風の回廊

辛口カレー社長

風の回廊

 東京の夏は、暴力的だ。

 そう思ったのは、大学三年の七月、新宿の雑踏の真ん中で信号待ちをしていた時だった。

 頭上からは容赦のない直射日光が降り注ぎ、足元からはアスファルトが蓄え込んだ熱気が這い上がってくる。四方八方から室外機の排熱が吐き出され、視界の端では高層ビルの輪郭が陽炎に揺らいでいた。汗は止まらず、思考はまとまらず、ただ「暑い」という原始的な不快感だけが脳内を支配していた。


 就職活動の予備戦のようなインターンシップの説明会帰りだった。周りの学生たちは皆、黒いリクルートスーツに身を包み、汗だくになりながらも未来への希望や不安を語り合っている。僕だけが、その熱狂と熱波から取り残されていた。

 そんな錯覚に陥りかけた時、ふと目に入ったのが、駅の売店に置かれたアルバイト情報誌だった。表紙には、嘘みたいに青い海と、白い入道雲。「リゾート地でバイトしよう!」という能天気なコピーが、今の僕には唯一の救済の呪文のように見えた。

 五秒後にはスマホを取り出し、応募の電話をかけていた。時給はどうでもよかった。職種も何でもよかった。とにかく、この灼熱のコンクリートジャングルから、物理的に距離を置きたかったのだ。

 そうして僕は今、海沿いの寂れた田舎町にある、古びたホテルの臨時駐車場に立っている。


 時刻は午後二時。一日の中で最も気温が上がり、世界が白く飛んでしまいそうな時間帯だ。

 僕に与えられた役割は、この臨時駐車場の管理だった。お盆の時期とはいえ、こんな僻地のホテルにひっきりなしに車が来るわけではない。一時間に数台、迷い込んだように入ってくる車を誘導し、駐車券を渡す。それ以外の時間はパイプ椅子に座って、ただじっとしていればいい。

 楽な仕事だ、と最初は思った。だが、三日も経てばその認識は変わる。

 暇というのは、忙しさよりも精神を蝕む。


 目の前には海が広がっている。ガードレールの向こう、背の低い防波堤の先には、どこまでも続く水平線。空の青と海の青が溶け合う場所で、景色は最高だ。

 僕は首にかけていたタオルで顔を拭い、手元のペットボトルのぬるくなったお茶を口に含んだ。

 無線機は沈黙している。ホテルのフロント係からは「何かあれば連絡します」と言われているが、その「何か」が起きる気配は微塵もない。

「……ダルい」

 独り言が、熱気の中に溶けていく。セミの声だけが、耳鳴りのように響いている。

 唯一の救いは、海が見えることだ。誰に気兼ねすることもなく、こうして堂々と海を見ていても、仕事の一環として許される。それは確かに、アルバイトとしてはこの上なく幸せな環境と言えるかもしれない。ただ、その海を見ていると、いつも視界の端に映り込む人物がいた。

 ――防波堤の上。

 そこに、少女がいた。

 彼女に気づいたのは、バイト初日のことだった。白いワンピースを着た少女が、胸の高さほどある防波堤の上に腰掛け、足をぶらぶらさせていた。麦わら帽子を目深に被り、じっと海を見つめている。

 最初は観光客の子供だろうと思った。だが、彼女は一時間経っても、二時間経っても、そこから動こうとしなかった。親はいないのか。熱中症にならないのか。まさか、飛び込むつもりなんじゃないか。

 悪い想像が頭をよぎり、気が気ではなかった。双眼鏡があれば表情まで確認できたかもしれないが、あいにく手元にあるのは誘導灯と無線機だけだ。

 結局、その日彼女は夕方になると、ふらりと堤防から降りて、どこかへ歩き去っていった。

 翌日も、彼女は現れた。同じ時間、同じ場所、同じ白いワンピース。三日目も、四日目もそうだった。

 午後一時過ぎ、陽炎の向こうから彼女は現れ、軽やかに堤防へ上がり、海を見る。そして夕方のチャイムが町に響く頃、帰っていく。それはまるで、時計のような正確さだった。


 一週間も経つと、僕の中で彼女の存在は「風景の一部」として組み込まれていった。灯台や消波しょうはブロックと同じ、変わらない景色の一つ。それでも、僕は無意識のうちに彼女の姿を目で追っていた。

