第2部:捕食者の独白

 俺には名前がない。  かつてジョン・ラッカムとかいう間の抜けた白衣の男が、俺のことを「害魚(ペスト)」と呼んだような気もするが、定かではない。  俺にあるのは、燃えるような飢えと、強靭な顎、そして泥水だろうが下水だろうが酸素を濾し取るエラだけだ。


 俺が住んでいるのは、あの美しいガラスの水槽ではない。  ジョンが「失敗作」を廃棄する、裏庭のドブ池だ。  そこは地獄だ。腐った藻が水面を覆い、ボウフラが湧き、夏になれば水温は三〇度を超えて煮えたぎる。  だが、俺は生きている。


 毎日、決まった時間になると、ジョンがバケツを持ってやってくる。  彼は泣きそうな顔で、バケツの中身をドブにぶちまける。  バシャッ、という音と共に降ってくるのは、あの「アルテミア」とかいう透き通った連中の死骸だ。  数千、数万の死骸。  塩湖でしか生きられない高貴な彼らは、真水に触れた瞬間に細胞が破裂し、あるいは「星」を見ようとして乾燥し、ただの有機物の塊となって降ってくる。


 俺はそれを食う。  大口を開け、泥と一緒に吸い込む。  味などない。あるのは塩気と、彼らの無念と、そして「敗北」の味だ。


 以前、こんな噂を聞いたことがある。  ジョンが捨てた「新しい失敗作」の中に、まだ息のある奴がいて、そいつが最期に泡のように漏らした言葉だ。 『……故郷が、死んだ』  聞けば、彼らの聖地であるライミントン塩田が干上がり、野生のアルテミアも全滅したらしい。  傑作だろ?  人間に飼われた軟弱者は環境の変化で死に、野生の誇りを持っていた連中も環境の変化で死んだ。  結局、どっちも「変化」に適応する気がなかったんだ。  雨が降るのを待つか、神が水を換えてくれるのを待つか。  口を開けて「救済」を待っていた連中は、等しく土に還ったわけだ。


 滑稽な話だ。  伝統で腹が膨れるか?  高潔さでエラが動くか?  俺を見てみろ。  俺の体は泥色だ。鱗は硬く、ヌルヌルとした粘液に覆われている。口は裂け、目は濁っている。  ジョンは俺を見ない。  たまに目が合うと、彼は顔をしかめて「汚らわしい」と吐き捨てる。  俺はこのドブ池に勝手に住み着いた「外来種」だからだ。  誰に呼ばれたわけでもない。誰に愛されたわけでもない。  ただ、とてつもない繁殖力と、何でも食らう悪食さだけで、この生態系を乗っ取った。


 ある日、ジョンがまた「失敗作」を捨てに来た。  その日はいつもと違っていた。バケツの中には、まだピクピクと動いているアルテミアが数匹混ざっていたのだ。 「すまない……すまない……」  ジョンは懺悔しながら、彼らをドブに放流した。  環境に適応できず、弱りきったアルテミアたち。彼らは泥水の中で、必死にその細い脚を動かしていた。 「……星が、見たい」  水中に伝わる波動で、俺には彼らの「声」が聞こえた。 「ここは暗すぎる。美しくない。私のいるべき場所じゃない」


 俺は泥の中からヌラリと身を乗り出した。  俺の巨大な魚影が、彼らの頭上を覆う。 「おい、もやしっ子ども」  俺は泡と共に言葉を吐いた。 「美しくないだと? 泥が臭いだと? 笑わせるな」  アルテミアたちは恐怖に震え、透明な体を小さく丸めた。 「ひっ……! な、なんだお前は! 野蛮な怪物め!」 「怪物で結構。俺はブラックバス。この泥沼の王様だ」


 俺は彼らの周りをゆっくりと旋回した。 「お前らの主は、お前らを愛しているそうだ。だから過保護に育て、少しの失敗で『かわいそうに』と涙を流して廃棄する。……それが『愛』か?」 「な、何を言う! ジョン様は私たちを理想郷へ導こうとしてくださっているのだ!」 「理想郷? その結果がこのザマか?」  俺は水底に堆積した、彼らの同胞の死骸の山を尾びれで叩いた。泥煙が舞い上がる。 「ここは墓場だ。お前らの『美学』の終着点だ。……いいか、よく聞け」


 俺は裂けた口をニィと歪めた。 「生きるっていうのはな、綺麗事じゃねえんだよ。  水が汚ければ、泥を濾過してでも吸うんだ。  餌がなければ、共食いしてでも食うんだ。  誰かに『環境』を整えてもらうのを待つんじゃねえ。自分の力で、環境の方をねじ伏せるんだよ」


「……野蛮だ」  アルテミアの一匹が吐き捨てた。 「そんな浅ましい生き方をするくらいなら、私は誇り高く死を選ぶ。美しくない生になど、価値はない」 「そうかよ」  俺は瞬きもせずに言った。 「なら、俺の血肉になれ」


 バクッ。


 俺はそいつを吸い込んだ。  咀嚼する。薄い甲羅が砕け、高貴な体液が俺の胃袋に落ちる。  美味くはない。だが、エネルギーにはなる。  残りのアルテミアたちが悲鳴を上げて逃げ惑う。だが、このドブ池に逃げ場などない。  俺は次々と彼らを捕食した。  罪悪感? ない。  これは「批評」ではない。「生存」だ。  弱いものが食われ、強いものが生き残る。それこそが、ジョンが実験室の中で見失った、生命の唯一の真理だ。


