世界が「世界」であった時代がある。

それは、世界が正しいからでも、善いからでもない。

ただ――無視できていたからである。

無視とは、忘却ではない。

否認でもない。

それは、第一章で記した「ごまかし」が、まだ効いていたということ。

薄められ、散らされ、遅らされ、

重さが一点に凝縮しないまま、

世界が息をしていられた時代。

その時代、世界は静かに言った。

「まだ大丈夫だ」と。

だがそれは、永遠の保証ではなく、

ただの“今の呼吸”にすぎなかった。

Ⅰ　無視できる重さ＝未だ薄い重さ

重さとは、最初から「鉛」ではない。

最初は、霞（かすみ）に似ている。

霞は、目を曇らせる。

だが同時に、視界を守る。

あまりに鮮明に見えすぎれば、

世界は世界でなくなるからだ。

この時代の重さは、まだ薄かった。

薄いというのは、軽いのではない。

世界が薄め切れていたという意味である。

ひとつの痛みが生まれても、

風がそれを運び、

時がそれに砂をかけ、

縁がそれを分散し、

名がそれを「一つの出来事」として棚に置いた。

重さは在る。

しかし重さは、まだ“点”になっていない。

だから、世界は保たれた。

保たれている限り、人はそれを「安定」と呼ぶ。

その呼び名こそが、世界の薄さを証していた。

Ⅱ　痛みが“出来事”で済んでいた時代

この時代、痛みは「出来事」であった。

出来事とは、始まりと終わりを持つもの。

泣けば終わる、ではない。

忘れれば終わる、でもない。

ただ、痛みが痛みのまま、

一生を呑み込むほどには濃くならなかった。

傷は癒える。

癒えるのではなく、癒えた“ことにされる”。

それは悪意ではない。

世界が裂けないための処置である。

痛みが出来事で済む間、

善悪もまた出来事で済む。

「これは間違っていた」

「これは正しかった」

そう言って、片づけることができる。

片づくということは、救いではない。

だが片づかないより、世界は世界でいられる。

この時代の平和とは、

片づけが可能である、という平和であった。

Ⅲ　例外が例外のまま処理される仕組み

世界が裂けるのは、例外が“例外でなくなる”ときである。

例外が多すぎれば、それは規則になる。

規則が崩れれば、世界は世界でなくなる。

無視できた時代の世界は、

例外を例外として隔離する術を知っていた。

例外は、

壁の向こうに置かれる。

名を付けられ、箱に入れられ、

「それはそれ」とされる。

その箱は、世界を守る。

同時に、世界の底に澱（おり）を溜める。

しかしこの時代、人々はそれを「賢さ」と呼んだ。

隔離は賢い。

封印は賢い。

忘却も、時には賢い。

賢いがゆえに、

世界は“まだ”保たれた。

だが賢さは、永遠ではない。

箱は、溜まる。

箱は、いつか重くなる。

この章は、その重くなる前の静けさを記す。

Ⅳ　善悪がまだ成立する条件

善悪が成立するのは、

世界がまだ一本の物差しを持てるときである。

物差しとは、

「これをすれば保たれる」

「これをすれば壊れる」

という、世界側の簡易な判定軸だ。

無視できた時代の世界では、

多くの事は、この物差しで裁けた。

約束は守る

奪うのは悪い

殺めるのは悪い

助けるのは良い

こうした言葉は、

正しいから成立したのではない。

世界がまだ薄く、例外が少なく、判定が可能だったから成立した。

善悪は、秩序の骨であり、

同時に、世界が薄いことの証でもある。

善悪が機能する世界は、まだ世界だ。

だが、善悪が機能しすぎる世界もまた危うい。

なぜなら、

善悪が鋭くなるほど、

例外を「悪」として切り捨てたくなるからである。

善悪は、世界を整える。

同時に、世界を狭くする。

この矛盾は、無視できた時代には目立たない。

薄いからだ。

だが薄さは、いつか尽きる。

Ⅴ　交換可能性が世界を軽くする

無視できた世界には、もう一つの秘密がある。

それは、交換可能性である。

交換可能とは、

入れ替えても世界が保たれる、ということ。

代わりの道具

代わりの仕事

代わりの人手

代わりの土地

代わりの物語

交換できるものが多いほど、世界は軽く見える。

軽いから、安定して見える。

秩序があるように見える。

だが、これは危うい軽さだ。

交換可能性は、世界の動脈を広げる。

同時に、世界の心臓を小さくする。

交換可能性の極まった世界では、

生命さえ交換可能として扱われる。

扱われた瞬間、そこに《実点》の芽が宿る。

まだ点にならない。

だが芽は芽として、

世界の見えないところで重さを育てる。

交換可能性は、世界を回す。

だが「尊さ」を薄くする。

この薄さが長く続くとき、

世界は静かに閾値へ近づく。

Ⅵ　それでも残るもの（残渣の気配）

どれほど薄めても、残るものがある。

どれほど散らしても、戻ってくるものがある。

どれほど遅らせても、追いついてくるものがある。

それが、残渣（ざんさ）である。

残渣とは、忘れられなかったものではない。

残渣とは、薄まらなかったものである。

残渣は、はじめ小さい。

小さいから、人は無視できる。

世界も無視できる。

だが小さいからこそ、

誰にも拾われず、

胎盤にも回されず、

ただ底に沈む。

底に沈んだ残渣は、

やがて一点に寄る。

寄るのは、偶然ではない。

薄める力は、同時に“集める力”を持つ。

散らす力は、同時に“残す力”を持つ。

遅らせる力は、同時に“溜める力”を持つ。

世界が世界であるために使った機能が、

やがて世界を問い詰める側へ転じる。

その転じる兆しが、

この章の終わりに漂う「気配」である。

この章が記したのは、平和の讃歌ではない。

「安定」は祝福ではない。

ただ――

無視できたから、まだ世界だった。

という、薄さの時代の記録である。

次章「世界は純として在る」では、

この薄さの裏にあった“整合の意志”を、

善悪でも幸福でもない、世界の骨として描く。

そしてその骨の傍らに、

薄まらなかった残渣が、

いずれ《実点》として立ち上がってくることを、

読者に悟らせるであろう。