傍から見ても異次元《レベチ》な十字架《ブラッド・クロス》の片想

ヨコミゾ(`・ω・´)

第1話

 「............!!」

 「............?!」

 薄れそうな意識の外で、自分を罵倒する声が聞こえる。

 (どれくらい経ったんだろう......)

 裸同然にされた身体は、全身鞭で打たれて骨まで見えている。釘で直接固定された両手両足に、体重がかかって裂けてしまいそうだ。

 もうどこが痛いのかすら分からなくなってしまった。

 でもまだだ。苦しみ抜かなければ、意味がない。

 『すべての罪』をこの身に負うには。

 「父さん......」

 見捨てられたわけではないと分かっている。でも、いつもそばにいたあの人の存在を今は感じ取れないのがたまらなく辛い。

 でも、これで。

 これでやっと、『計画』が完了する。


          ◇


 「神」と呼ばれる三つの存在がいた。

 父である 『神』

 その息子『イエス』

 そしてその霊『聖霊』


 彼らはずっと前からいた。彼らは三人で一体。それぞれが「神」でありながら、異なる性格と役割をもち、『神』という一つの存在をつくっていた。

 彼らは互いを己自身のように愛し合っていた。

 父と子として。自分と霊として。

 あふれるほどの愛で胸があたたかく満たされるのを、いつも神は感じていた。

 (愛っていいものだ。)

 もっと多くの愛があふれるようになればどんなに素晴らしいだろう。

 そうだ、わたしたちが愛する対象として、人間をつくろう。

 そしてわたしの子供として慈しみ、愛そう。

 いつまでも、永遠に。

 さっそく神は人間のために、楽園エデンをつくった。昼と夜、空と海、植物、鳥と魚、そして動物たち。

 そして最後に人間を。 

 その名は『アダム』。そして、『エバ』。


 楽園エデンの決まりはたった一つだけ。

 『"善悪の知識の実"だけは食べないこと』

 「なぜですか?神様」

 「それを食べるとあなたは死んでしまうから。」

 その他の果実だったらなんでも好きなだけ食べていい。


 平和で幸せな日々がずっと続くと思っていた。


 「エバー?なんで善悪の知識の実を食べないの?」

 いつも通りの朝。

 木の枝に体を巻き付け、エバに話しかけてきたのは、蛇だった。

 「神様が食べちゃダメって言ったんだもの。」

 「こーんなに美味しそうなのに?」

 まるで純粋無垢な子供のような瞳で、蛇はエバを見上げる。

 そう。

 まるで『何も悪いことは聞いていない』という風に。

 「私たち、この実を食べたら死んじゃうのよ。」

 「なんだあ、それ、嘘だよ。」

 「え?」

 「まさか食べたらその場で死ぬと思ってたの?その実を食べると、いいことと悪いことの区別がつくようになって、神様みたいな知恵が手に入るんだよ。」

 動揺するエバに、逃すまいと蛇の追撃が続く。

 「大丈夫さ。ボクしか見ていないよ。」

 『ねえ、神様みたいになりたくない?』


 蛇の言う通りなら、食べても死なない。

 でも神様は、食べてはいけないって。


 エバは蛇の言葉と神の言葉の間で揺れ動き、そして。

 誘惑に、抗えなかった。

 しゃく、と果実に齧り付いたエバの口から蜜がしたたり落ち_____ドクンっと。

 エバの中で何かが脈打った。

 最大の禁忌を破ったことの恐れか、何かが永遠に変わってしまったことの恐怖か。

 あるいは人間の中にナニカが目覚めたか。


 そのとき暗がりで、邪悪に弧を描く口と目が浮かび上がり、消えた。



 楽園エデンの一角。

 神は小鳥たちを肩に乗せ、体を摺り寄せて甘える羊を撫でながら、心地よい風に包まれていた。

 今日も幸せな一日になる。人間たちと今日も一緒にいられる。そう信じて疑わなかった。

 暗い茂みから、あの声が聞こえるまでは。

 「神様カーミサマっ」

 (......アダム!)

 ちょうど会いたいと思っていたんだ。

 神はいつものように、愛しげで優しい声で迎えようとして、

 (......?!)

 一瞬のうちに違和感に気づいた。

 (違う!別人だ!)

