それが出会いと言うのなら
――暗闇。
意識が、ゆっくりと浮上してくる。
最初に感じたのは、背中の違和感だった。
固い。冷たい。ところどころ、金属が軋むような感触。
「……っ」
喉から、かすれた声が漏れる。
次に鼻を突いたのは、埃とカビの混ざったような匂いだった。
古い建物特有の、時間が止まった空気。
ゆっくりと目を開ける。
視界に入ったのは、ひび割れた天井。
剥がれ落ちた塗装の下から、黒ずんだコンクリートが覗いている。
「……ここ……どこだ……?」
身体を起こそうとすると、ギシ、と嫌な音が鳴った。
どうやら自分は、ぼろぼろのベッドの上に寝かされていたらしい。
スプリングはへたれ、シーツは茶色く変色している。
ここが病院でないことだけは、はっきりと分かった。
――思い出そうとする。
直前の記憶。
信号。
朝の人混み。
黒い、化け物。
「……っ!」
思い出した瞬間、心臓が跳ね上がった。
あれは夢じゃない。
追いかけられ、逃げて、路地裏で――
「……殺、された……?」
思わず、自分の身体を見下ろす。
服はそのまま。血も、傷も、見当たらない。
訳が分からない。
呼吸が荒くなり、頭の中が一気に騒がしくなる。
「なんだよ……なんなんだよ、ここ……!」
立ち上がろうとして、ふらつく。
足元がおぼつかない。
その時、ようやく気づいた。
――記憶が、ない。
名前が分からない。
年齢も、家も、家族も、何一つ思い出せない。
「……記憶、喪失……?」
言葉にした瞬間、現実味が増して、胃の奥が冷たくなる。
どうして、こんな場所にいるのか。
誰が、ここに運んだのか。
分からないことだらけだった。
とりあえず、ここにいても何も解決しない。
そう自分に言い聞かせ、部屋を出ることにする。
ドアは、半分壊れていた。
軋む音を立てながら押し開けると、薄暗い廊下が続いている。
廃墟だ。
間違いなく、人が住んでいない建物。
壁には落書き、床にはガラス片。
風が吹くたび、どこかで何かが転がる音がした。
一歩一歩、恐る恐る進む。
さっきの化け物の姿が、脳裏にちらつく。
――また出てきたら、どうする?
考えないようにしても、恐怖はついてくる。
しばらく歩いて、ようやく外に出た。
眩しい光。
空は青く、車の音が聞こえる。
――街だ。
人がいる。
安堵が、胸に広がる。
「す、すみません……」
通りすがりの男性に、声をかけた。
だが、その人は一瞬もこちらを見ず、通り過ぎていく。
「……え?」
今度は、別の女性に。
「ちょっと、聞きたいことが――」
やはり、反応はない。
まるで、最初からそこに誰もいないかのように。
嫌な予感がして、その人の肩に手を伸ばした。
――すりっ。
手応えが、ない。
「……は?」
自分の手が、相手の身体をすり抜けた。
慌てて引っ込める。
心臓が、耳元で鳴り響く。
他の人にも、試す。
結果は同じだった。
誰にも、触れられない。
誰にも、認識されていない。
「……う、そだろ……」
現実を否定したくて、頭を振る。
その時。
背後から、あの気配がした。
皮膚の裏を這い回るような、
冷たく、重く、嫌悪感だけで出来た存在感。
振り返る。
――いた。
黒い。
黒い、化け物。
朝に見たものと、同じ。
同じ形。
同じ重さ。
同じ、“死”の匂い。
「……っ!!」
息が、喉の奥で詰まる。
肺が空気を拒否し、視界の端が暗くなる。
――また、殺される。
そう思った瞬間、
路地裏での記憶が、容赦なく引きずり出された。
押し倒された感覚。
身体を貫いた衝撃。
視界を塗り潰した闇。
確かに、死んだ。
そのはずなのに。
なのに、自分は今、ここに立っている。
そもそも、なんで――
「……なんで……生きて……」
言葉になりかけた疑問は、途中で千切れた。
化け物が、迫ってくる。
床を滑るように、
距離という概念を無視して、じわりと詰め寄る。
逃げなきゃ、と思う。
だが、足が動かない。
恐怖が、関節を凍らせ、
筋肉を縛り、
意思そのものを押し潰していた。
――終わった。
脳裏に浮かんだその言葉が、
妙に現実味を帯びた、その時だった。
化け物の動きが、ぴたりと止まった。
「……?」
一瞬の静止。
次の瞬間――
無数の縄が、現れた。
音もなく、影の中から滲み出すように。
空間そのものが裂け、そこから這い出してくるかのように。
伸びた縄が、化け物の身体に絡みつく。
ぎり、と。
ぎち、と。
嫌な音を立てながら、
黒い表面に食い込み、沈み込んでいく。
化け物が、悲鳴を上げた。
人の声ではない。
動物の声でもない。
この世に存在してはならない音。
鼓膜を殴り、
脳を直接掻き回すような、
耳を裂く絶叫。
縄は、さらに締まる。
逃がさない。
壊すまで、離さない。
黒い身体が、引き裂かれる。
裂け目から、闇が零れ、
存在が崩れ、
――バラバラに、砕け散った。
黒い欠片は、地面に落ちることすら許されず、
空中で霧のように薄れ、
やがて、何もなかったかのように消えていく。
呆然と、その光景を見つめる。
理解が、追いつかない。
現実感が、剥がれ落ちていく。
その背後から――
場違いなほど、軽い声がした。
「あっれー? また新しいやつがきたのー?」
振り返る。
そこに立っていたのは――
ぼろぼろのセーラー服を着た、
女子高生……らしきものだった。
制服は汚れ、裂け、
時間という概念から切り離されたように色褪せている。
首には、はっきりと分かる縄の跡。
――いや、違う。
縄が、今も、そこにある。
食い込み、
肌に沈み、
それでも首を締め切らずに、ただ“存在し続けている”。
顔立ちは整っている。
それなのに、目が――死んでいる。
虚ろで、
焦点が合っておらず、
こちらを見ているのかどうかすら分からない。
黒と白が混ざり合った短髪が、
生き物のように、微かに揺れる。
少女は、にこりと笑った。
それは、
喜びの笑顔ではない。
安心の笑顔でもない。
ただ、“そういう形をしているだけ”の表情。
まるで、
久しぶりに会った友人に声をかけるような調子で。
「よろしくねー。ここ、初めてでしょ?」
その笑顔が、
あの化け物よりも、
何よりも――恐ろしかった。
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