 数ヶ月後。  ジョンの実験室は閉鎖された。  「アルテミア計画」は失敗に終わったらしい。予算が尽きたのか、ジョンが絶望して首を吊ったのか、そこまでは知らない。  ただ、餌が降ってこなくなっただけだ。  ドブ池は静まり返った。  アルテミアの死骸も分解され、泥の一部となった。


 俺は飢えた。  腹が減って、腹が減って、どうしようもなくなった。  だが、このドブには俺以外の「外来種」もいた。  


 真っ赤な甲羅を持つ、アメリカザリガニだ。  奴もまた、どこかの国から持ち込まれ、泥に捨てられた「外来種」だった。だが、奴には俺と決定的に違う点があった。  奴は「武装」していた。  硬質な甲殻の鎧と、鋼鉄のような二つの巨大なハサミ。  奴は俺の領土である土管の陰に陣取り、ハサミを振り上げて威嚇した。その姿は、まるで重装備の騎士気取りだ。


 俺は戦った。  これは共存のための会議ではない。殺し合いだ。  奴のハサミが、音速で繰り出される。  水中を切り裂く衝撃波が俺の側線を叩く。俺は体をひねって回避したが、遅かった。  バヂンッ!  背びれの一部が、ハサミに挟まれて食いちぎられる。  激痛が走る。赤い血が泥水に滲む。  だが、俺は怯まない。痛みに意識を持っていかれるのは、アルテミアのような弱者のすることだ。俺は痛みを「怒り」という燃料に変える。


 俺は泥を巻き上げて視界を奪い、奴の死角である背後へ回り込んだ。  奴が慌ててハサミを旋回させるより早く、俺は突撃した。  狙うのは甲羅の継ぎ目、柔らかい腹の部分だ。  ガァンッ!  俺の強靭な顎が、奴の尾の付け根に食らいつく。  硬い。まるで石を噛んでいるようだ。歯が軋み、欠けそうになる。  だが、離さない。  俺は首を激しく左右に振った。デス・ロール。肉を引きちぎるための、捕食者のワルツだ。  メキメキと甲羅が砕ける音が響く。  ザリガニが狂ったようにハサミを振り回し、俺の目玉を狙ってくる。切っ先が俺の眼球を掠める。  構うものか。片目くらいくれてやる。その代わりに、お前の命を貰う。


 バキリ、と鈍い音がして、ザリガニの体がくの字に折れた。  神経を断ち切られたハサミから力が抜けていく。  俺はとどめとばかりに、奴の頭部を噛み砕いた。  脳漿とミソの味が口いっぱいに広がる。  泥臭い、鉄の味。  だが、それはアルテミアのような「虚無の味」ではなく、確かな「生」の味がした。戦って、奪って、勝ち取った者だけが味わえる、濃厚な勝利の味だ。


 俺は全身傷だらけになりながら、泥の王座に君臨した。  鱗は剥がれ、ヒレは裂け、片目は潰れかけた。  だが、美しい。  ガラスケースの中で無傷のまま死んでいった連中よりも、この傷だらけの体の方が、遥かに美しいと俺は思う。


 俺は陸へ上がったわけじゃない。星を目指したわけでもない。  ただ、動くものなら何でも食った。カエルを食い、落ちてきた虫を食い、時には自分の尾びれを齧ってでも耐えた。


 ある雨の日。  新しい人間がやってきた。ジョンとは違う、スーツを着た男たちだ。  彼らはドブ池を覗き込み、顔をしかめた。 「ひどいドブだ。全部埋め立てちまおう」 「おや、待てよ。何かいるぞ」


 男の一人が網を入れた。  俺は暴れた。網を食い破る勢いで跳ね回り、男の顔に泥水を浴びせかけた。 「うわっ! なんだこいつ、すげえ力だ!」 「ブラックバスか? こんな汚い池で、こんなにデカくなるなんて……」


 男たちは俺を吊り上げた。  空中に引きずり出される。えらが焼けるように熱い。  だが、俺は死んだ目のようにはならなかった。  ギラギラと男たちを睨みつけ、尾びれで激しく彼らの腕を叩いた。バシッ! バシッ! 「いてぇ! ……ははっ、すげえガッツだ」  男が笑った。 「前の住人は、繊細なエビの研究をしてたらしいが……結局、最後に残ったのはこの『怪物』ってわけか」 「どうします? 殺処分しますか?」 「いや……」


 男は俺の魚体を、まじまじと見つめた。  その目は、ジョンがアルテミアに向けていた「崇拝」の目ではない。  もっと下世話で、もっと実利的な目だ。 「こいつは食えるかもしれん。……この生命力、この分厚い肉体」


 俺はバケツに放り込まれた。  そこは狭いが、新しい水があった。  俺はエラを動かした。酸素が入ってくる。  生きている。  俺はまだ、生きている。


 おい、そこのあんた。  水槽の外から俺を見ている、あんただよ。  俺を「美しくない」と笑うか?  「泥臭い」と蔑むか?


 結構だ。好きなだけ笑え。  だが、もしあんたが「高尚な餓死」より「生」を望むなら。  綺麗なだけの硝子の棺桶で干からびるより、泥にまみれてでも明日を見たいなら。


 俺を見ろ。  この溢れんばかりの命の塊を見ろ。


 俺は生きている。アルテミアの死体が積み上がっても文庫本の背表紙にすら届かなかった。だが、俺の体は、人生は、幾万の文字を蓄えて構成された「肉の厚み」がある。


 腹が減っているんだろう?早くかぶりつきたくて仕方がないんだろう?


 なあ?


 なら、遠慮はいらない。




































 俺を喰らえ。










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