 アダムじゃない。「アダムに似た何か」だ。

 いや、声も匂いも、完全にアダムだ。

 だが神には分かる。

 人間をつくり、心の深くまで知り尽くしている神は、偽物かれの術を一瞬で見破った。

 アダムの顔の下に隠している、神に対する悪意。

 そして、声も匂いも完全に似せるたくみさと、よりによって人間アダムに化けるずる賢さ。

 心当たりは、一つだけだ。


 「出てこい。」

 「さっすがカミサマ、なーんでもお見通しってかぁ。」

 カンペキだと思ったんだけど、とニヤニヤと口の端を曲げ、現れたのは、悪魔サタン

 アダムに完全に似せていた外見は、すでにゆっくりと崩れだしている。

 悪魔こいつは言うとすれば『悪そのもの』。神とは対照的で、不幸や苦しみ、痛みや争い、そして罪。すべての悪を司り、支配する者。

 そんな奴がわざわざ楽園エデンに現れた。

 「ニンゲンたちは元気ですかあ?」

 嫌な予感がした。

 「何をした。」

 「へへへっまだ何にもしてませんよ。ただ蛇が、例の木の下で人間と話していてねえ。ちらっとこう聞こえたんですよ。」

 「"神のようになりたくないか?"ってね。」

 「___っ」

 はじかれるように、その場を離れ、アダムとエバのもとへ向かう。

 あの木の実を食べたのか。

 「アダム、エバ、どこだ?」

 どこにいるかなど、探さなくても分かっていた。でも、隠れないで出てきてほしかった。間違いを隠さずに認め、わたしのもとに戻りたいと願ってさえくれれば、なんとかできるかもしれない。

 しかし、そんな希望は打ち砕かれた。


 「私は悪くない!エバにそそのかされたのです。」

 「いえ神様、蛇が私を騙したのです。」

 彼らが食べたのはただの果実ではなかった。

 『善悪の知識の実』

 善を知ると同時に悪を知る。今も、自分たちが裸であることに気づいて、葉で即席の服をつくって身に纏っている。

 蛇の言う通り、その実を食べても人間はすぐには死ななかった。それで安心したのだろうか。

 彼らはすでに三回神に背いた。「神になろうとした」「神との約束を反故にした。」そして「間違いを隠そうとした」。

 誰かのせいにして、必死に言い逃れをして、彼らは謝ることすらしなかった。

 (やめてくれ!そんな姿は見たくない!)

 時間を巻き戻してあの楽しかった日々に戻りたい。

 いつものように何気ない話がしたい。

 でも、わたしは彼らにもう触れられない。

 ほんのわずかでも、悪を、罪を許すことはできない。それほどまでに『神』は完全で潔白な存在だった。

 罪に染まった人間はもう楽園エデンにはいられない。『永遠』を失うということは、『終わり』が来るということ。すなわち、『死』。「食べたら死ぬ」とはそういうことだ。

 楽園にはなかった、痛み、苦しみ、悲しみ。

 それらが待ち受ける下界へと、人間は出ていかなければならなかった。


 「気分はどうだ?せっかくつくった大事な大事な人間共が汚なーくなっちまったぜ?」

 「黙れ」

 「まさか人間のほうから悪側こっちがわに来てくれるとはなア、ははっ」

 上手くいった、と恍惚とした表情でにたりとわらう。

 人間をそそのかした蛇は悪魔の仕業だった。

 「お前の目的はなんだ」

 「あなたの邪魔をすることですよ、神様」

 決まっている、と肩をすくめ、口の端を吊り上げる。

 神が良いものなら悪魔は悪いものを。神が永遠なら悪魔は死を。神が幸福なら悪魔は苦痛を。

 とにもかくにも神が忌み嫌うことをしたい悪魔にとって、神を慕う人間は格好の餌食だった。

 (神がいつまでも俺の思うままにさせておくわけがない......。さて何をしてくるか)

 そんな考えが一瞬よぎったが。

 まあいいか、と悪魔は唇の端を上げた。

 人間たちはもはや自分のものだ。自分はありとあらゆる悪で人間を堕落させてさせてさせまくるまで。

 (罪に染まった人間を落とすなんざ、ちょろいからなあ。ははっどんなスバラシい世界になるか楽しみだぜ。)


