アルトレウスの娘 ~イグニシア戦旗~

名も無きサルカズ

1章 アルトレウスの娘

第1話 プロローグ ~まだ風が、穏やかだった頃~

――まだ風が、穏やかだった頃


 草原の風は、朝のうちはまだ優しかった。

 頬を撫でるように柔らかく、馬のたてがみをそっと揺らす。

 フェリシアは目を細め、その風を全身で受け止めていた。


 まだ、穏やかな朝の匂いがしていた。




 アルトレウス家館の北に広がる緩やかな丘陵地帯。夜露を含んだ草が、朝日を受けて淡く光り、蹄に踏まれては静かに揺れる。遠くには低い林が連なり、そのさらに向こうが国境だった。


 帝国北縁に位置する、領民およそ七千人が暮らすアルトレウス領は、丘陵と平原を抱え、街道と河川が交差する土地である。

 帝国の版図が縮小し、今や帝都とその周辺地域のみを辛うじて維持するこの時代にあって、ここは数少ない「帝国諸侯が治める領地」だった。


 辺境ではない。  だが、国境である。


 ゆえに、この地では領主の判断ひとつが、領民の生死に直結する。


 領主エウスタティウスは、草原を渡る風と、その只中にいる娘の背を見ていた。


 跨っている馬は、まだ名を持たない。


 エウスタティウスの代になってから、アルトレウス家が積極的に導入し始めたパルティア馬系の軍馬だった。

 最近、帝都との交易で力を伸ばしつつある商人――ミハリ・パンフィロスから献上された悍馬かんばである。

 血統は確かだった。東方由来の、体躯の引き締まった馬で、脚の回転が速く、持久力もある。

 栗毛の鮮やかな毛並みは、良血馬らしい光沢を放っていた。


 だが、この牝馬ひんばは気性が荒かった。


 厩舎に入れてからというもの、誰一人として満足に乗りこなせていない。暴れ、噛みつき、蹴り、最後には厩番を二人、半月ほど寝込ませた。


 「誰も乗れぬ馬に、価値などない」


 この惨状にエウスタティウスは、一度は売却も考えた。

 だが、誰も乗れぬ馬に買い手がつくはずもない。


 ――ミハリめ。


 厩舎の奥で、荒い息を吐きながら柵を蹴ったあの馬の姿が、ふと脳裏をよぎった。


 表向きは「アルトレウス家のご厚意に報いる献上」と言いながら、実際には売れ残った厄介物を処分するための方便だ。帝国内、特に帝都で評判を落とすことなく、なおかつ関係を保つための商人らしい抜け目のなさである。


 とはいえ、良血馬をただ処分してしまうのも忍びなかったのだろう。

 エウスタティウスならば、なんとかしてくれるのではないか――そんな思惑があったとしても、不思議ではない。

 実は商売人らしからぬ繊細せんさいで心根の優しい彼のその人柄を、エウスタティウスはよく知っている。


 そうして、この馬はアルトレウス家に託された。


 厩舎きゅうしゃでは、扱いあぐねた厩番や家臣たちが、どうしたものかと顔を見合わせ、声を潜めて思案していた。


 そんな折、ふと馬から目を離したその時に、その輪から少し離れたところで厩舎を見ているフェリシアが視界の端に入った。


 ――自分なら乗りこなせる。


 そうとでも言いたげな瞳をその馬に向け、確信に満ちた表情の娘がそこにいた。

 エウスタティウスは、馬に近づくその様子を、何故か咎めることもできずにいた。彼女は根拠のない自信などではない、むしろ当然といったような顔で馬を見つめていたと思えば、息つく間もなくその首筋のすぐ側まで歩みを進めていた。


 「お嬢様、危険です」


 厩番長うまやばんちょうの制止する声が響いた。だが彼女はその声が耳に入らなかったのか、止まることは無かった。

 馬は耳を伏せ、歯を剥き、威嚇した。それでも彼女は止まらなかった。


 そして今、その馬は、彼女の下で疾走している。


 手綱は緩く、鐙にかかる力も最小限。背中の揺れ、耳の動き、呼吸の乱れ――あらゆるものが、馬の「今の気分」を告げていた。


 恐怖は消えていない。だが、彼女が恐怖を認めることで、馬も落ち着きを取り戻していた。


 力で抑え込めば、この馬は絶対に応じない。だが、寄り添えば、馬は自分から走る道を選ぶ、と。


 ――しかしこの感覚は、訓練で得られるようなものではない。

 生まれ持つものとしか言いようのない、馬との対話、そしてそれに基づく制御能力。

 凡人が日々どれほど鍛錬たんれんしようとも、決して辿り着けぬ領域の話だった。


 荒い呼吸。背中を伝う筋肉の震え。フェリシアはそれらを拒まず、読み取り、流していた。


「――見事なものだな」


 後方から、落ち着いた声が響いた。


 アルトレウス家当主、エウスタティウス・オ・アルトレウス。

 赤髪に混じる白髪は年相応に増えたが、その背はまだ真っ直ぐで、馬上の姿には七家の当主としての威厳が心なしか感じられる。


 「馬の癖を、よく見ている」


 誉め言葉としては控えめだったが、それでもその言葉のトーンはいつもよりほんのわずかに高く、またその時の父のまなざしがわずかに柔らかいものに変化した。それは家族でないとわからないレベルのものかもしれない。

