第6話 異質

般若の面をつけた――仮面の男は、

一切の躊躇なく踏み込んできた。


距離が、意味を失う。


拳が来ると認識した時には、

もうそこにあった。


反射的に身体を沈めなければ、

確実に頭部を打ち抜かれていた。


空気が裂ける音が、

遅れて耳に届く。


だが、息を整える暇はない。


踏み込みは止まらず、

詰められた距離のまま、次の一打が飛んでくる。

かわしきれず、拳が頬をかすめた。


皮膚が焼けるような感触。


間を置かず、左右から打ち下ろされる拳が視界を埋める。

防ぐ、ずらす、耐える。

日々の研鑽。血と汗にまみれながら刻んできた月日。

そのすべてを呼び起こし、今できる最大限の防御で応戦した。

……正直に言えば、これ以上は望めなかった。


――いや、おかしい。


数多の手数に晒されながら、

俺の思考に、ひとつの疑問が浮かぶ。


これは――技術か?


違う。

少なくとも、俺が知っている

どの格闘技とも一致しない。


この動きは、洗練された訓練の果てに生まれたものじゃない。

型を削り、無駄を省いた結果でもない。

仮面の男の肉体そのものが、この動きを許容している。


踏み込みの強さ。関節のしなり。筋肉の伸縮。


どれもが自然で、

そして――人間離れしていた。


この男の身体は、

普通の人間の延長線上にない。


俺の脳裏に、"引く"という選択肢が浮かんだ。


はっきり言って、この男の攻撃は読めない。

速さや重さの問題じゃない。

そもそも、動きそのものが掴めない。


まともにやり合う相手じゃない。

退くという選択も、決して弱さではない。


――否。


だめだ。逃げるとして、どこへ逃げる。


この仮面の男は、間違いなく施設の連中だ。

ならばあいつらはもう、瞳が今いる場所にある程度の目星をつけている。


ここで診療所まで引けば、それは撤退じゃない。

ただ、答えを差し出すだけだ。


そう考えた瞬間、逃げるという選択肢は、

音もなく、脳裏から消えていた。


もう、ここしかない。

ここで、この男を止めるしかない。


――そう理解するまでに、

ほんの一瞬の時間がかかった。


だが、その一瞬。その停滞、迷い。


この男の前では、

それだけで十分すぎる隙だった。


仮面の男は、俺の思考が止まったその瞬間を、

正確に切り取った。


踏み込み。

そして、下から突き上げるような一撃。


次の瞬間、俺は本日二度目となる理解不能な浮遊感の中にいた。


身体が宙に持ち上げられ、そのまま大地に叩きつけられる。

脳が揺れ、視界が滲む。


――強烈な一撃だった…。


…ん?だが、あの男ほどじゃない。


意識を失うこともなく、視界はすぐに像を結び始めた。

地面に転がりながら、俺は妙な冷静さを保っていた。


勝てるかどうかじゃない。

ここで立たなければならない。


そう理解した時、覚悟という言葉すら、もう必要ではなくなっていた。


俺は立ち上がり、仮面の男に、すべての神経を向ける。


空気が変わったことを、理解した。


――来る。


刹那、

俺の手は男の右腕を掴み取っていた。


次の一撃は、迷いがない。

左腕が、一直線に俺の顔面を狙う。


だが、男が抉り取った空間には、

もう俺はいなかった。


身体を沈める。軸をずらす。

その回避は、偶然じゃない。

完全に、見切っていた。


たしかに、この男の動きは速い。異質で、常識から外れている。


だが――

異質さも裏を返せば、それは癖。お前の動きには癖がある。


仮面の男の強さは、身体そのものが生み出す異端さにある。

だがそれは、時間とともに必ず輪郭を現す。


俺は、その“輪郭”を掴んだ。


踏み込みの終わり。

重心が浮く、その刹那。


俺は、男の顎に向かって、

渾身のスカイアッパーを叩き込む。


拳の感触が、確かに伝わる。


次の瞬間、

仮面の男は、夜空へと放り出されていた。


――月夜を舞った影は、二つ。


顎を叩き上げた衝撃で、男の仮面もまた、宙を舞っていた。


もちろん狙ったわけじゃない。ただの偶然だ。

いわゆる、ラッキーパンチというやつだろう。


男は仮面が外れたことにも気づかない様子で、

何事もなかったかのように立ち上がった。


「あんた、強いね」


軽い調子でそう言った瞬間、

街灯の光が、その素顔を照らす。


――衝撃が、全身を駆け抜けた。


初めて瞳と出会ったときと、まったく同じ感覚だった。


均整。完成。人の手で削り出されたかのような造形。

あまりにも整いすぎていて、

自然の産物とは、どうしても思えない。


そう――

ツクリモノ。


男は、俺の硬直を見て察したのだろう。

自分の顔に手をやり、仮面がないことに気づいた。


「あー……」

少しだけ間の抜けた声。

「外れちゃってるね、これ」

声音は軽い。

顔を見られたことなど、取るに足らないとでも言うように。


そのときだった。


「お巡りさーん! こっちです!」


通りの向こうから、女の声が響く。

どうやら通りすがりの誰かが、俺たちの喧嘩を見て、

近くの交番に駆け込んだらしい。


「いやあ……」

男は肩をすくめた。

「正直、色々と想定外だ」


視線をこちらに戻し、首を傾げる。


「あんたさ、何者なの?」


「それはこっちの台詞だ!」

俺は思わず怒鳴っていた。

「お前らは、一体何者なんだ!」


「んー……」

男は少し考える素振りを見せてから、苦笑した。

「なんか、話がずれてるな」


そして、

次の瞬間だけ、表情が変わった。


「まあいいや」

低く、静かな声。

「でも…瞳は、絶対に渡さない」


その眼差しには、

先ほどまでの余裕は一片も残っていなかった。


「じゃあね」

男は背を向ける。

「緋山さん」


――名前。


やはり、俺の素性は割れている。


男はそのまま、

夜の街へと溶けるように消えた。


このまま診療所に戻るのは、危険だ。

すぐに戻って、別の場所へ移動しなければならない。


それにしても――

あの男といい、瞳といい。

一体、何が起きている?


探偵の癖ともいえる、思考の森を散歩しようとしたのも束の間。


「あ」


視界の端に、

制服姿が映った。


――まずい。


俺もまた、

全力で夜の街へと駆け出していた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

次の更新予定

2025年12月27日 20:00

探偵兼医者の俺が匿った少女は、“セカンド”と呼ばれていた 日比谷ケン @mahiromaro

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画