                               ◇


 あの日から、"罪"は人間の性質として備わってしまった。

 何度手を差し伸べても。

 奇跡でも、災害でも、預言者を使わしても、神のもとに立ち返ろうとすることはなかった。

 人間は神の愛よりも、罪の快楽を選んだ。文明が進むにつれ、神になり替わろうとする者も後を絶たなかった。

 「このままでは皆、一人残らず地獄ゲヘナに......」

 『地獄ゲヘナ

 人間は死後、神の前で裁判の席に着く。

 生きている間の行いを事細かに突きつけられて、全ての善行と罪が明るみに出て裁かれる。

 そこで良しとされた者は神の待つ天国パラダイスに、迎えられる。そこには苦しみも悲しみも存在しない。喜びと安らぎと笑顔があり、そこで神に愛されながら永遠に生きる。

 だが罪人とされた者は。

 罪の報いとして火が燃えさかる地獄ゲヘナに送られ、そこで罰として苦しめられる。永遠に。


 天国か、地獄か。その基準は厳しい。

 どんなに一生懸命に生きても、性格が良くても、偉大なことを成し遂げても、一滴でも罪が混ざってしまえば、神のもとには来られない。

 そして、罪のない人間など皆無だ。

 『罪』とはイコール犯罪ではなく、『神に背いて生きること』だから。

 例えば、神ではなく金や偶像を崇拝すること。例えば、全て自分の思いのままにしたいと願うこと。

 例えば、嘘、暴力、淫らなこと、悪い考え......その覚えがない者など一人としていないだろう。つまり、全員地獄に送られる運命だ。


 「___っっだめだ!それだけは、それだけは絶対に!」

 このままでは。

 悪魔に支配された世界で苦しんだ人間たちは、死んでしまうだけでなく、地獄で死ぬ以上の苦しみを延々と受けることになる。

 こんな悲劇バッドエンドはあんまりだ。

 愛した人間たちを奪われたうえに見捨てるなんて、できるはずがない。

 どうする。どうすれば。

 (......いや方法は一つだけある。)

 突破口を見つけた神は、しかし小躍りして喜ぶことはなかった。

 (これなら......だがそんなこと......)

 神は逡巡しゅんじゅんの末、決意した。他に方法はない。

 その目に威厳と覚悟を滲ませ、神は息子『イエス』を呼んだ。

 「イエス。」

 「はい父さん。」

 「天界からでて、人間となりなさい。そして......」

 「父さん?」

 言葉が途切れたのは、今から告げることの残酷さゆえ。

 怯むことも躊躇することもない神だが、父として、息子に今から告げることはあまりにひどいだろう。それでも、人間を罪と滅びの道から救い出さなければ。

 「父さん」

 はっと顔を上げた視線の先には、すべて分かっているような穏やかな表情で父を見つめるイエスがいた。

 「父さんの役に立つのがうれしいんだ。大丈夫。僕も同じ思いだから。」

 神と同じ、決意を湛えたまなざしでイエスは続ける。

 「神の御心の通りになりますように。」



 その日から『計画』が動き出した。

 預言者を通して数百年前から、御子イエスの誕生を予言する。

 イエスが人間として生まれた日。

 生まれた小屋の真上には大きな星が輝き、荒野では天使が大勢でイエスの誕生を告げ知らせた。大きな星に導かれて、羊飼いたちも祝いにやってきた。

 イエスはただの人間として暮らした。

 神であるから人間にはない知恵があったし、罪を犯すことはなかったけれど、それ以外は普通の人間。

 大人になってから、彼は神の力を使って人々を癒し、奇跡を起こしながら人々に語った。心を入れ替えて、悪魔側ダークサイドではなく、神側ライトサイドに戻るように。

 罪と悪魔の支配から解放され、神との関係を取り戻す日が近づいている。『そのための計画は動き出している。』と。

 はるか昔から予言されていた、その計画を成し遂げる御子とは自分のことだと。

 自分に許された時間の限り、彼は神の言葉を伝え続けた。

 事実神の子であるから、彼の言葉には力があった。

 彼を信じて、また神と生きたいと願う人は驚くほど多かった。

 でも、そんな彼を妬み憎む者も多かった。

 何より人々が生き方を改めようとしている、その動きを悪魔が見逃すはずはない。


 そして、その時がやってきた。


 ある夜。

 イエスは仲間に裏切られ、"神を冒涜ぼうとくした罪"で捕らえられてしまった。

 「そいつは自分を神の子だと言ったぞ!殺してしまえ!」

 ある人は顔を真っ赤にして法廷で怒鳴り、証言した。

 「おい、お前神の子なんだろ?だったらほら、そこから抜け出してみろよ!」

 ある人は捕らえられて抵抗もしないイエスをからかった。

 彼を慕ってついてきた弟子や人々は、彼を助け出そうともせず、みんな逃げてしまった。

 彼を憎む者たちの扇動によってとうとう彼は死刑になり、『十字架』の判決が下された。

 『十字架』

 棘や重りのついた鞭で打たれ、町を引き回されたあと、十字に組んだ木の上に、両手両足を極太の釘で直接固定してはりつけにし、死ぬまで放置する。死ぬまでにかかる長さはおよそ半日。

