一河 吉人

 その日は真冬にしては暖かく、いつもはフル稼働の暖房も休み休みで働いていた。モーター音のない部室には、静けさだけがあった。


「……クリスマスですね」

「……そうだねえ」


 たまの会話も途切れ途切れで、すぐ狭い部屋に溶けていく。普段とは違う、どこか静謐な空気。


 だから、僕のその言葉も、きっとクリスマスのせいだった。


「……いい機会なので、先輩には伝えておこうと思うんです」

「ん?」

「僕の気持ちを」

「え……」


 まっすぐ先輩を見据える。彼女は僕の視線に少し狼狽えた後で、栞も挟まず手持ちの文庫本を下ろした。


「……本当は、この気持ちはずっと仕舞っておくつもりだったんです」


 僕の言葉に、先輩はどこか怯えているようだった。


「でも、日に日に大きくなって僕を押しつぶそうとする。口にしてしまえば今まで積み上げてきた全てが崩れてしまうかもしれない、けれど、もう限界なんです」

「……う、うん」


 先輩の瞳には、戸惑いが揺れていた。


「ずっと、思ってたんです」

「うん……」


 僕は、言った。



「卵は、差別されている」



「だ、だめだよ……その、気持は嬉しいけど、ほら、学生の身分で差別――え?」


 先輩は急に目を逸らし、しかしすぐに視線を戻す。


「は? 卵?」


 先輩は難聴の気があるので、僕はもう少しだけ大きな声で繰り返してあげた。



「卵は、差別されている」



「……あ、はい」

「なんですか、そのやる気のない反応は」

「え? いや、別に……なんでもないけど……」


 先輩は何故か顔を斜め下へと向けると、波打った髪に高速で手櫛を通し始めた。


「なんですか、その貰えると思ってたプレゼントを貰えなかった子供のような反応は」

「そ、そんな反応はしていないよ!」

「サンタさんにポケモンを頼んだのにデジモンがきたような反応は」

「それはどっちも面白いからいいんだよ!!」

「どうして汗びっしょりなんですか!? 暖房の温度下げます?」

「そのままでいいよ!!」


 先輩は遠慮するが、僕はできる後輩なのでクーラーの温度を下げた。


「はー……。で、何なんだい? 卵がどうのって」

「……僕は、気づいてしまったんです。極めて重要な、世界の真実に」

「はあ」


「卵は、差別されている」


「もうすでに帰りたいんだけど、一応聞いておいてあげるよ」


 僕の言葉に先輩は後ろへ傾くと、両腕を組んで先輩風で言った。温度を下げたはずなのに、クーラーが動き始めた。


「いいですか? 炭水化物はもちろん、たんぱく質や脂質、ビタミンにミネラルなど多くの成分を含み、一部を除いて5大栄養素が摂取できる一種の完全栄養食、しかも50年も価格の変わらない「物価の優等生」として日本人の生活を支えてきた、それが卵です」

「はあ」

「そんな、近代、現代日本において欠かせないはずの卵、実は……」

「実は?」


「『お』が、付かないんです」


「じゃあ私は帰るから、戸締まりだけはよろしくね」

「ちょっと待ってください、ここからが大事なんです」


 僕は扉に先回りすると、呆れた顔の先輩を席に追い返し続けた。


「考えてみてください。お魚、お肉、お野菜、お米、お水――おおよそ主要な食品は、敬意を込めて『お』付きで呼ばれます」

「はあ」

「お酒、お菓子など、嗜好品にすら『お』が付くんです」

「へえ」

「なんですか、そのやる気のない反応は。もしかして先輩、卵差別主義者ですか!?」

「そんな主義はなよ」

「同じ畜産物でも、牛乳は『お』乳と呼ばれます」

「いや、牛乳をお乳と呼ぶのはごく少数だと思うよ……」

「はぁ? 人間の乳、人乳がお乳なら牛乳もお乳に決まってるじゃないですか! もしかして先輩、牛差別主義者ですか!?」

「どんな主義者だよ……」


 僕は先輩の心の闇を垣間見てしまい、彼女が心配になった。そんな態度、インドじゃ生きていけないぞ?


