たまま

不二原光菓

たまま

「ママ、見て、見て。卵にお顔がある」


 秀平がエッグスタンドの上のゆで卵を指さして叫んでいる。

 は? この忙しい時に何を言っているんだろう。


「秀ちゃん、ママはね忙しいの。あなたの卵は剥いてあげたでしょ」

「でもね、お顔があるんだ」


 頭の中で『子供の興味を伸ばすのは親の務めよ』『どんなことでもまずは否定しないの』というお義母ぎぼの声がする。自分の子が期待ほど育たなかったからといって、孫の教育に干渉するのはほんと、やめてほしいんだけど。

 あたしはね、そんな寛大で心豊かな親になるには忙しすぎるのよ。

 と、思いながらもなんとなく無視もできずに、スリッパの音を荒く響かせながら秀平の横に行く。


「どこよ、どこに顔があるのよ」


 ざらざらとしているが、白い殻の上には顔に錯覚するような汚れすらなかった。


「え、え? でもね」


 秀平の声が、うろたえている。


「消えた」

「噓言わないの」


 バン、っと机をたたくと秀平がびくりと身体を動かして硬直した。

 嘘はだいっきらい。こういうことは小さい時にしつけておかなきゃ。

 まだ口の中でもごもご言っている息子にピンクのつばの体操帽子を手荒くかぶせて、私は幼稚園のバックにおむつを突っ込む。

 もうあと何人くらい残っているのかしら。おむつ取れない子は。

 この子はとろい。何をさせても最後のあたり。お義母かあさんにはお気の毒だけど、息子さんと同様、たいしたものにはならないわね。


「ね、急ぐの。早くして」


 手を引っ張るように洗面所に連れていき、口を磨かせる。

 おぼつかない手で歯ブラシを前後させる息子の手を、途中で思わず引っ張ってしまう。

 お母さんは気長に子供のやることを待ってあげましょうね。どこかで聞いた教育相談の番組の声が蘇る。悪いけど、理想なの、それは。


「もう時間がないんだから、水でゆすいで」


 時計を見ながら、抱き上げる。ゆっくりと歩くのに付き合っている暇はない。


「行ってまいります」


 誰もいなくなる部屋に秀平が手を振ったが、その時は何も思わなかった。

 いや、思う余裕なんてなかった。




 仕事が終わった時には、外は真っ暗だった。無理もない、冬至が近いのだ。これが夏であればまだ明るくていろいろやる気もでるのだが、子供を迎えに延長保育の受付に行ったときには疲労が肩の上にどんよりと乗っかっていて、歩くのさえ億劫だった。


「ママ」


 保育室の奥から秀平が手を振る。ああ、また『義務』が戻ってきた。

 

「さあ、帰るわよ」

「いや、もっと遊ぶ」


 人が少なくなると先生たちにちやほやされて、遊んでもらえるのがうれしいらしい。屈託のない笑みを浮かべて、子供は首を横に振った。


「さあ、秀ちゃん帰ろうね。ママのお迎えだよ」

「いや。おうち、いや」


 恥ずかしさに、頬が赤くなる。先生たちは表面では笑っているけど、実は私のことを親として失格だと思っているに決まっている。前に一緒になった亀田さんのお母さんのところには転がるように子供がやってきて、飛びついていた。うちとは大違いだ。


