Hello, World...
黒石迩守
第1話
その日、
新学期の登校中に桜が舞っていて、邪魔だなぁ、と払おうとしたときだ。薄い花吹雪が、風も吹かずに自分の周りを避けていったのだ。
――あぁ、これは。
何てことのない高校生活の中で、自分が何かに『選ばれた』のだと、平は唐突に理解していた。
〈魔女〉。
おとぎ話の人物になったわけではない。ただ、自分が魔力を扱える感覚――何と言えばいいのか、世界を整えたり散らかしたりする力が備わっていた。
魔力を使うと、自分の中で何かが失われ、体がひやりとする。すると、水を一瞬で氷にしたり、割れた皿を直したりは簡単にできた――できる、と確信していたのに、本当にできたときは奇妙な驚きがあった。
平の〈魔女〉の力の探求はそこで終わった。
飽きたというより、このぐらいでいいや、という消極的な満足感だ。
平は自分が平凡だと自覚している。没個性で、学校のイベントでも、記念写真の端で背景に馴染んでいるような存在だ。「この前のカラオケ、楽しかったよね」と、いつの間にか、友達の遊んだ記憶に組みこまれることもよくある。人前で歌うのが恥ずかしいので、カラオケにはめったに行かないというのに。
部活も趣味も、自分から選んだ記憶がない。誰かに誘われ、それなりに頑張り、半人前辺りで、もうこれ以上はいいかな、と手放してしまう。だから平の部屋は、とりとめのない雑貨や本があって、たまに妹のお下がりとして旅立っていく。
満ちてはいるが、満たされてはいない。
重い布をかけられているような、ぼんやりした抑圧感を抱いているのが、世続平という少女だ。
そんな人間に特別な力が宿っても、非日常の訪れになりようがないのだ。
〈魔女〉となってから数日、日常は代わり映えしなかった。
変わったのは、帰り道に見つけたタイルや壁の欠けを、手遊びで直す癖ができたぐらいだ。
平の家の住宅街は街灯が少ない。月明かりで夜の濃淡が変わり、満月の今日は淡い闇夜に包まれていた。
この暗がりでは、〈魔女〉の力を使っても誰にも気づかれない。近所の塀のタイルに欠けを見つけて、指先でなぞってみた。
平は小さく体を震わせる。割れたものは、近くに欠片があれば元に戻る――だが、ないものは戻せない。
タイルは、元に戻らなかった。
いつからこの壁は欠けていたのか。誰にも気に留められない傷は、何だか自分と似ている気がした。
ふと、壁から目を離すと、家の近くに黒いセダンが停められていた。黒いスーツの男が二人、車から降りてくる。
しまった。壁を弄っているのを見られただろうか。何か言われる前に、通り過ぎてしまおう。
目を合わせないように頭を低くしていると、男が声をかけてきた。
「世続平さん、ですね」
突然話しかけられ、びくりとする。人違いかと思ったが、間違いなく自分の名前が呼ばれていた。
「え、と……そう、です」
黒服の一人は眼鏡をかけた中年で、もう一人は若いエリート然としていた。二人ともドラマのようなチューブイヤホンをしている。
「私たちは警視庁公安部の者です」
慣れた手つきで二人は胸元から手帳を取り出して見せると、すぐにしまう。一瞬だけホログラムが光った警察手帳は本物のように見えた。
「我々の調査で、あなたが特別な力を持っているとわかりました。その力を、この国のために役立ててもらえないでしょうか?」
「えっと……何の話か……」
不思議なことに、春先で寒くもないのに、男たちの体は震えていた。つう、と頬を一筋の汗が伝っている。
平が言葉につまっていると、若い黒服がイヤホンを押さえて顔色を変えた。そのまま「失礼、定時連絡が……」と、二人は小声で話し始める。