「しかし、です。おおよそ食卓に欠くことのできない主要品目にあって、こと卵だけは『お』が付かない」

「はい」

「『み』も『ご』付かないんです! そんなことが許されていいものか? いや、いいはずがない!」

「確かに、不思議ではあるね」

「でしょう? 卵の有用性を考えると一つどころか二つくらいは付いていいはずです」

「そうだねえ」

「ごみ卵――そう呼ばれてもいいはずです」

「いいはずがないよ!」

「ちなみに、最も高級な肉はミズジです」


 先輩の目には呆れを通り越して哀れみの光りが灯り始めていた。


「じゃあなにかい? 君は御御御付おみおつけこそが最も高貴な食べ物とでも言うのかい?」

「はぁ? そんなわけないでしょう。敬語は精々二重まで、という日本語のルールを知らない無教養な田舎者がイキって自称しただけのただのしょっぱい汁、あんなもの鼻水と同じです。お前は天皇にでもなったつもりか!?」

「君こそ何様だよ……」


 怒られるよ、と先輩は小声で言うがそれはお門違いと言うものだ。せめて鯛のお頭でも入れてからおととい出直してほしい。


「おさらいしましょう。他の主要品目と違い、卵には『お』がつかない。当然付いていいはずのなのに何故? そこで我々は考えました」

「我々って誰だよ……」

「我々第二文芸部は考えました」

「勝手に頭数に入れるんじゃないよ!」


 ん? 僕らは同じ部員、先輩と後輩、つまり一心同体ということでは?


「結論から言うと、音の問題です」

「音?」

「お肉、お野菜、とても自然な発音ですね。お魚、愛らしくて素晴らしい。ですが、お卵、この言葉にやや音韻的な難のあることは、尊卵派の我々ですら認めざるを得ません」

「おたまご、おたまご……うーん、確かに言いにくいかも」

「でしょう?」


 先輩のお墨付きも出たし、間違いないだろう。


「そして、いいですか? 言いにくいなら、音を変えてしまえばいいのです」


 鳴かぬなら 変えてしまおう 日本語を


「まず検討するべきは『お』です。お卵は言いにくい、ならば『み』卵、『ご』卵はどうでしょう?」

「んん、どっちもあんまり……」

「そうですね、やはりお米やお水と比べると、どうにも収まりが悪い。その原因は明らかです。ならば最後の『ご』を取ってしまえばいい、つまり――



 ――『お』たま」



「どうです? これならば言いやすく、おまけに可愛らしい」

「うんうん、実に興味深い提案だ」


 先輩は腕組み頷いた。


「あっちのおたまと混同するという問題にさえ目をつぶればねえ!」

「いえ、そこは問題ないでしょう。こちらは食品、あちらは調理器具。ジャンルが違えば大丈夫なのは商標登録の仕様から見ても明らかです」

「うーん」

「『お乳取って』と言われて母乳をひり出し始める、そんな間違いも心配いりません」

「そんな間違いはそもそも起こらないよ!!」


 確かに、言われてみれば見たことがないな。


「やっぱり取り違えそうだねえ、知名度が違いすぎるよ」

「ふん、やはりですか。真の正しさを理解せずただ安穏とお仕着せの現状に燻るだけの下民には、ここまでお膳立てしてもまだ崇高すぎる理念だと」

「そうは言ってないよ!」

「残念ですが、言葉とは生き物。産んで、増えて、地に満ちなければ死んでいるも同然です。そこで我々は考えました。『お』『み』『ご』に継ぐ、第四の接頭辞を――



 ――ずばり、『おん』たまです」

「丸被りじゃあないか!!」


 先輩がおぐしを振り回して叫ぶ。おやおや、随分とおきゃんなお嬢さんだ。


「しかもおたまと違って食品という点まで同じだよ、より酷い」

「ああ、そこについては解決策も考えてあります」

「え?」


 僕は先輩という名の扇風機の風圧にズレたメガネを直すと、言った。


「滅ぼしましょう、温玉」

「ええ……」


「そもそも気に食わなかったんですよ、あんなグジュグジュでヌルヌルの煮えきらないヤツは。男なら固ゆで卵のように芯まで一本火の通った存在であるべき、ええ、そうじゃないですか!?」

「そんな個人の好き嫌いを語られても……そもそも、卵って男なのかい?」

「無精卵なら固ゆで卵のように芯まで一本火の通った存在であるべき、ええ、そうじゃないですか!?」

「知らないよ……」

「数あるおかずの中でも下の下、お愛想を言う価値もない。信長も言っていたでしょう? 『言えぬなら 殺してしまえ 温玉を』って。アイツラなんてでもぐじゅぐじゅ卵、ぬるぬる卵とでも呼んでおけばいいんです。そして簒奪されていた『おんたま』の王冠を、あるべきところへと取り戻す。そうですね、その暁には盛大なお披露目会でも盛大に開きますか。ひっきりなしにおひねりが飛び交い、おとぎ話として後世に伝わるような。人々は歓喜に叫ぶでしょう――お肉、お魚、おん卵!」

「はあ」

「御曹司、御大、おん卵!」

「へえ」

「怨霊、瘟病、おん卵!!」

「そんな言葉と並べるんじゃあないよ!」

「邪悪なる君主を打ち倒さんとするこの聖なる軍団に遭ってはお釈迦様もお陀仏、輝かしい勝利はもはや約束されたも同然です。おお、見よ! この鐘の音を! 天も我々を祝福している!」


 僕はどこからともなく流れてきた楽園の調べに耳を傾けた。これが、クリスマスの奇跡――!!