 暇つぶし、と言えばそれまでだ。でも、それだけではない何かが彼女にはあった。

 ――彼女は何を見ているのだろう。

 水平線の彼方にある入道雲か、海面を跳ねる魚か、あるいはもっと遠くの、見えない何かか。彼女の後ろ姿は、どこか寂しげで、それでいてひどく凛として見えた。東京で見た、群れを成して歩く学生たちとは決定的に違う「個」の強さが、その小さな背中にはあった。

 僕が午後、こうして熱心に海の方を向いているのは、彼女の「生存確認」も兼ねているのだと、自分自身に言い訳をした。もし、彼女がふらりと海へ傾けば、すぐに駆けつけなければならない。これは一種の監視業務だ。

 そんな勝手な使命感を抱きながら、僕は今日もパイプ椅子に深く腰掛け、彼女の背中を眺めていた。


 変化が起きたのは、バイトを始めて十日ほど経った日のことだった。

 その日は朝から風がなかった。海面は鏡のように凪いでいて、雲ひとつない空がそのまま水面に転写されている。世界が青一色で塗りつぶされたような、奇妙な静けさに満ちた午後だった。

 いつものように、少女は堤防に座っている。

 僕は駐車場のゲートバーに寄りかかりながら、あくびを噛み殺した。車の出入りはゼロ。無線機からはノイズすら聞こえてこない。

 あまりの退屈さに、僕は持ち場を少し離れ、自動販売機へ向かおうとした。駐車場の端、堤防へと続く細い歩道の脇にある自販機だ。

 小銭を取り出し、冷たい缶コーヒーのボタンを押す。ガコン、という音が静寂を破る。

 その時だった。ふと視線を感じて顔を上げると、堤防の上の少女が、こちらを見ていた。

 初めて、目が合った。

 距離にして十メートルほど。逆光で表情はよく見えないが、帽子のつばの下にある目が、まっすぐに僕を射抜いているのは分かった。

 僕はどう反応すべきか分からず、片手に缶コーヒーを持ったまま硬直した。挨拶をするべきか、会釈をするべきか、それとも知らないふりをして戻るべきか。

 少女は数秒間僕を見つめたあと、またゆっくりと海の方へ向き直った。

 ――なんだ、気のせいか。

 そう思った瞬間、彼女は独り言のように、けれどはっきりとした声で呟いた。


「風が吹くよ」


 周りには誰もいない。僕に向けられた言葉だったのか、あるいは世界そのものに向けた予言なのか。

 僕は思わず、彼女の背中に向かって声をかけた。

「え? 風?」

 返事はなかった。ただ、彼女の華奢な右手が、手招きするようにちょいちょいと動いた。

「ここ、上がって来て」

 その声は、驚くほど透明で、波の音に混じって消えてしまいそうだった。

 僕は迷った。勤務中だ。持ち場を離れるのはまずい。しかし、駐車場を見返しても車が来る気配はない。それに、この十日間、一方的に観察し続けてきた人物からのコンタクトを、無視することなんてできない。好奇心の方が勝った。

 僕は無線機をベルトにしっかりと固定し、堤防へと続く階段を駆け上がった。

 コンクリートの堤防は、太陽の熱を吸って焼けるように熱い。僕は火傷しそうなほど熱せられた表面に手を付き、「よいしょ」と声を出しながら少女の横に並んだ。

 ――意外と背が高いんだな。

 並んで立ってみて、初めて分かった。座っている時は小さく見えたが、立ち上がると、背丈は僕とほとんど変わらない。中学生かと思っていたが、高校生かもしれない。

 横顔を盗み見る。長い睫毛、形の良い鼻筋はなすじ、薄い唇。整った顔立ちをしているが、どこか現実感がない。まるでガラス細工のような繊細さを漂わせている。

 少女は僕の方を見ようともせず、遥か遠くを見つめたまま微動だにしない。

 気まずくなって、とりあえず僕も海の向こうの水平線を眺めた。水面は太陽の光を乱反射して、無数の宝石をばら撒いたようにきらきらと輝いている。その眩しさに、思わず目を細めた。