「応答しろ」、「周囲との連絡が……」と会話が断片的に聞こえてくる。二人で話しているが、互いの顔は見ておらず、視線はこちらを向いていて、妙に居心地が悪い。
ふと、平は気づいた。
この人たちは、会ったときから自分から目を離そうとしない。
やがて、男たちの会話は熱を帯びたように語気が荒くなっていく。途中から、ほとんど口論のような調子になっていた。
「もうダメですよ! 時間がない!」
堰を切ったように若い黒服が叫ぶと、胸元から何かを取り出し、こちらに向けてきた。
「……え?」
銃だった。
「我々に同行してもらおうか、〈魔女〉」
「やめろ! 刺激するな!!」
男たちが言い争う一方で、凶器を向けられた平は恐怖で体が動かない。
「大丈夫です、こいつはまだ〝なりたて〟です。千載一遇のチャンスですよ」
眼鏡の黒服は逡巡するように一度目をつぶった。そして、目を開く。その視線は、ひどく冷たい、物を見るようなものに変貌していた。
眼鏡の黒服は素早く平の背後に回りこむと、腕をひねり上げてくる。腕の痛みに、平は悲鳴を上げる。
「ご、ごめんなさい! やめてください!」
訳もわからず平は必死に謝るが、すぐに手で口を塞がれた。そのまま引きずられ、車に押しこまれそうになる。
――拉致される。
そう確信して血の気が引いた、次の瞬間だった。
爆発のような音がして、男たちが吹き飛んだ。
尻もちをついた平は呆然とする。流星のように空から降ってきた
満月の明かりを背負ったそれは、セーラー服を着た少女の形をしていた。
墨を流したような長い黒髪をたなびかせ、輝く星のような瞳で彼女は平を見据える。
「助けにきましたよ、あなたは何の〈魔女〉ですか?」
「わたしは……〈世界〉の〈魔女〉」
彼女の美しさに惑わされたように、平は自分に宿った力の名を口にしていた。
背後で破裂音がして平は体をびくりとさせる。振り向くと、若い黒服が銃を構えていた。
セーラー服の少女が呆れたように嘆息する。
「市街地で発砲とは。これだから末端の人間は」
少女はひしゃげた車の屋根から降りると、手を差しだしてくる。
「立てますか?」
「え、えと……腰が抜けちゃって。いや、それより、じゅ、銃が……」
少女は「ん?」と不思議そうに黒服に目をやると小さく笑う。
「あぁ、大丈夫ですよ。『外させて』ますから」
黒服たちが次々と背後で発砲するが、少女は平然としている。逆に、弾が当たらず男たちのほうが恐慌状態に陥っていた。
「さて、行きましょうか」
銃で狙われているのを意に介さず、少女は平を抱きかかえた。平と同じくらいの細腕で、軽々と平の体を支えている。
「え……え?」
「事情は後ほど。しっかり掴まってくださいね」
そのまま、彼女がジャンプすると、風景が一転する。
住宅街を見下ろし、屋根よりも遥か高い中空で風を受けていた。月光に照らし出された少女の瞳に平の顔が映りこみ、少女が微笑む。
「私は
◆
平を抱えた昴と名乗った少女は、とあるマンションの屋上に降り立った。
拉致未遂と真夜中の空中散歩に困惑していると、昴は「〈魔女〉の互助会のセーフハウスですから安全ですよ」と的外れな説明をしてくれた。
セーフハウスは、生活感のない殺風景な部屋だった。
「どうぞ座っていてください」
そう言うと、昴はキッチンのほうへ行ってしまった。
平はテーブルと椅子だけのリビングで腰を下ろし、意味もなく天を仰いで呆ける。
知らない天井。何でこうなったんだっけ? そうだ、帰りが遅くなるって連絡しないと――
チン、と電子レンジの音で、平は我に返った。
昴が湯気の立つカップを持ってくる。
「ホットミルクです、落ち着きますよ」
「あ、ありがとう」
テーブルにカップを置くと、昴は平の対面に座った。