 十字架は極悪人のための刑だ。人を殺した罪を、痛みと長い苦しみと死で償う、最悪の刑罰。

 イエスは何も罪を犯していないのに。



 「はははっ!助けてやらねえのか、カミサマよお!」

 下界を見下ろす悪魔は愉快でたまらないというように声を上げた。

 (しっかし人間ってのは愚かだねえ。ま、俺にとっちゃ都合がいいけどな。)

 「失敗!大失敗ざーんねん!ったく何のために人間にさせたんだあ?」

 腹をかかえて大声で、ここぞとばかりに神を煽る。

 (俺のかわいい人間共の悪は、神の子を殺すほどか!はははっ気分がいい!)

 「はははははは!!!はは......?」

 そこで、ふと。

 神の横顔を見やった悪魔は、気づいてしまった。

 「まさか......」

 

 下界を見据え、端然と神は語る。

 「人間の罪をなかったことにはできない。」

 膨れ上がった借金が、帳消しになることなどないように。

 「ならばわたしは人間をあがないだす。」

 人間は悪魔に奪われた。

 ならばわたしは代わりに対価を支払って、悪魔の手から人間を買い戻すまで。

 その対価は、愛する息子イエス


 「馬鹿な!」

 悪魔サタンは見誤っていた。

 なぜイエスが今もされるがままにしているのか。なぜ神は助け出さないのか。

 『神の計画』を成し遂げるためだ。

 イエスの命と引き換えに人間を救い出すという計画を。


 「か、神ってのは息子の命をずいぶん軽く見るんだな」

 顔を引きつらせながら嘲笑おうとする悪魔だって、分かっていた。

 軽いわけがない。

 親にとって子の命は自分の命より重い。いや、何にも代えられない。

 それならば、その子の命を犠牲にしてまで神が救いたい人間とは、いったい何なのか。

 悪魔も人間も、神を侮っていた。

 『神の愛』

 その大きさを人間の物差しで測る方が間違っていた。

 何度人間が間違えても。

 何度人間が裏切っても。

 人間が神を忘れても。

 神からの愛は人間がつくられた初めの日と何も変わらなかった。

 神は再び人間と抱きしめあえる日を切実に求め、実現しようとしている。



 その頃、イエスの十字架が立つ丘。

 「父さん......」

 はたから見れば死刑囚の独り言に過ぎない言葉を、聞いていたものはどれだけいただろうか。

 「......して......」

 自分の役目は初めから分かっていた。それでも、願わずにはいられなかった。もしかしたら父は自分をかわいそうに思って、この身に待ち受けている苦しみから救い出してくれるのではないかと。

 でも、結局。

 『神の御心の通りになりますように。』

 全部あなたの計画の通りにしてほしいと願った。

 それは父への絶対的な信頼。

 あなたの役に立ちたい。人間たちを救いたい。

 だけど、やっぱりどうしようもなく痛くて、辛くて、怖くて。その弱さも人間である証。だから、この言葉を口にしてしまうのを許してほしい。

 血の滲む口から息のような掠れた声がこぼれ出る。

 「どうして僕をお見捨てになったのですか......」

 

 父も、聞いていた。

 「イエス」

 子がこの世のものとは思えない苦しみを受けていると同時、父も胸が引き裂かれるような苦痛を湛えていた。

 息子に向かって伸ばそうとする手を、必死に押し戻す。助けようと思えば、すぐにでも助けられるのに。

 でも、それではあがないは成らない。

 何の罪もない神の子に『すべての人間の』罪を背負わせることで、人間の罪を肩代わりするのだから。 

 穏やかにも冷徹にも見える神としての表情が一瞬剥がれ、必死で唇を引き結ぶ父の表情が浮かび上がった。


 耐え難い苦痛にひたすら耐えていたイエスはついに。

 「ぁあ......」

 息も絶え絶えに最後の力を振り絞って、最後の言葉を口にする。

 「完了、したっ......。」


 「ああああああああああああああああっっっ!!!」


 瞬間。

 地上の天気が雷雨に変わり、慟哭のような雨が叩きつけるように降り注いだ。

 「神が泣いている......」

 誰かの呟きが、雨音にかき消されて散った。

 神の子が人の罪のために身代わりになって死んだなど、誰も想像できないだろう。

 終わりだ。何かが変わると期待していたのに、イエスはあっけなく死んでしまった。誰も彼もそう思った。

 (そう、死んだら終わりだ。)