「ただのチャイムだよ」

「そろそろお時間のようですね」


 僕らはいそいそと帰り支度を始めた。


「毎度毎度のことだけど、今日はまた一段とくだらない話だったねえ」

「『お』はつかなくともせめてオチくらいは付けたかったんですが、いいのが浮かばなくて」


 カーテンを閉めてクーラーを切ると、小説をカバンに突っ込みコートを羽織る。


「ですが、負けたままで帰るのも口惜しい。というわけでどうです? 一緒に2回戦でも」

「え?」


 僕は財布から2枚の紙片を取り出し、先輩の眼前にかざした。


「と言っても、卵じゃなくて親鳥の方ですけどね。お隣さんからコンビニチキンのチケットを貰ったんで、良ければご馳走しますよ。お裾分けですしお代は結構です」

「え……い、いいのかい?」

「お父様もお母様も油物はお腹にたまりすぎて辛いお年なんだそうで」

「ふ、ふうん……」


 先輩は数瞬ほど視線を逸らすと、顔をそらしたまま言った。


「ま、まあ、君がせっかく誘ってくれたんだから、付き合ってあげようじゃないか!」

「お墨付きの出るようなおしゃれなお店じゃなくてすみません」

「いやいや、後輩のプレゼントにケチを付けるなんて……あっ!」


 先輩は閉じたはずの鞄を開けるとゴソゴソと中を荒らし、


「ま、待って。待って」


 カラフルな何かを取り出した。


「こ、これ……」


 先輩が、それを僕に差し出す。


「その……私からのプレゼント」

「先輩……」


 僕らは無言のまま、熱い視線を交わし合った。


「完全に忘れてましたね?」

「ち、違う!」


 先輩はメンチの切り会いから逃亡したが、己の負けを認めようとはしなかった。


「最後の最後で渡そうと思ってただけ!」


 僕は無言でそっと、先輩の小さな手からリボンのかかった贈り物を受け取った。


「この重さ……文庫本ですね」

「それは開けてのお楽しみさ」

「ありがとうございます、大切にします」

「さ、最近は君の好みも分かってきたからね。期待してもらっていいよ!」

「神棚に飾ります」

「普通に読んでくれると嬉しいかな……」

「お仏壇に飾ります」

「クリスマスプレゼントを飾って怒られないのかな……」


 じいちゃんは大丈夫だけど、ご先祖さまはちょと分からないな――


(――はっ!!!!)


 瞬間、背筋を電流が貫き、僕は全てを理解した。


「クリスマスは、差別されている!!」

「それはもういいから!」


 先輩はそう言うが、いやいや、今日のこの日にこれ以上大切なことがあるだろうか!?


「いいですか、盆や正月とちがって、クリスマスに『お』はつかない。これは明白な差別の証拠です」

「いや、西洋の催事だし……それに、『暮れ』にだってつかないだろう?」

「……オクレ?」

「それは何か嫌だな……いや、ほら、音韻的に」


 先輩は何故か申し訳なさそうに目をそらした。


「ま、まあクリスマスはもともとセンと・ニコラウス、つまり聖ニコラウスだから『お』が付いてるようなものだよ」

「なるほど、メリクリならぬセンニコだったというわけですか――はっ!!??」


 瞬間、背中を貫く電流が走り、僕は全てを理解した。


「セント・ニコラウスが聖なるニコラウスでセンニコなら、先輩は聖なるパイ――


 ――つまり、お乳……!!!!」

「違う! 全然違う!!!!」


 先輩は大口を開けて抗議した。


「ふう……。まさか、ここで偉大なる精霊、聖なる父がお出ましとは……さすがクリスマス、これは一本取られました」

「一本も二本もないよ!」

「これには尊卵派の我々もシャッポを脱がざるを得ません、ねえ、お乳」

「やかましいよ!!!!」


 おつむを振り乱し細すぎるおみ足で地団駄を踏む先輩の可愛らしいお転婆具合がまるでデジモンを渡された子供みたいでなんだかおかしくて、思わず笑ってしまう。


 聖なる鐘の音と聖なる乳が床を叩く音を黙って聞きながら、僕はイヴの奇跡に心地よくその身を委ねた。なるほど、これが世に名高い牛乳を注ぐ女というやつか……。


 聖なる夜は、今この瞬間にも僕らを、そして世界をその帳で包み込もうとしていた。



「お後がよろしいようで」

「全然よろしくないよ!!!!」


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