夜勤病棟-間宮響子-

江渡由太郎

夜勤病棟-間宮響子-

 病院という場所は、死を隠すために最も多くの嘘を重ねた建物だ。

 間宮響子は、白い外壁を見上げながらそう思った。


 今回の依頼は簡素だった。


「夜になると、誰もいない病棟で“誰かが巡回している”」


「患者でも職員でもない」


「防犯カメラには、決して映らない」


 地方都市の総合病院。

 築三十年。取り壊し予定は未定。


 そして――七階東病棟は、現在使用されていない。


「先日また夜勤の看護師が、二人辞めました」


 案内役の事務長は、そう言って目を逸らした。


「いままで退職した看護師の全員が精神的な理由です。……彼女たちは揃って同じことを言った」


 ――『回診が、終わらない』



 響子は、七階のエレベーターを降りた瞬間に理解した。


 この病棟は、時間の終わり方を間違えている。

 空気が古いのではない。

 古い“夜”が、そのまま残っているのだ。


 消灯された病室。

 白いカーテン。

 ナースコールのボタンだけが、闇の中で鈍く光っている。

 ――押されている。

 誰もいないはずの病室で、ナースコールが規則正しく点滅していた。


 響子は、ゆっくりと近づいた。

 霊視の力を開く必要はなかった。

 ここにいる“それ”は、隠れる気がない。


「……回診の時間ですよ」


 背後からそっと囁くように、湿っぽい声がした。

 女の声だった。


 優しく、淡々と、職務に忠実な声。

 振り返ると、そこに――看護師が立っていた。

 旧式の白衣。

 名札は擦り切れて読めない。

 顔はあるのに、年齢が分からない。


 そして――。

 彼女の足元には、影がなかった。


「あなたは……いったい誰を診ているの?」


 響子の問いに、看護師はからくり人形の様なカクカクとした動作で首を傾げた。


「患者さんです。皆さん、まだ生きていますから」


 そう言って、彼女は床を滑るように移動し一つずつ病室のドアを開けていく。


 空室。

 空室。

 空室。


 だが、開くたびに――。

 響子の耳には、確かに人の呼吸音が聞こえた。

 数を、数えてはいけない。

 響子は本能的にそう悟った。


「あなたは、いつからここに?」


 問いかけると、看護師は憂いの眼差しで微笑んだ。


「夜勤は、終わっていません」


 その瞬間、響子は視た。

 七階東病棟。

 かつてここは、終末医療専門病棟だった。


 救えない患者。

 延命を望まれない患者。

 夜の間に、静かに“処置”される人々。

 死亡時刻は、いつも朝だった。

 夜に死んだ者はいないことになっていた。


「……あなたは、看取る側ね」


 響子が言うと、看護師は静かに頷いた。


「はい。取り残さないために」


「誰を?」


「患者さんを」


「違う」


 響子は、喉の奥が凍るのを感じながら言った。


「あなた自身を」


 看護師の微笑みが、初めて卑屈に歪んだ。


「……夜勤は、終わらないんです」


 彼女の背後、空室だったはずの病室に――無数の人影が立っていた。


 皆、ベッドの横に立ち、皆、同じように白い天井を見上げている。

 生きても死んでもいない顔で。


 そして響子は、この忌まわしい病院を足早に出た。



 翌日、事務長に告げた。


「七階は封鎖してください。完全に」


「原因は?」


 響子は答えなかった。


 ――正確には、答えられなかった。


 なぜなら、病院を出る直前、エレベーターの鏡に――自分の背後で、白衣の女が回診表に何かを書き込んでいる姿が映っていたからだ。


 名札の文字は、はっきりと読めた。


 《間宮響子》


 夜勤は、終わらない。

 誰かが――。

 次の回診対象になるまでは。



 ――(完)――

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