんと話すの好きですよ」
「それ、誰にでも言ってるでしょ」
「言ってたら、ここもっと繁盛してます」
笑ってしまう。
笑って、気が抜ける。
店を出たのは、閉店間際だった。
「送ります」
「大丈夫だよ、近いし」
「それ、酔ってる人の台詞」
結局、並んで歩く。
「……大和くんってさ」
「はい」
「距離の取り方、上手いよね」
「嫌なら、ちゃんと離れますよ」
「今は?」
「今は……」
言葉を濁す。
「真帆さんが、嫌そうじゃないから」
家の前に着いて、鍵を出す。
「ここまでで大丈夫。ありがとう」
ドアノブに手をかけた、その瞬間。
――上から、もう一つの手。
「……大和?」
ドアノブに触れていた手が止まり、振り返る。
距離が、思っていたよりも近い。
「真帆さん」
「なに……」
視線が絡んだまま、逃げ場がない。
唇に柔らかいものが触れた。
「〜〜〜っ」
一瞬だけ、時間が止まる。
でもすぐに、じんわりとした甘い感覚が広がっていく。
――あ、だめだ。
そう思ったのに、酔いが回った身体は正直で、力が抜けていくのが自分でも分かった。
唇が離れる。
「「……」」
無言。見つめ合っている。
目の前には、近すぎる距離で見る、整いすぎた顔。
「……なんで?」
やっとそれだけ言うと、大和くんは少し困ったように笑った。
「送り狼、ってやつです」
軽い言い方なのに、否定できない優しさが混じっている。
彼の指が、そっと私の髪に触れる。
耳にかけられて、息がかかる距離になる。
「嫌なら、言ってください」
「……言ったら?」
「やめます」
でも、目は離れない。
次の瞬間、また唇が重なった。
さっきよりも、迷いがなくて。
「……だめ、だよ」
「本当に?」
囁く声が近い。
「本当にだめなら」
「……」
答えられない私に、彼はもう一度、ゆっくりとキスをした。
今度は、私から離れなかった。
気づいたら、玄関の内側だった。
靴を脱ぐ音、ドアが閉まる音。
静かになった空間で、鼓動だけがやけに大きい。
「……こうなるつもりじゃ」
「ほんとに?」
視線が絡む。
逃げ場はあるはずなのに、どこにも行こうとしない自分がいる。
「でも、今は?」
「……否定できない」
大和くんの手が、私の耳元に触れる。
そのままの流れで、首筋、背中、お尻へ。
息をのむ間もなく、指先はゆっくりと下へ移っていく。
「……待っ」
声に出そうとした言葉は、唇が重なったことで途中で消えた。
深くなるキスに、思考が追いつかない。
抗う理由は頭に浮かぶのに、身体は、それを選ばなかった。
――抗えなかった。
そんなことを、明日の私に話したら、なんて言うだろう。
「最低」それとも「分かってたでしょ」
たぶん、どちらも正しい。
「無理しなくていいです」
「……してない」
「じゃあ……」
続きを言わせなかった。
言葉よりも先に、もう一度、深く唇が重なる。
この夜は、理性よりも、温度が勝ってしまっただけ。
窓から朝日が差し込む。
玄関から寝室まで、服が散乱しているのが見えて、思わず手で顔を覆った。
「……許さない。最低、昨日の私」
大和くんとは、こうなるつもりじゃなかった。
……なんて、いまさらどの口が言ってるんだろう。
「しばらく、お酒やめようかしら」
小さく呟きながら、隣を見る。
これからどうするのか、何も決まっていない。
そのとき、彼が身じろぎして、上体を起こした。
寝ぼけた目と、目が合う。
「……起きてます?」
「……起きてる」
一瞬の沈黙。
「……今日は何かあったけ?」
その一言に、思わず声が裏返る。
「最初の言葉、それ?」
「え」
「もっと、この状況で言うことないの?」
少し考えた様子から、部屋を見回す。
「……真帆さんの身体は綺麗ですね」
「〜〜〜っ」
「いや、そうじゃなくて……」
じれったくて、睨む。
「……抱いたこと?」
あまりに直球で、言葉に詰まる。
「そういえば真帆さん」
「なに」
「爪、切った方がいいですよ」
「は?」
「背中、めっちゃ引っ掻かれてる」
遮るように言う。
「大和くんと、そんなことするつもりなくて……」
途中まで言ったところで、
「え、昨日ノリノリだっ――」
慌てて、彼の口を手で押さえた。
「言わないで!」
そのまま布団に顔を押しつける。
「……なんでこんなことしたのか、私にも分からないの」
声がこもる。
「ほんとに……弟みたいなものだったのに」
「……」
「最低なのは分かってるけど、そのままがよかった」
言い切った、その瞬間。顔があげられる。
不意に、唇が重なった。
驚いて目を開く間もなく、短いキス。
離れたあと、大和くんは平然と言った。
「いいですよ」
「……なにが」
「そのままで」
その一言で、全部を思い出した。
半年通って、忘れてたけど――
この子、クズだったわ。
胸の奥が、むず痒くて、腹立たしい。
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