世界は、はじめから「真理」を語らない。はじめから「善」を掲げない。はじめから「救い」を約束しない。

世界が最初に持ったものは、もっと地味で、もっと強い。それは――壊れないための器官である。

その器官の名を、この巻では ごまかし と呼ぶ。

ごまかしとは、欺瞞ではない。ごまかしとは、逃避ではない。ごまかしとは、世界が世界であり続けるための、最初の働きである。

Ⅰ　世界が最初に持った器官

世界が世界として起動するとき、まず必要になるのは「力」ではない。「秩序」でもない。「意味」でもない。

最初に必要になるのは、余裕である。余裕がなければ、世界は生まれた瞬間に裂ける。

世界は、矛盾を一度に抱え込めない。世界は、重さを一度に受け止めきれない。世界は、出来事を全て同時に直視できない。

だから世界は、器官を持つ。それは目に似ている。しかし、目ではない。それはまぶたに似ている。

世界は、見えるようにする前に、見すぎないようにする。

世界は、触れられるようにする前に、裂けないように皮膚を張る。

世界は、歩けるようにする前に、転んだときに骨が砕けないよう、緩衝を内蔵する。

この「緩衝」が、世界の器官である。この「緩衝」が、世界の最初の知恵である。

そしてその知恵は、世界の言葉ではこう響く。

「いまは、全部を見ない。」

これが、ごまかしの芽である。

Ⅱ　ごまかしは悪意ではない

人の「ごまかし」は、ときに悪意である。嘘をつき、責任を逃れ、痛みを他者へ押し付ける。それが人のごまかしの、低い形だ。

しかし世界のごまかしは、それと違う。

世界は、誰かを騙して得をしない。世界は、誰かに責任を押し付けて楽をしない。世界は、嘘をついて勝利しない。

世界のごまかしは、ただ一つの目的を持つ。目的というより、性質に近い。

世界が裂けないようにする。

ごまかしは、真実を隠すためではない。真実を 壊さない ためである。

真実とは、重い。真実とは、刃である。刃を裸で握れば、世界は自分の手で自分を切る。

だから世界は、刃に布を当てる。刃を刃のまま、扱える形にする。それが世界のごまかしである。

ここで一つ、逆説を刻んでおく。

ごまかしは、真実に反するのではない。ごまかしは、真実が世界に載るための準備である。

Ⅲ　薄める／散らす／遅らせる

ごまかしの働きは、三つの動作として現れる。この三つが揃うとき、世界は「まだ世界」でいられる。

1）薄める

薄めるとは、消すことではない。薄めるとは、重さの濃度を下げることだ。

世界は、重さをいきなり一点で受けない。一点で受ければ、その点は潰れる。潰れれば、裂け目が生まれる。

だから世界は、重さを面へ広げる。濃いものを薄くして、「耐えられる濃度」へ落とす。

薄められた重さは、軽くなったのではない。ただ、いま抱えられる形になっただけだ。

2）散らす

散らすとは、捨てることではない。散らすとは、重さの「場所」を分けることだ。

もし一つの土地に痛みが集中すれば、その土地は呪いになる。もし一つの家に罪が集中すれば、その家は耐えられない。

だから世界は、痛みを縁へ散らし、縁を時間へ散らし、時間を記憶へ散らす。

散らすことによって、世界は「一点の破綻」を避ける。

だが散らしたものは消えていない。散らしたものは、後に「残渣」として戻ってくる。それが次章以降の伏線となる。

3）遅らせる

遅らせるとは、逃げることではない。遅らせるとは、世界が「今、処理しきれない」と判断したものを時間へ預けることだ。

時間とは、世界の倉庫であり、世界の分割機であり、世界の緩衝材である。

遅らせることによって、世界は一度に崩れずに済む。

ここで世界は言う。

「今は結論にしない。」

結論にしない、という判断があるから、世界は極端にならずに済む。極端にならないから、世界は続く。

薄める／散らす／遅らせる――この三つは、世界の呼吸である。吸って、吐いて、また吸う。それが世界の“まだ保てる”という合図である。

Ⅳ　真実を壊さないための布

ごまかしの比喩として、ここでは 布 を用いる。布は、隠すためだけのものではない。布は、保つためのものだ。

刃を布で包めば、刃は刃のまま持てる。傷に布を当てれば、傷は傷のまま癒えていく。熱いものを布で掴めば、火傷せずに運べる。

世界が行うのも、それである。

真実は重い。矛盾は熱い。痛みは鋭い。

それらを裸で抱えれば、世界は裂ける。裂けずに抱えるために、世界は布を張る。

この布が、秩序の前段であり、倫理の前段であり、文明の前段である。

世界が「平和」「安定」「秩序」と呼ばれる状態に見えるとき、実は多くの場合、この布がよく働いている。

布は透明であることもある。布は厚いこともある。布は薄いこともある。

だが布がある限り、世界はまだ「目を逸らせる」。目を逸らせるとは、怠けることではなく、壊れずに済む余白があるということだ。

Ⅴ　ごまかしの限界という概念

どんな布にも限界がある。濡れれば重くなる。裂け目が増えれば縫い切れなくなる。あまりに熱ければ焦げる。

世界のごまかしも同じである。

薄めるには限界がある。散らすには限界がある。遅らせるには限界がある。

限界とは、敗北ではない。限界とは、機能が役目を果たし切った徴である。

ここで、世界史の中に初めて一つの概念が生まれる。それが 閾値（いきち） である。

閾値とは、世界が言う「ここから先は同じ運転ができない」という線だ。これまでは呼吸で保てた。ここから先は呼吸だけでは保てない。

その差が、閾値である。

閾値は怖いものではない。閾値は「変態の前触れ」である。

世界が閉じる（収束）へ向かうのか。世界が裂ける（崩壊）へ落ちるのか。世界が渡す（胎盤化）へ進むのか。

それらの分岐は、ごまかしの限界が見えた時点で、すでに芽を持っている。

Ⅵ　《実点》の予告（布が裂ける予兆）

布が裂けるとき、いきなり裂けるのではない。先に「ほつれ」が生まれる。ほつれは、小さい。小さいから、無視できる。無視できるから、放置される。放置されたほつれは、やがて一点に寄る。

それが、《実点》の予兆である。

予兆は、派手な出来事としては現れないことが多い。むしろ地味に現れる。

同じ型の痛みが、別の場所で繰り返される

小さな断絶が、連鎖して大きな断絶になる

忘れたはずのことが、時を変えて同じ顔で戻ってくる

「例外」が増え、例外が例外でなくなる

交換可能だったはずのものが、交換不能として立ち上がる

そして、ある日、世界は気づく。

「これは薄められない。」「これは散らせない。」「これは遅らせられない。」

世界がそう言った瞬間、生命もまた気づく。

「これは問題になってしまった。」

世界と生命が同時に正直になる一点。それが、《実点》である。

この第一章は、まだ《実点》を語り切らない。ただ予告する。布が裂ける前に、布が布として最大限働いたことを記す。

なぜなら《実点》は、ごまかしが悪だったから生まれるのではなく、ごまかしが世界を守り切った末に、なお残った重さとして生まれるからである。

章末の置き句（次章への橋）

無視できた間は、まだ世界だった。だが無視できるということは、同時に、無視しきれぬものが育つということでもある。

次章では、「薄さの時代」――すなわち、無視できた世界の静けさを描く。

そして、その静けさの底で増えていく残渣の気配を、読者に悟らせる。