 ――無風。

 肌にまとわりつく湿度は変わらない。汗がTシャツの背中を伝う不快な感触があるだけだ。

 ――風なんて、吹いてないけど……。

 そう言いかけた、その時だった。

 ごう、と音がした気がした。最初は足元から。次に海面から。大気が震え、世界が深呼吸をするような気配があった。

 やがて……風がきた。

 いつもの湿気と潮の香りを含んだ、重苦しく不快な風ではない。もっと鋭く、冷たく、澄み切った気流。まるで明確な意思を持った生き物のように、真正面からぶつかってきた風は、太陽に焼かれてヒリヒリした僕の頬を撫で、髪をかき乱し、Tシャツの中をすり抜けていった。

「うわっ……」

 僕は思わずよろめきそうになった。

 一瞬の出来事だった。

 風が通り過ぎた後には、また元の気だるい静寂が戻ってきた。でも、僕の肌には確かな清涼感が残っていた。

 ――この少女が連れてきたのか。

 そんな非科学的な思考が、すとんと腑に落ちた。「連れてきた」という表現がこれほどぴったり当てはまる現象を、僕は他に知らない。

 少女が麦わら帽子を押さえていた手を離し、ゆっくりとこちらを向いた。風に乱れた黒髪を耳にかけながら、彼女は悪戯っぽく微笑んだ。

「お兄さん、都会の匂いがする」

 唐突な言葉だった。

「……そうかな。汗臭いだけじゃない?」

「ううん。アスファルトと、排気ガスと、焦げたコーヒーの匂い。あと、諦めたような匂い」

 どきりとした。

 ――諦めたような匂い。

 それは自分自身が一番感じていた匂いだったからだ。

「東京から来たんだ。夏休みの間だけ、アルバイトでね」

 僕は図星を突かれた動揺を隠すように、早口で答えた。

「ふうん。東京」

 彼女は「東京」という単語を、見たことのない珍しい果物の名前でも呼ぶように口の中で転がした。

「都会にも、風は吹く?」

 純粋な問いかけだった。彼女の瞳には、好奇心と、わずかな憧れのような色が浮かんでいた。

 僕は東京のビル群を思い出した。あの谷間を吹き抜けるビル風。砂埃を巻き上げる突風。

「夏の東京は地獄だ」

 不意に、そんな言葉が口から出た。嘘ではない。東京の夏は、もはや自然の営みではない。エアコンの室外機が吐き出す熱と、車の排熱と、人間の欲望が混ざり合った、人工的に作り出された灼熱地獄だ。例え風が吹いても、それは体を冷やすものではなく、全てを焼き尽くす、死神のような熱風となる。

 そう説明しようとして、僕は言葉を止めた。少女の表情が、少し曇ったように見えたからだ。

「そんな地獄に住んでて楽しいの?」

 彼女は首を傾げた。僕は慌てて首を振る。

「いや、全部が全部地獄じゃないよ。楽しいことだってたくさんある」

 急に取り繕ったのは、東京を「地獄」と言い切った自分の度量の狭さが恥ずかしかったからだ。それに、彼女のような少女に、都会への失望を植え付けたくなかった。

「映画館も多いし、本屋もデカい。夜中でも店は開いてるし、世界中の美味しいものが食べられる。それに……」

「それに?」

「それに、何かになろうと思えば、なれるチャンスがたくさん転がってる。僕はまだ……そのチャンスを拾えてないけど」

 自嘲気味に付け加えると、彼女はきょとんとした顔をして、それから「ふふっ」と笑った。

「変なの。チャンスが転がってる地獄なんて」

「そうだよね。おかしいよね」

 僕もつられて笑った。

 見知らぬ少女と、見知らぬ土地の堤防で笑い合う。それは奇妙な体験だったけど、東京にいた時の、あの泥の中のような閉塞感が、少しだけ薄れていくのを感じた。


 それから、僕たちの不思議な交流が始まった。といっても、毎日言葉を交わすわけではない。

 彼女は相変わらず堤防に座り、僕は駐車場のパイプ椅子に座る。時折、彼女が振り返って手を振れば、僕も手を振り返す。目が合えば、何となくその日の「風向き」が分かるような気がした。