「まずは〈魔女〉についての説明がいりますね」
平がホットミルクに口をつけたところで、昴は話し始めた。
「世界には、二十二人の〈魔女〉がいます。先代が死ぬと、誰かが新たな〈魔女〉になるという仕組みです」
〈魔女〉になった日の『選ばれた』感覚を思いだす。あれは、誰かの死がきっかけだと言われても実感がない。何の感慨も湧かない自分が、少し薄情に思えた。
「さっきの人たちは……?」
「あれはたぶん、政府の人間ですね。どうせ公安とか名乗ってたんでしょう? 世界中のどこの国も〈魔女〉の力を欲しがってますから」
「力が欲しいって、わたし、大したことできないけど……」
「例えば?」
「えっと……」
説明するより見せたほうが早い、と平はカップのミルクに魔力を込めた。
「こんな感じ」
「十分ですよ。それが大したことなんです。平の〈世界〉はエントロピーを操作する力らしいですし」
平、と友達にも呼ばれない下の名前で急に呼ばれて、少しどきりとする。綺麗な顔をした昴の口から、親しげに自分の名前が出てくるとは思わなかった。
「ところで、女の髪には魔力が宿る、という話を聞いたことがありませんか?」
昴は、さらりと自分の長い黒髪を流して見せた。艶めいて、まったく癖がついていない絹糸のような綺麗な髪だ。ふわりと甘い匂いが香ってきて、少しどぎまぎしてしまう。
「何かで聞いたことある、かも」
「実はこれ、正しいんですが、不正確なんですよ」
昴は自分の胸元に手を置いた。
「私たち〈魔女〉の力の源は、この肉体すべて――質量をエネルギーに変換できるんです」
「それって、どう……?」
「E=mc
「そ、そんなに?」
まぁ、そんなことやりませんけどね、と昴はシニカルに笑う。
「私たちの体も耐えられないですし、第一に住むところなくなっちゃいますし――つまり連中、〈魔女〉の力を科学的に解明できれば、エネルギー革命が起こせると思ってるんですよ。だから血眼になって、〈魔女〉を手中に収めようとしているんです」
「え、それなら、普通に研究に協力してあげれば?」
平の牧歌的な考えとは裏腹に、柔和だった昴の顔から一瞬で感情が消えた。
「それは、できません。できないんです……〈魔女〉を人間として扱う国は、どこにもないんです」
急に昴は歯切れが悪くなり、平から視線を外す。
「……歴代の〈魔女〉の中に、君と同じように考えた者がいました。ですが、彼女は……薬漬けにされ、手足を奪われました。標本として殺さないよう、丁寧に『生かされた』んです」
平は急に悪寒を覚える。昴が言外に示そうとしていることに、嫌な予感がした。この先の話を聞いたら、きっともう後戻りできない。
「――ごめんなさい、助けてくれてありがとう。けどもう家に帰るね」
「平!」
昴が腕を掴んでくる。その手は力強く、振りほどけそうになかった。
絞りだすように昴は言う。
「君は、家には……家にはもう帰れないんです」
「そんな、わけない……」
「互助会が、平が新たな〈魔女〉になったと感知して、一番近くにいた私が真っ先に君の家に向かいました。ですが家は……もぬけの殻でした……人も、家具も」
「うぅ……」
大切な何かが抜け落ちてしまったように、足に力が入らず、平はその場に頽れる。頭でわかっていても、心が理解を拒んでいた。
涙で視界が滲み、世界が歪んでいく。それに呼応するようにフローリングが反り返り、壁がひび割れていく。体温が急激に下がり、体が震え始めた。
あのとき、黒服が現れたときには、もうすべてが終わっていた。平凡で、物足りないけど不満のなかった日常は、いつの間にか終わらされていた。
この感情はどこに吐き出せばいいの?
