五味五色ゴチソウジャー

喜屋武七

第1話「いただきますの合図」


世界から、「匂い」が消えかけていた。

かつて昼時のオフィス街といえば、醤油の焦げる香ばしさや、揚げ油の甘い誘惑が風に乗って漂っていたものだ。しかし今、大通りを行き交う人々が手にしているのは、銀色のパウチや無機質なカプセルケースばかり。

彼らの顔に浮かぶのは、食事への期待ではない。「燃料補給」という作業を淡々とこなす、能面のような無感動さだけだった。

「……効率、ねえ」

路地裏に佇む古びた定食屋『まんぷく弁当』のカウンターで、米田力よねだ リキは小さなため息をついた。

二十三歳。かつて父が守ったこの店の暖簾を継いで三年になる。

店の奥にある巨大なガス釜からは、むわりと白く甘い湯気が立ち上っている。炊きたての米の匂い。それはリキにとって、生命いのちそのものの香りだった。だが、今の時代、この匂いに足を止める客は日に日に減っている。

「へへっ、まあいいさ。米が上手く炊けた日は、それだけで百点満点だしな!」

リキは自分の頬をパンと叩き、いつもの明るい調子を取り戻した。売れ残るかもしれない。それでも、手抜きはしない。それが米田家の、いや、リキという男の生き方だった。

その時だった。

店の勝手口の向こう、雨に濡れた路地の隅で、何かが小さく蠢いたのは。

それは、ボロ雑巾のように薄汚れた猫だった。

白い毛並みは泥とすすにまみれ、あばら骨が浮くほど痩せ細っている。雨に打たれ、体温を失いつつあるその体は、もはや立ち上がる力さえ残っていないようだった。

瞳の光は消えかけ、今まさに、その命の火が尽きようとしている。

「……腹、減ってるんだな」

リキは傘も差さずに駆け寄ると、躊躇なくその泥だらけの体を抱き上げた。

冷たい。驚くほど軽い。

普通なら、ここで諦めるだろう。あるいは、店の奥に残っている「売れ残りの冷めたご飯」を持ってくるかもしれない。

だが、リキは違った。

「待ってろよ。今、とびきりのを握ってやるからな」

リキは猫を乾いたタオルの上に寝かせると、釜へと走った。

蓋を開ける。立ち上る熱気。

一番熱く、一番旨みが凝縮された中心部分――「花」と呼ばれる場所から、真っ白な銀シャリを掬い取る。

掌に塩をまぶす。熱さを堪えて、リキは握った。

ギュッ、ギュッ。

強すぎず、弱すぎず。米粒同士が呼吸できる隙間を残して、空気ごと包み込むように。

「親父が言ってたんだ。『一番腹が減ってる奴には、一番美味いものを出せ』ってな」

それは商売の理屈ではない。ただの「祈り」だ。食べて元気になってほしいという、純粋で強烈な信仰心にも似た願い。

リキは湯気を上げる塩むすびを、猫の口元へと差し出した。

「ほら、食えるか? ……いただきます、だ」

猫の鼻先が、ピクリと動いた。

米の甘い香り。それは本能を揺さぶる、生の根源的な匂い。

猫は震える舌を伸ばし、一粒、また一粒と米を舐めとった。そして、温かい塊にかぶりつく。

咀嚼するたびに、猫の体に脈打つ鼓動が強まっていく。

ただのカロリー摂取ではない。「美味しい」という感覚が、魂の深淵に火を灯したのだ。

(……美味い……ニャ……)