「さ、帰るわよ」


 人の手前、作り笑顔をしながら先生が連れて来た子供の手をぐっと握る。


「先生、さようならーー」


 名残惜しそうに挨拶をする子供を引きずるようにして後部座席のチャイルドシートに固定すると、逃げるように車のエンジンをかける。


「ママ、朝のたまご君は?」

「あんたのおかげで食べる暇なかったの。だからそのままテーブルにあるわよ」

「僕ね、遊んでいる時名前を思いついたんだ。たまたろう、って」

「変な名前、もっといいのにすれば?」


 しばらくの沈黙の後、息子がぼそりとつぶやいた。


「たまま」

「何それ、もっと変じゃん」


 秀平は何も言わなくなった。




 勤めているスーパーで安く買ってきた売れ残りの総菜を買い物袋から流しだすようにテーブルの上にざっと並べる。

 子供用の大皿を出して、その上に適当に取り分けていく。秀平は好き嫌いが多い。色々出しても、結局はチーズの入ったウィンナーと昆布をまぜたご飯しか食べないことがほとんどだった。こんなに小食なのに、買い置きしたスナック菓子などは知らない間に探し出して食べていたりする。

 

 秀平がリモコンでアニメを選んでいたので、取り上げて英語教材のDVDを流し始めた。子供のころから耳は鍛えておかなければ、学生時代に全然リスニングができなかった私には強い英語コンプレックスがある。


「ねえ、ママ」


 秀平がエッグスタンドに立ったままの卵をもって私のほうにやってきた。


「たまま、お顔、お顔」

「後でママが食べるから置いといて」

「食べるのだめ、僕のお友達なの」

「はああ? 卵の命をもらっているのに、そのまま腐らせたらそのほうがもったいないでしょう。食べ物を無駄にするのはいけないの」


 ひったくるようにゆで卵を取り上げる。

 ところが、秀平は私の足にしがみつくと、泣き始めた。


「だめ、だめ、おともだち、なの」


 あまりに泣くので、仕方なくエッグスタンドごと彼に渡した。子供の泣き声は、頭に響いて苦手。


「たまま、たまま」


 その晩、秀平はお遊びをねだらずにエッグスタンドを守るようにずっと食卓に座っていたので楽だった。まあ、ゆで卵のひとつくらい捨ててもいいか、自分の時間がとれるなら。




「たまま、どうしたの。たまま、お話は?」


 翌日の朝、秀平がとろんとした眠そうな目でゆで卵に話しかけている。昨日の晩は自分の部屋のベッドに持っていったからもしかしてずっと話しかけていたのかもしれない。


「ねえ、ママ。朝になったらたままがお話してくれないの」

「ゆで卵は死んでいるからね」


 まあ、生卵もしゃべらないけど。


「たまま、お返事は? たまま」

「しつこいわね、うるさいからやめて」


 秀平は言い出したら聞かないところがあって、私が何度言ってもゆで卵に話しかけるのを止めなかった。幼稚園に持っていくと言ってきかないのを、最後にはひったくるようにして取り上げて手の届かないところに置いた。そのまま、泣いている秀平を幼稚園に放り込む。


 ほっとする。別に仕事が好きなわけではないけど、息子がいないとほっとする。

 秀平が2歳になってすぐに東南アジアに単身赴任となった主人からは全然連絡がこない。むしろ彼の母親のほうがあれこれうるさく連絡してくる。

 出世も大事かもしれないけど……、育休くらいとってくれても良かったのに。


 頭の中にフラッシュバックする、彼の引き出しの奥にしまい込まれた香水とブランドもののハンカチ。

 ふと、みぞおちのあたりがぎゅっと締め付けられるような気がして私は目をつぶった。


「ほら、何をしているの? から揚げこぼれるよ」


 パック詰めしていた手元が斜めになって、商品のとりのから揚げがこぼれそうになっていた。総菜チームの主任がじろりと私を見ている。すみません、と小声であやまって、パックにから揚げを入れ続ける。