〈世界〉の力が暴走していると理解しているが、止まらない涙と同じように力も止められない。止め方がわからなかった。
突然、背中に温もりを感じた。
昴が後ろからそっと抱きしめてくれていた。なぜか、彼女の腕の中にいると、すっと心が楽になっていくのを感じる。感情で暴れていた力も、自然と治まっていった。
「私の〈星〉は、意力のベクトルを操れます。今は君の悲しみを和らげさせていますが……嫌だったら言ってください」
平は答えず、昴の両腕に顔を埋める。
「ねぇ、平。私に君が〈魔女〉として生きるための手助けをさせてください」
◆
それから、平と昴の奇妙な共同生活が始まった。
セーフハウスを転々としながら、〈魔女〉の力の訓練をする日々だ。朝は、昴を相手に組手をするのが日課になっていた。
「魔力による身体強化の基本は、力の上乗せと相殺です。身体強化、とは言いますが、実際は魔力の薄い鎧をまとっているようなものです」
ぱき、と昴はペットボトルの栓を開ける。
「何かを殴ると、殴った手も痛くなりますよね? 作用と反作用です。当然、魔力で上乗せした力の反動に肉体は耐えられません。なので、魔力の鎧に肩代わりさせて相殺します」
水を数口飲むと、ふぅ、と昴は一息吐いた。
「〈星〉や〈世界〉のような〈魔女〉固有の力とは別に、身を守るために必須の技術ですから、しっかり……聞いてますか、平?」
「聞いてない……」
平は地面にうつ伏せに倒れていた。
組手で昴にぶっ飛ばされること数度、魔力で守られた体に痛みこそないが、平は精根尽き果てていた。息が上がって汗もかいているのに、体は寒気がする。
どうにか体を転がして仰向けになると、昴がこちらを見下ろしていた。
「不思議な感覚でしょう? 〈魔女〉は自分の体温――熱エネルギーを媒介に魔力を抽出しています。なので、魔力の使い方が下手糞だと『そう』なります」
「……世の中には褒めて伸ばす、という教育方法があるらしいです、先生」
それはいいですね、と昴はにこりと笑った。
「是非とも諸手を挙げて褒められる生徒に育てましょう。なので休憩は終わりです」
「嘘でしょ」
午前中の訓練が終わると、昴が〈魔女〉の互助会の用事で出かけることがあるので、午後の予定はまちまちだ。
互助会の歴史は古く、正体を隠して人間社会に溶けこみ、資産を築いているらしい。
「……平にも、そのうちお仕事回ってきますよ」
曖昧な笑顔で、昴はそんなことを言っていた。
この共同生活を始めるとき、最初に昴と交わした約束がある。
まだ〈魔女〉として未熟な平が出かけるときは、必ず昴も一緒について行き、昴がいないときは、決してセーフハウスの外に出ないこと。
早く自分も一人前になれば、昴の手伝いができるのだろうか。一人になると、いつもそんなことを考える。
夜になると、買い出しに行って夕飯の準備をする。最初は、すべて昴が作ってくれていたが、「料理はできたほうがいいですよ」と提案され、最近は平も包丁を握るようになった。
「料理なんて簡単ですよ。食材への火の入れ方さえ覚えればいいんですから」
くるくると包丁を手の中で回しながら昴は言う。
「それはできる人の言い分だよ……あとそんな包丁捌き、料理にはいらなくない?」
「〈魔女〉生活が長いと刃物の扱いにも慣れるものでして。それに、料理で火を扱うのは、魔力の扱いに通じるものがありますからね、これも訓練です」
「……はぁい、先生」
昴がふふっと小さく笑った。年相応の女の子のように笑う昴に、そんな可愛い笑い方もできるんだ、と平は少し驚いた。
「家庭科の授業というのは、こんな感じなのでしょうか。同年代の子とお喋りしながら料理するなんて、夢を見ているみたいです」
「んー、昴みたいに料理できる子は少なかったから、授業はもっと阿鼻叫喚って感じだったよ。……気になってたんだけど、昴って誰にでも敬語だよね?」
自分にくらいは、もうタメ口で話してもいいのに、と平は以前から思っていた。
「あぁ、癖になってしまってるんですよ」
「癖?」
「えぇ。私は五歳で〈魔女〉になって、互助会で育てられまして。話す相手を選ばない口調として、敬語を使うように躾けられたんです」
「え、それじゃ学校は?」
「一度も通ったことがないですね。普段着ている制服も、こういう規格品のほうが替えが用意しやすく、世間に溶けこみやすいというのもあるのですが……単に私が着たいから、というのもあります」
