この関係、経過観察中〜補講で出会った二人は、まだ恋じゃない〜
森鷺 皐月
第1話 補講教室で、隣がやけに気になる
リノリウムの床を踏みしめながら、透は気乗りしないまま教室へ向かっていた。
(女子文具展、間に合うか? 十八時までには何としても会場行かないと死ぬ)
放課後。
他の生徒は、授業が終わってサークルやバイトに向かっている。
杜宮学園・医療福祉専門学校。
医療情報管理科一年、藍沢透。
周囲から見れば、冷静さを持ち合わせたような清潔感があるイケメン。
しかし──
(前からチェックしてた、めちゃくちゃ可愛いペンとか付箋とか……あれ、絶対みんな狙ってんだろ!)
無表情の裏で叫ぶ。
(……何で俺だけ補講なんだよ)
チッと舌打ちをして、足を止める。
最悪の放課後だ。
「初診料と再診料が逆転して、採血点数ミスっただけだろ」
返却された手書きのレセプトをトートバッグから取り出す。
見渡す限りの赤、赤、赤。
採点の丸は半分もついてない。
「……難しいわ、医療事務って」
教室の扉を開く。
肺活量を鍛えたような深く長いため息が聞こえた。
視線を向けると、頭を抱える女子生徒。
気が強そうな鋭い瞳に肩まで伸ばした茶髪。
(俺だけじゃねぇのか。隣のクラスのやつか?)
入り口に立つ透と彼女の目線がバチッと合う。
(うわ、気まず……)
そそくさと席に着こうとする透だったが、彼女のリュックについてるキーホルダーが目に入った。
「あ、それ……」
つい口に出た。
そのキーホルダーは、一昔前のヒーロー戦隊のミニフィギュア。
透もよく見ていた作品だった。
彼女は、透を睨み、キーホルダーを隠した。
「人のもん勝手に見ないで」
「……目に映っただけだが」
「……だから、何」
低く、警戒する声。
「……懐かしいなって思って」
彼女は一瞬だけ目を見開いてから、顔を逸らした。
「あんた、隣のクラスのやつ?」
逸らしたまま、彼女は横目でチラリと透を見る。
「ああ。藍沢透。あんたも此処にいるってことは、医情ってことだろ」
「……まあ……そう。伊澄朱里よ」
その後の言葉は続かず、教室に静寂が訪れる。
(……気まずい)
適当な席に座ろうとしたが、朱里の隣に座ってしまう。
(教室広いんだから、もっと離れてもいいだろ。なんで隣に座ったの、俺)
透が筆箱を机に置いた瞬間、ころりと転がるパステルカラーの修正テープ。
「……それ」
朱里の視線が、今度は透の手元に刺さった。
「……何」
なるべく落ち着いた声で返す。
「……へぇ、可愛い」
揶揄うようなものではなく、皮肉めいた笑みだった。
すぐに修正テープを筆箱にしまい、ペンを取り出す。
猫のノックがついた肉球デザインのシャープペンに、朱里は小さく吹き出した。
(え、待って。ギャップやば……! クール男子が実は乙女男子!? 反則でしょ!)
朱里の脳内アナグラムが、『萌』で埋め尽くされる。
(可愛くて当たり前だろ。懸賞の限定モンだぞ)
透も心の中で叫ぶ。
二人とも脳内が賑やかになったところで教室の扉が開き、教師が入ってきた。
「お、ちゃんと来たな。医療ミス二人組」
ケタケタと揶揄うように教師の風間が笑うと、二人は小さく呻く。
「……患者の身体に害は与えてません」
「ちょっと計算間違えただけだし……」
二人が反論すれば、風間の目が細くなり、空気が冷える。
「……医療費計算のミスは、立派な医療ミスだよ。患者だけじゃなくて、あらゆるところに迷惑をかける。計算だけが医療事務じゃないからね」
静かで刺すような言葉に、もう何も言えなくなった。
(確かに……俺が患者ならキレる)
(私が患者なら、クレーム入れるかも)
二人は同時に頷く。
「はい、それじゃあ補講開始ね。マニュアル開きながら、点数計算してね」
透も朱里も肩を落とし、バッグから辞典程の厚みがある教本を出した。
「初診、採血、院内処方箋、保険適用三割の内容ね。満点取るまで帰さないから、そのつもりで」
にこりと微笑む風間から真っさらなレセプト用紙を受け取った二人の手は震えている。
(やべぇ、さっぱり分からん)
(待って。めちゃくちゃ難しい)
絶望の中、透も朱里も互いを横目で見た。
(……一人じゃないから、少しは気が楽か?)
同じタイミングで首を傾げた。
自分に言い聞かせていたつもりだった。
気が楽と思うことにしながら、どこか落ち着かなくて。
隣が、やけに気になった。
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