『たまま、しゃべるんだよ』


 ふと、秀平の声がした気がした。お馬鹿さんね、ゆで卵はもう生きてないの。人間のために、茹でられたの。

 そういえば――私は手元のから揚げをまじまじと見つめる。

 親も食う。子供も食う。鶏一族は、皆容赦なく人間に食べられる。


 残ったら、買って帰ろう。そしてあのゆで卵と一緒に食べてやるんだ。

 親も、子も。

 何か無性に残酷なことがしたくなって、私は割引となった鳥のから揚げを今晩のおかずにすることに決めた。


「たままーーっ」


 家のドアをあけてすぐ、秀平は食卓の椅子によじ登るようにして上がると、ゆで卵を自分の顔に引き寄せた。


「僕ね、今日ね、走りっこが一番だったの」


 秀平が卵と話している間に、鶏のから揚げをオーブントースターに入れて温める。ご飯をよそって、湯を沸かす。レトルトのお味噌汁をお椀に入れる。

 総菜のパックのまま食卓に挙げたサラダの蓋を取る。どうせ私しか食べないけど。


「手を洗ってきて。ご飯よ」

「ごはん何?」

「鶏のから揚げ」


 返事がない。ふと見ると、秀平の顔がこわばっていた。


「あんた、鶏のから揚げならいつも食べるじゃん」


 秀平の顔が急にゆがむと、両目からぼろぼろと涙がこぼれ落ちた。


「かわいそう、かわいそう。とりさんがかわいそう、卵も自分も食べられて」

「あんたの好きなスナック菓子にも卵が入ってるの。そんなに悲しいんならスナック菓子も食べなきゃいいわ」


 言葉を失う息子をしり目に、私はさっさとから揚げにかぶりつく。

 そういうのは、ぎ・ぜ・んっていうの。あんたにはまだ早いけどね。この世は弱肉強食。無駄に殺すのは間違っているけど、生きるためには生き物を殺して食べることも必要なの。

 心の中で、持論が渦を巻いて息子の泣き顔を弾き飛ばす。

 だいたい、この卵は無精卵だから――え?


 ちがう、これは有精卵だった。


 『秀平、痩せているんじゃない? もっと栄養つけないと』って、恩着せがましくお義母ぎぼが持ってきた奴。無精卵と有精卵、栄養的には変わりがないといわれているのに。


「この卵、孵化してたかもしれないのか……」


 このままでは腐ってしまう。せっかくの命は無駄にはできない。

 私は彼の前からエッグスタンドごと卵を取り上げた。


「ママ、食べないで」

「食べます。無駄死にさせるのは嫌なの」


 エッグスタンドから、卵を取り出したその時。


 卵の表面がゆっくりと渦を巻くように動いた。

 徐々に渦は目や鼻や口に分かれて、奇怪な老人の顔になっていった。

 しわに押しつぶされたような垂れ目、だんごっ鼻、半開きの口の不気味な爺さん。


 私は思わず手からゆで卵を放り投げる。悲鳴、も上げていたと思う、記憶にないけど。

 卵は食卓に落ちるまえに、秀平がつかんだ。この子、こんなに運動神経がよかったっけ?