 フェリシアはその微かな変化を感じ取り、振り返って父に向って満面の笑みを返した。

 それが父らしさだと知っているから。


 少し遅れてその左右に、兄たちが追い付き並走しようと馬体を合わせる。


 長兄アウレリウスは、父に似た体躯を持ち、騎乗も剣も槍も器用にこなす。

 しかし、足りない。剣の腕前は戦場で決定打を放つような鋭さも力強さも無く、かといって非常時に混乱を断つ判断力もない。


 エウスタティウスは、父としてはあまりに辛辣に過ぎる評価だとは思いつつも、どうしても次代の領主としては、その物足りなさに目がいってしまう。平時ならばまだ安定した統治者にはなれるだろう。だが、いざ有事の際には、限界が露呈してしまうかもしれない。


 ――父は、そう危惧していた。


 次兄セバスティアーヌスは、少し後ろを走っている。

 馬の癖を読む目は兄より鋭く、戦術理解も上回る。また彼は繊細に周囲を洞察し分析する能力に優れていた。それらの才能はエウスタティウス自身、大いに認めるべきものだった。

 しかし一方で、彼は決して進んで前には出ず、目上の者を支え自らは主張しない、という性質をも持っていた。それは、ある意味では大きな美徳ともいえるが、上に立つ者としては必ずしも良い評価とはならない。


 ただ、彼はそんな自分に満足しているようですらあり、領主家の父としては、その秀でた才能と謙虚な立場の相反が惜しかった。

 もちろん、自然と兄を立て、一歩も二歩も下がったところからのサポートに徹する、そんな性格は、家を盛り立てる次男としては正しい在り方ともいえるのだが…


「その馬、俺が乗ったときは三歩と進まずに振り落としてきたぞ!」


 先行する騎乗のフェリシアに追いつき、ようやく馬体を合わせたアウレリウスが苦笑する。


「それはお兄様が手綱を握りしめてハミを引っ張り過ぎたからよ」


 フェリシアは即座に言い返した。馬の首筋を撫でながら、さらに続ける。


「怖がっているのを無理に押さえつけたら、この子は余計に暴れるに決まってるよ」


 フェリシアのその言葉に、馬が呼応するように短く嘶いた。


 父は、その様子をじっと見ていたが、やがて静かに頷いた。


「……馬を支配しようとするのではなく、理解しようとしているのだな。それも瞬時に。」


 エウスタティウスの言葉は、褒め言葉というより、そのことを発見し感心した拍子に思わずつぶやいた、といったものだった。

 そして彼はもうそれ以上、何も言わなかった。


 丘を回り込み、草原の影が濃くなり始めた、そのときだった。


 背後から突如、早くて硬い蹄音が響いた。


 速い。


 焦りを孕んだ、乱れた走り。


 それに連鎖するように急に馬たちが落ち着きを失い、四人は各々の馬をなだめなければならないほどだった。あのフェリシアですら手綱を強く握り直して、馬に言葉で落ちつかせようとしていた。


 四人がようやく馬をなだめてその方向へ振り返ると、家臣の一人が早馬で駆け寄ってくるのが見えた。鎧は着崩れ、馬は泡を吹き、脚運びも乱れている。


 「閣下!」


 男は馬から転げ落ちるように降り、膝をついた。


 「西方の我が領とドロミア領の境、物見櫓ものみやぐらより軍影ありとの急報!――ドロミア勢と思われます。ヴァルデリク・オ・ドロミアが、軍勢を動かしました!」


 その報告が4人の空気を一変させた。


 「兵数は」


 エウスタティウスの声は低かった。


 「およそ六百。しかし――」


 家臣は言葉を継ぐ。


 「ドロミア領の規模から考えれば、奴らがどうかき集めても五百が限界です。それも防衛時の話です。にもかかわらず、展開している部隊は――」


 そこで一度男は唾を飲み込む。


 「正規兵並みの装備と練度。隊列も整いすぎています。急ぎ斥候を出しましたが、確認できたのは主力のみ。側面と後背が、妙に静かです」


 「伏せていると」


 エウスタティウスの言葉に、家臣は頷いた。


 「はい。伏兵、もしくは別働隊が控えている可能性が高いかと」


 エウスタティウスは沈黙した。情報を頭の中で組み立て、その先にある真実へ辿り着こうとしている。

 やがて彼は静かに息を吐いた。確信に至る呼吸だった。


「……セヴァリス王国か」


声は低く、厳しかった。


 公然と帝国に刃を向けることはせず、緩衝地帯かんしょうちたいの小領主を表に立たせて、自らの正規軍を傭兵としてそこへ押し込む。そうすれば、王国による侵攻、国家間の戦争ではなく「領主間の争い」に見せかけられる。

 責任の所在を曖昧にし、状況がどう転んでも言い逃れができる。


 それが、小領主ひしめく緩衝地帯を挟んだ帝国の北西に位置する強国、セヴァリス王国がよく使うやり口だった。


 父は、ゆっくりと空を仰いだ。

 セヴァリスが。王国そのものが、動いたのだ。




 帝国歴467年夏の朝日の下、父の顔に陰が落ちた。

 東に昇るアグニスの光は、かわらず穏やかだった。

 だが、フェリシアには分かった。


 この風は、もう――同じではない。


 それはいつの間にか頬を叩き、髪を乱暴に乱すように吹き始めた。

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