その瞬間、奇跡が起きた。

猫の体が内側からカッと黄金色に輝き出したのだ。泥や汚れが光に弾き飛ばされ、神々しい純白の毛並みが現れる。

「うおっ!? なんだ、発光した!?」

リキが目を丸くする前で、光は収束し――猫は語り始めた。

「ふん。まあまあの握り加減だったニャ。塩がほんの少し多いが、米への愛に免じて合格点としてやるニャ」

「……え、喋った?」

「当たり前ニャ! 吾輩は五味仙界ごみせんかいの守護聖獣、グラン・マイスター! ミャスター様と呼ぶがいい……と言っても、今は落ちぶれた身だがニャ」

尊大に髭を揺らすその猫――ミャスターは、リキをじろりと見上げた。

「人間、名は?」

「リ、リキ。米田力だ」

「そうか、リキ。お前、今、吾輩に『残り物』ではなく『一番良いところ』を寄越したニャ?」

「そりゃあ……お腹すいてるなら、美味いほうがいいだろ?」

リキがあっけらかんと笑うと、ミャスターは一瞬だけ虚を突かれたような顔をし、それからフンと鼻を鳴らした。

「……ふっ。計算も打算もない、ただの善意か。だが、そのバカ正直な信仰心感謝こそが、吾輩を目覚めさせたのニャ」

その時、轟音が平和な商店街を引き裂いた。

「ハラヘッタ……ハラヘッタ……!!」

商店街の入り口で暴れまわっていたのは、巨大な炊飯器の化け物『炊飯器ガマ』だった。

手足は錆びついたしゃもじ。胴体の釜からは、悪臭を放つ灰色のヘドロ――腐敗した粥のようなもの――を撒き散らしている。

「なんだありゃ!? おい、店が!」

「あいつは人々の『食への感謝』が消えたことで生まれた歪み、ハイキ獣だニャ! 食への敬意を忘れた人間どもを襲い、全てを腐らせる気だ!」

炊飯器ガマが、逃げ遅れた親子の前に立ちはだかる。

その釜の蓋が開き、ドロリとしたヘドロが噴出されようとした――その瞬間。

「やめろぉぉぉっ!!」

リキが飛び出していた。

武器もない。勝算もない。ただ、目の前で「食事」という神聖な時間が汚されようとしていることに、腹の底から怒りが湧いたのだ。

リキは近くにあったビールケースを投げつけるが、怪人の鋼鉄のボディには傷一つ付かない。逆に、巨大なしゃもじの一撃で吹き飛ばされ、地面に叩きつけられる。

「ぐっ……!」

「無駄ニャ! 今の人間界には、奴を倒すエネルギーなんて残って……」

「うるせぇ!!」

リキはよろめきながら立ち上がり、泥だらけの顔で叫んだ。

「飯はな……飯ってのは、笑顔で食うもんなんだよ! 怯えながら食う飯なんて、あってたまるか! 俺の親父の店も、この商店街も、みんなの『いただきます』も……全部俺が守るんだよ!!」

その叫びは、悲痛なものではなかった。

底抜けに明るく、そして熱い、太陽のような宣言。

ミャスターの瞳が大きく見開かれる。失われたはずの「五味の力」が、この若者の魂と共鳴し、激しく脈打つのを感じた。

「……本物のバカ者ニャ。だが、悪くない味だ」

ミャスターが空中に指を走らせると、光の粒子が集まり、コンロのツマミのような形をしたブレスレット――『ゴチソウブレス』が実体化し、リキの腕に装着された。

「リキ! そのツマミを回して叫ぶのニャ! お前のその熱意を、力に変えて『オーダー』しろ!」

「よくわかんねぇけど……要は、気合い入れて飯を作る時と同じだろ!?」

リキは腰を落とし、左腕のブレスを構えた。

目に見えないコンロに火をつけるように。魂の火力を最大にするように。

ツマミを、思い切り捻る!

「オーダー!! 五色五味、チェンジ!!」

カチリ、という着火音とともに、リキの全身を真っ赤な炎が包み込んだ。

それは破壊の炎ではない。釜戸で燃え盛る、命を育む浄化の炎だ。

炎が弾け飛ぶと、そこには深紅のスーツに身を包んだ戦士が立っていた。

胸には米粒の意匠。マスクは炊き立ての米のように艶やかで、白い湯気のようなオーラを纏っている。

「白米の如き輝き! 満腹の如き幸せ! ……ライスレッド!!」

名乗りを上げたリキ自身が一番驚いて、自分の手を見つめた。

「お、おおっ? なんか力が湧いてくる……! 腹一杯食った後みてぇだ!」

「感心してる場合か! 行くニャ、ライスレッド!」

炊飯器ガマがヘドロを噴射する。だが、レッドは動じない。

目にも止まらぬ速さで懐に潜り込むと、その拳を叩き込んだ。

ドゴォォォン!!

重く、芯のある一撃。それはまるで、杵で餅をつくような力強さだった。

「お前の飯はマズそうだ! そんなもん、誰も食いたくねぇんだよ!」

レッドは連続攻撃を繰り出す。パンチ、キック。その全てに「生きる喜び」が乗っている。無機質な悪意しか持たない怪人は、その圧倒的な「熱量」に押され、後退していく。

「トドメだ、リキ! 感謝を込めて、一刀両断するニャ!」

「おう! ……悪く思うなよ、お前も成仏して、次は美味い飯になれ!」

レッドが右手を掲げると、光が集束し、巨大なしゃもじ型のブレードが現れる。

彼は高く跳躍した。背景に、黄金に輝く稲穂の幻影が揺らめく。

「必殺! 大盛り・一膳斬り!!」

振り下ろされた白銀の斬撃が、炊飯器ガマを真っ二つに切り裂いた。

断末魔の叫びと共に、怪人の体は黒い煙となって消滅し、後にはキラキラと輝く光の粒子だけが残った。それは、呪われていたモノが浄化され、正しい循環へと還っていく輝きだった。

「……ごちそうさまでした!」

レッドは両手を合わせ、深く一礼した。

戦いが終わり、変身を解いたリキは、商店街の真ん中で大きく息を吐いた。

雲が切れ、夕日が差し込んでくる。

どこかの家からだろうか、味噌汁の香りがふわりと漂ってきた気がした。

「やったな、リキ」

足元で、ミャスターが、ニヤリと笑っている。

「おう! ……ってかお前、結局何者なんだよ? 神様とか言ってたけど」

「細かいことは後で説明するニャ。それより……腹が減ったニャ。さっきのおにぎりだけじゃ足りん」

リキは呆気にとられ、それからプッと吹き出した。

世界を救う戦いの後に、最初に出る言葉がそれか。

でも、それがいい。生きてるってのは、腹が減るってことだ。

「へへっ、わかったよ。店に戻れば、まだ残ってる米がある。とびきりのチャーハンでも作ってやるよ」

「ほう、期待してやるニャ。マズかったら承知しないからな」

「任せとけって! 俺の飯は、世界一なんだからよ!」

一人と一匹は、夕焼けに染まる路地を歩き出した。

世界はまだ灰色かもしれない。効率重視の冷たい風は吹き続けている。

けれど、ここには確かな「熱」が灯った。

それは、いただきますの合図と共に始まる、長い長い戦いと絆の物語の、最初のひと口目だった。

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