 休憩時間には、缶コーヒーとサイダーを買って、堤防へ上がった。

 彼女の名前は「なぎさ」といった。あまりにも出来過ぎた名前だと思ったが、彼女の雰囲気に、とても似合っている。地元の高校に通う二年生だという。

「ここには何もないの」

 ある日、渚はサイダーの缶を揺らしながら言った。

「海と、山と、年寄りと、錆びたバス停だけ。時間はたっぷりあるけど、何に使えばいいのか分からないんだ」

「贅沢な悩みだよ。東京じゃ、時間は金で買うものだ」

「お兄さんの話を聞いてると、東京って怖そうだけど、楽しそう」

「怖いよ。でも、刺激的ではある」

「私は、ここを出たいな」

 彼女は水平線を見つめて呟いた。

「風に乗って、遠くへ行きたい。ここじゃないどこかへ。でも、どうやって風を掴めばいいのか分からないの」

 その横顔は、切実だった。

 僕は彼女の中に、かつての自分を見た気がした。田舎町で育ち、「ここじゃないどこか」を夢見て東京へ出た十八歳の頃の自分。でも、いざ東京へ出てみれば、そこで待っていたのは無限の自由ではなく、膨大な選択肢の前で立ち尽くす孤独だった。

 ――自由は、不自由だ。

 何をしてもいいと言われることは、何をすればいいか分からないことと同じだった。

「風は、自分で起こすしかないのかもしれないね」

 僕は柄にもなく、そんなことを言った。

「自分で?」

「そう。待ってても吹かないなら、走ればいい。走れば風は起きるだろ?」

 渚は僕の顔をじっと見て、それから少しだけ目を伏せた。

「……走る場所が、分からない時は?」

「それは……」

 言葉に詰まった。それは今の僕自身への問いかけでもあったからだ。走る場所が分からなくて、僕はここまで逃げてきたのだ。

「とりあえず、足踏みでもしてればいいんじゃないかな。準備運動みたいな感じで」

 苦し紛れの答えに、渚は声を上げて笑った。

「足踏み! あはは、それなら今の私にもできるかも」

 彼女の笑い声は、風鈴の音のように涼やかだった。その音を聞いていると、自分が抱えている悩みが、ひどくちっぽけなものに思えてくるのだった。


 八月の下旬に入ると、海の色が変わった。鮮やかだった青に、少しずつ深みと濁りが混じり始める。入道雲は形を崩し、ほうきで散らしたような秋の雲が混じるようになった。

 夜になると、虫の声が変わった。

 ――夏が終わる。

 それは僕のアルバイトの終わりを意味し、同時に、あの東京へ戻らなければならない期限が近づいていることを意味していた。

 就職活動、単位、将来の進路。保留にしていた現実が、保留期間の利子をつけて待ち構えている。

 帰りたくなかった。

 このままここで、毎日海を見て、渚と他愛のない話をして過ごせたら、どんなに楽しいだろう。しかし、それは許されない逃避だということも分かっていた。

 渚が「ここを出たい」と願うように、僕もまた「ここ」に居続けることはできない人間なのだ。僕たちは、それぞれの場所に帰らなければならない。


 最終出勤日は、台風が近づいている日だった。

 朝から湿った生温かい風が吹き荒れ、海は灰色に荒れ狂っていた。白波が牙を剥き、堤防にぶつかって粉々に砕け散っている。もちろん、駐車場に客は来ない。ホテルも開店休業状態だ。

 僕は管理小屋の中で、荷物をまとめていた。今日で終わりだ。明日の朝のバスで、東京へ帰る。

 窓の外を見る。堤防には誰もいない。当然だ。こんな日にあそこに座っていたら、波にさらわれてしまう。

 ――挨拶、できなかったな。

 昨日は非番で、その前日は彼女が来なかった。最後に一言、「元気で」とか、「頑張れ」とか、何か伝えたかった。連絡先も知らない。名前と、高校生だということしか知らない。