「たまま、助かったよ」


 秀平は無傷の卵にほおずりした。


「やめて、す、捨てるわよ……」

「だめだよ、ママ」


 私をにらみつける秀平の目が真っ赤だった――まるで鶏のように。

 動物霊って言葉が頭をよぎる。そういえばこのゆで卵、朝は食卓の上に置かなかったのに……。


 ふと、気が付くと秀平の目は普通にもどっており、ゆで卵の表面には顔もなかった。

 秀平は肩で荒い息をしている私を怪訝そうな顔で見ていた。




 テーブルの上にゆで卵を置くと、その前にお清めの塩を置く。

 なんだか、祀るというよりも、塩で食べる前のセッティングのようだ。


「たまま、神様みたい」


 息子は手をたたいて喜んでいる。

 明日、近所の神社に相談に行こうか。気が違っている、と思われたらどうしよう。

いや、私は本当に疲れているのかもしれない。ノイローゼって奴かも……。

 で、秀平もお祓いを受けさせなきゃ。


「ねえ、たまま、ずっとこうしとくの?」

「明日、どうにかするわ。ママにも顔が見えたの、気持ちが悪い……」

「あれママの知ってる人? おじいちゃんだよね」


 やはり、同じものを見たのか。背中がぞくり、とする。ガタガタと震えがとまらない。

 秀平は私の怯えようにびっくりしたのか、何も言わなくなった。




 深夜。

 私の部屋に、誰かが入ってきた。


「秀平?」


 頭元のスタンドをつける。

 ぼうっとした灯りの中で、赤い目をした秀平の後ろにあの卵が浮いていた。

 表面にはあの不気味な顔が浮かんでいる。

 老人の口がゆっくりと開いた。


「ど・く・お・や」


 秀平の口も開く。


「ど・く・お・や」


 彼の目が赤く輝いた。


「な、なに言ってるの?」


「お・ま・え・は・こ・ど・も・を・と・じ・こ・め・た。そ・の・ま・ま・こ・こ・ろ・を・ゆ・で・た」


 子供の心を茹でた、ですって。

 そういえば、最近は秀平は私が声を荒げても、ただ、黙るだけだった。私しか頼ることのできない世界で、彼は自分で自分を閉じ込めていたのか――。


「ゆ・で・ら・れ・な・が・ら、こ・の・こ・の・か・な・し・み・が・し・み・こ・んで・き・た。こ・の・こ・は・つ・れ・て・い・く。お・ま・え・は・お・や・し・っ・か・く・だ」


 急に秀平が苦しそうにあえぎだした。


「秀平」


 慌てて息子を引き寄せる。赤い目の息子はぶるぶると震えていた。


「救急車、救急車を呼ばなきゃ」

「つ・れ・て・い・く」


 急に目の前に迫ってきたゆで卵を、私は思いきり手で張り倒した。

 恐怖?

 そんなもん、苦しがっている子供の前ではなくなるんだよ。


「ど・く・お……」柱にぶつかってずるずると落ちるとゆで卵はぶるぶると震えた。

「悪かったね、毒親で」


 忙しかったんだよ。

 この程度のことで、毒親とかなんとか、母親を追い込まないでくれる? 

 がんばってるの、私は。この子のために稼いで、この子の将来のために考えて。

 ああ、一日中この子のことを考えているわよ。

 毒親って言うな。理想の母親を押し付けるな。

 その理想がな、親をさらに追い込むんだよっ。

 何も知らないやつが、毒親っていうなっ。


 スマホを取り上げたとき、泣き声が聞こえてきた。

 ふりかえると、秀平が私の足に抱きついて泣いている。

 目の色はすっかり普通になって、呼吸も元に戻っている。


「たままが、ごめんなさいって」


 こなきじじいにそっくりな顔のゆで卵は、私にぺこりと頭を下げた。






「たままーー、秀平を起こして」

「奥様、まだわたくしねむとうございます。寝不足はお肌に……」


 ゆで卵のくせして、肌がどうしたっていうのよ。


「役立たずは清め塩で食うわよっ」


 慌ててたままは空中を飛んで秀平を起こしに行った。

 年の離れた兄弟ができたようで、秀平はなんだか表情が明るくなった。

 たままが相手をしてくれているから、私も少し自分の時間が取れる。


「よく考えてみれば、こんなにイライラして追い込まれる前に、AIとか使って秀平の相手をしてもらっていればよかったのかも」

「奥様、それは私めに価値がないということですか」

「冗談よ。だってあなたはタダじゃない。高いAIよりも、無料の付喪神って奴ね」


 私の平手打ちをくらってから、歴然とした力の差を思い知ったのかゆで卵の付喪神は私のしもべとなっている。大した役にはたたないが、なんか家に笑い声が増えた気がする。

 問題は、来週帰ってくる旦那にこの状況をどうやって説明するか、だ。

 あのひと、怖がりだからね。

 あ、ハンカチの件は忘れてあげることにした。

 家に帰ってくるならいいの。母は強し、少々のことでは動じないのだ。

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たまま 不二原光菓 @HujiwaraMika

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