昴は恥ずかしそうに言った。
彼女は今までどんな人生を送ってきたんだろう。自分の貧弱な想像力では考えもつかない。
もし、自分の持っていた普通を、この暮らしの中で昴に分けてあげられていたらいいな、と平は思った。
◆
〈魔女〉になった春が過ぎて、昴の制服は夏服になった。
新しいセーフハウスは山あいの田舎だ。日に数本のバスしか来ず、家よりも田んぼのほうが多い。ビルの代わりに山の木々が立ち並ぶ空は、都会よりも青く広く感じる。
暑い季節になっても日々に変化はなかった。訓練でかく汗の量が増えて、たまに昴が互助会の用事で出かける。
こんな田舎でもやることがあるなんて大変だなぁ、と平はぼんやり思っていた。自分も何か手伝えたらいいのに――昴の帰りを待つのは、無力感を抱く時間に変わっていた。日が長くなると、一人の時間も長くなったように錯覚する。ゆっくりと茜色に染まっていく空が、もどかしかった。
ぽつ、と窓を叩く音に目を取られる。窓に水が滴り、一条の線を引いていた。すぐに水滴は増えていき、あっという間に窓を洗うような土砂降りになった。
ひどい夕立だ。ふと思いつき、傘立てを見に行くと、傘は減っていなかった。
昴と交わした約束が頭を過る。けれど、自分だってそれなりに訓練は積んできたし、少しぐらい……逡巡の果てに、よし、と平は傘を二本取って、昴との約束を破った。
外に出ると、降り始めの雨で粘土のような香りがする。夏の暑い空気が、雨で冷やされて引き締まったような気がした。
昴の出かけた方向は覚えている。何もない田舎道だ、道なりに歩けば会えるはずだ。
そして、目論見通り、昴はいた。
山の合間の森に挟まれた道の真ん中に、昴は立っていた。雨に濡れ、こちらに背を向け――血塗れだった。
陥没した地面に水と血が流れこみ、薄い赤の溜まりを作っている。
銃や防具を身につけた男たちが辺りに転がっている。
森の木の枝に引っかかり、血を流して呻く人。
横転した車と、それに潰されている人。
昴の周囲には破壊の跡しかなかった。
一人だけ、右腕が不自然な方向に曲がった男が、苦痛に顔を歪めながら、昴の前に跪いている。
「あなたたちの命に興味はありませんが、しっかり報告してください。何度来ても無駄だと」
冷たい声で言い放った昴に、男は罵倒の言葉を吐き捨て、ふらつきながら森の中に姿を消した。
激しい雨の中で、濡れて顔に張りついた髪を昴は鬱陶しげにかき上げる。小さく嘆息すると、彼女は踵を返した。その顔に感情はなく、目前の光景に無関心だ。
平に気づくと、昴は驚いたように目を見開く。
そして、少し寂しそうに、笑った。
「……平とはまだ、普通の女の子でいたかったのですが」
投げかけられた言葉に、何も答えられなかった。
そうだ、傘を渡さないと。昴はずぶ濡れだ。タオルも持ってくればよかったかな。風邪を引いたら大変――
足が、足がどうしても前に進まない。
降りしきる雨で、二人の間が隔てられてしまったようだった。
平は何も言えず――何も言えない自分を恐れて、その場を逃げ出した。
後ろで昴の声が聞こえたような気がしたが、足を止められなかった。気がつくと傘はどこにいってしまっていて、濡れ鼠になっていた。
今まで昴は何度、互助会の『用事』をこなしてきたのか――普通の日常のすぐ近くにあった悍ましいものを知り、吐き気がこみ上げる。その場で胃の中のものを戻してしまった。
自分が約束を破らなければ、何も変わらずに済んだのだろうか。けれど、それでは何も変わらない。昴が心のどこかで寂しそうに笑い続けるだけだ。
この世界で、〈魔女〉として、人間として、自分はどうすべきだったのだろうか。
ぱしゃり、と水音がして平は顔を上げる。そこには荒い息で目を血走らせた、右腕を庇う男がいた。
さっき、昴が逃がした男だ。
「お前も、〈魔女〉だな……娘と、同じくらいの、ただの女の子が……」
ぎゅっと歯を食いしばると、男は平の顔を蹴りあげた。咄嗟に魔力で防御しようとしたが間に合わず、平は鼻血を出して仰向けに倒れる。
男は平に馬乗りになり、左手でナイフを振りかざした。痛みで涙目になりながらも、平は必死で男の腕を押さえる。
「どれだけ殺せば気が済む! お前たちも一度、奪われてみろ!」
ちり、と平の中で、何かが焦げつくような気がした。
何て。
身勝手な。
これが人間なの?