 このまま会えずに終わるのが、夏の出会いとして相応しいのかもしれない。そんなセンチメンタルな感傷に浸りながら、僕は最後の巡回に出ようと小屋のドアを開けた。

 強風が吹き込んだ。帽子が飛ばされそうになり、慌てて押さえる。砂交じりの風に目を細めながら、堤防の方を見た。


 ――いた。


 嘘だろ、と思った。

 灰色の空と海を背景に、白いワンピースが旗のように激しくはためいている。彼女は堤防の上に立ち、荒れ狂う海に対峙していた。

「おい!」

 僕は叫んだ。その声は風の音にかき消される。

 危ない。あんなところに立っていたら、突風に煽られて海に落ちる。

 僕は走り出した。足がもつれる。降り出した雨が全身を叩く。それでも、必死に足を動かした。

 堤防の下まで辿り着き、階段を駆け上がる。

「渚!」

 叫ぶと、彼女が振り返った。髪はぐちゃぐちゃで、ワンピースは雨と波しぶき濡れていた。でも、その表情は今まで見たどの顔よりも生き生きとしていた。

 彼女は笑っていた。嵐を楽しんでいるかのように。

「高橋君!」

 彼女が僕の名前を呼んだ。初めて名前を呼ばれたことに、この期に及んで驚く。僕の名札を見ていたのだろうか。

『橋君、高橋君どうぞ!』

 僕の腰の無線機から、フロント係のノイズ混じりの声が響く。

『橋君、風雨が強まってるから、小屋の中で待機してて……』

 僕は無線機のスイッチを切った。今は、そんなことはどうでもいい。

 堤防の上に上がり、彼女の腕を掴もうとした。

「危ないよ! 降りよう!」

「待って!」

 彼女は僕の手を振り払うことなく、強い力で握り返してきた。その手は冷たかったが、芯のある熱を持っていた。

「明日、帰るんでしょ?」

 大声で言わないと聞こえない。

「ああ、そうだよ! だから……」

「明日も風は吹く?」

 彼女は僕の目を覗き込んで叫んだ。その問いの意味を、僕は一瞬理解し損ねた。天気の話か?

 ――違う。

 彼女は聞いているのだ。東京へ帰っても、その先の世界へ行っても、風は吹くのかと。僕が恐れている「日常」や「停滞」の中に、変化の予兆はあるのかと。そして、彼女自身もまた、いつかそこへ飛び込んでいけるのかと。

 僕は彼女の手を強く握り返した。

 風が、僕たちの間を吹き抜けていく。それは恐怖を感じるほどの強風だったが、同時に、僕の背中を強く叩く激励のようにも感じられた。

 答えは決まっていた。

 風は自分で起こすんだ。走れば、風は吹く。

「吹くよ! 必ず!」

 僕は腹の底から声を出した。嵐の轟音に負けないように。

「明日も明後日も、ずーっと! どこにいたって、吹く!」

 渚は目を見開き、それから今日一番の笑顔を見せた。頬が濡れたように輝いている。波しぶきのせいなのか、雨のせいなのかは分からない。

 彼女は僕の手を離すと、海ではなく、空に向かって両手を大きく伸ばした。まるで、世界中の風をその体に集めるかのように。

「見てて!」

 彼女が叫んだ瞬間、これまでで一番強い突風が吹き付けた。

 体が浮き上がるかと思った。

 彼女の白いワンピースが、翼のように広がる。彼女はそのまま、風に乗って飛んでいきそうだった。でも、彼女は飛ばなかった。大地をしっかりと踏みしめ、風を受け止め、そして風の一部になっていた。

 その姿は、美しかった。そして、僕の中で何かが弾けた。

 躊躇も、不安も、憂鬱も、全てが風にさらわれていく。残ったのは、シンプルな衝動だけだった。

 僕は勢いよく堤防から飛び降りた。駐車場のアスファルトを蹴って、僕は走った。意味もなく、ただ全力で。

 風を追いかけて。いや、今、風は確かに僕の背中を押していた。

 振り返ると、渚が両手を大きく振っていた。

「渚! ありがとう」

 その言葉が渚の耳に届いたのかは、分からない。


 九月の新宿は、相変わらず暑かった。

 駅のホームに降り立つと、むっとした熱気が体を包む。雑踏、騒音、無数の匂い。以前なら、この空気に触れただけで眩暈めまいがしたかもしれない。でも今は、不思議と不快ではなかった。

 人波をかき分け、改札へと向かう。スーツケースの車輪が、コンクリートの上を転がる音が軽快に響く。


 ふと、ビルの谷間から風が吹き抜けた。生温かい、都会の風だ。潮の香りはしないし、あの日のような透明感もない。それでも、それは確かに風だった。髪を揺らし、シャツの裾をはためかせる、動きのエネルギー。

 ――足踏みでもしてればいい。

 自分の言葉を思い出し、苦笑する。

 足踏みはもう終わりだ。

 僕はスーツケースのハンドルを握り直し、歩幅を広げた。まだ何者でもない僕だが、歩き出すことはできる。

 あの海で、渚が、風を呼ぶ少女が教えてくれたこと。

 立ち止まっていても、風は吹くのを待ってくれない。でも、自分が動けば、そこには必ず風が生まれる。

 雑踏の中へ、僕は一歩を踏み出した。

 その足元から、小さな風が巻き起こるのを感じながら。


(了)

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