生まれて初めて、他人への口答えが、口を衝いて出た。
「あ、あなたたちが襲ってくるから、昴みたいに奪われた子がいるんだ!」
「黙れ化け物! 大人しく人類の薪になればいいものを!」
男は全体重をかけて、ナイフの切っ先を平の喉元に届かせようとする。平の未熟な身体強化では、まだ大の男に抗えるほどの力は出せない。徐々に押し負け、切っ先が首へ迫ってくる。
男は瞳孔が開ききっていて、瞳の奥には殺意と憎悪しかなかった。
これが、今の自分が世界から向けられている目。お前に与えられるものは呪詛だけだと、世界から言われているようだった。これから自分は、目前のナイフのように、何度となく刃を突きつけられ続けるのだろう。
耐えられるわけがない。
ちょっと前まで、自分は何でもない、普通の人間だったのに。
とても、独りでは――
脳裏を一人の少女の姿が過る。
自分勝手な感情と欲望に、平は泣きそうになった。
さっき逃げだしたのに。話も聞かず。一方的に拒絶したのに。
昴は生きてきたのだ、この世界を。一人の女の子が耐えてきたのだ。涙も見せず、弱音を吐くこともなく、普通に憧れながらも、彼女は平を導く星でいてくれた。
――あぁ、わたしは彼女となら生きていけると思っている。
ぷつりと、ナイフの切っ先が喉に刺さったとき、平は叫んでいた。
「そんな、目を――わたしたちに向けるな!」
気がついたときには、平は〈世界〉の力を使っていた。
こんなにも残酷なのに、それを当たり前にした秩序としている世界。その中に、平の意志で一滴の黒いノイズを垂らし、波紋を作る。乱れ、染まり、混沌を生み出し、呪詛を返した。
じゅっ、という音がして、焦げと生臭さが混ざったような臭いがする。
男が悲鳴を上げて自分の目を押さえた。平の上から転がり落ちて、苦しみながら地面の泥にまみれてのたうち回る。熱い、熱いと繰り返しながら、平を呪う言葉を吐き散らかし――やがて気を失い、動かなくなった。
平の体は震えていた。魔力を使った寒気だけのせいではない。自分が取り返しのつかないことをして、それができる人間なのだと理解した怖気だった。
何も傷つけず、傷つけられない平凡な自分より、誰かを傷つけても守りたい〝特別〟を見つけてしまったのだ。
「平……」
声のほうを振り向くと、そこには昴がいた。
曖昧な距離から、恐る恐るという調子で、ゆっくりと歩いてくる。
道端に倒れている男を一瞥して、昴は言う。
「……命に問題はないですが、確実に失明したでしょう。この人間はもう、無力です」
平は呆然としたままへたりこむ。がむしゃらに魔力を使った反動で、体が冷え切って上手く動かせなかった。
昴は膝をついて目線を合わせると、平の頬をはたいた。
「なぜ、約束を破ったんです」
「……ごめんなさい」
「死んで、いたかも知れないんですよ」
「……ごめんなさい」
「君は――」
口を開きかけて、昴は顔をくしゃくしゃにすると、平を抱きしめた。
「〈星〉の力が、上手く使えません」
ぼそりと、震える声で昴はこぼした。
「平がいなくなったことを想像した途端、このざまです。私もまだ、未熟ですね」
雨の中に、二人の涙が混じった。
雨がやみ、二人はどちらからともなく手を繋ぎ、セーフハウスに戻った。
帰り道は、雨上がりに鳴き始める蝉の声だけが響き、お互いに一言も言葉を交わさなかった。
無言のまま帰宅すると、泥だらけになった服や体を綺麗にするために、二人でシャワーを浴びて着替えた。
疲れ切っていて、夕飯を食べるという発想もなく、そのままベッドに横になった。電気を消す直前の「おやすみなさい」という言葉が、久しぶりに交わした言葉だった。
平に背を向けて横になる昴は、数分もすると寝息を立て始めた。無理もない。自分よりももっと長い時間、気を張っていたに違いない。
平も疲れを感じて、微睡みながら、瞼がわずかに重くなってきていた。
平は腕を伸ばし、眠る昴へ手のひらをかざす。今はまだ、彼女は隣にいてくれている。すぐそこにいるのに、近くにいることを確認したかった。
星のような人。どうか、手の届かない人にならないで。
今日、昴と一緒に生きていくことの本当の意味を、ようやく理解できたと思う。〈魔女〉になることと、〈魔女〉であることの重みは、まったく異なるのだ。
平は心の中でどこかに告げる。
わたしは〈世界〉の〈魔女〉――世続平。
薄い闇の中で平は目を閉じた。視界は完全な闇に包まれ、明日の訪れを待つ。
ハロー、世界。わたしはここにいます。あなたはどこにいますか?
Hello, World... 黒石迩守 @nikami_k
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