 悪魔もそう思った。

 

 だが神は違った。


 「まだだ。」

 「......何?」

 「お前がもたらしたものが残っている。」

 それは『死』。

 死はすべての人間の運命さだめだった。人間が悪魔に敗北したあの日から、罪を行う者の末路として。

 無論、神がこのまま敗北で終わるはずがない。

 完全に人間を取り返すための神の計画プランはまだ続きがあった。


 「イエスはすべての人間の代わりに十字架にかかって死に、罰を受けた。」

 本来ならば罪を負った人間たちが受けるべき罰。それを、イエスは代わりに受けた。

 

 「そしてすべての人間の代わりに、『死』を打ち破る。」

 人間を縛り続けた凶悪な力。

 罪も死も悪魔によってもたらされたというなら。

 罪からも、死からも救いだすことが神にはできる。

 人々はもうすぐそれを目の当たりにする。

 「はっ。人間が生き返るとでもいうのかあ?」

 精一杯鼻で笑う悪魔にも、分かっていた。

 神にできないことなど一つもない。もう止められない。自分のつくった計画が崩れていく。

 (やめろやめろやめろやめろ!!!!!)

 『終わり』が来たのは自分のほうだったのだとようやく悪魔は気がついた。

 

 三日後。


 「_____っ!?!」

 

 イエスの墓の前で、マリアは目を見開き息を呑んだ。

 いや正確には「イエスが埋葬されたはず」の空の墓。

 大人数人でやっと動かせる墓石が動かされ、遺体を包んでいた麻布が無造作に置かれていた。

 (ご遺体がない?!まさか、墓荒らし?!?)

 イエスを慕っていた彼女には、「イエスが生き返った」という考えはなかった。所詮、どんな偉大な人間であっても死には勝てないのだから。

 残虐な処刑をつい先日目の当たりにしたのに、追い打ちをかけるような仕打ちにマリアの心が悲しみで染まろうとする。

 そのとき、墓の入り口の方から声が聞こえた。


 「誰を探しているのですか?」


 (......誰?)

 日が眩しくて顔はよく見えない。

 だけど聞き慣れた声。ずっと聞きたくて、でも聞こえるはずのない声。

 幻覚だ夢だと疑いようもないほどに、何気ない日常の続きのようにそこに立っていた人物を見て、マリアは喜びで震えながらその名を呼んだ。


 「イエス様!」


 町では驚きどよめく声と、喜ぶ声が聞こえる。

 人々が「確かに死んだはず」のイエスと出会ったからだ。

 最初は信じなかった人も、イエスの手首の釘の傷を見ては、なにも言えなかった。

 驚かなかったのは、神と悪魔だけ。

 イエスはよみがえった。

 人間が悪魔に敗北したあの日から、一人として抗えなかった、死。

 それすらも神は打ち破った。

 

 「人間の罪はすべて清算された。」

 他ならない、イエスの命によって。

 贖いは完了した。罪によって絶たれていた、神と人の和解が成った。

 自分の罪を悔いる人をわたしはすべて許す。

 悪魔の手から解放されて神のもとに戻りたいと願う者は、再び神の子となり、無条件の恵みと無限の愛を注がれてわたしと生きる。

 彼らは死んだあとわたしの待つ天国に迎え入れられ、そこで永遠に生きる。


 その条件は、『神を信じること』のみ。


 理解できない、

 と悪魔は絞り出すように呟いた。

 「そんなに人間がいいのか......?そんなに価値があるのか?」

 「言うまでもない。」

 どんなに人が罪深くても。

 たとえ、見返りのない一方通行の愛だと言われても。

 わたしが愛したいから、愛すると決めた。

 自分の役目をすべて終え、とうとう天に帰って来る息子を見つめ、神は両腕を広げる。

 今度こそ、イエスを抱きしめるために。

 「イエス......お前は救いキリストだ......」


          ◇

 

 人間が好きだった。


 父がつくった人間は、すべて最高傑作だった。

 一人ひとりに備えた性格や長所、そして込めた想いを嬉しそうに語る父を見て、僕も本当に嬉しかった。

 人間たちは自分に足りないものをみて悲しそうな顔をする時があったけど、僕たちの目にはみんな完璧で愛おしかった。だってつくったのは神なのだから。神に失敗などありえない。

 僕たちのことを忘れても、人間は楽しそうだった。それがたまらなく悲しかった。


 けれど。

 楽しそうに見えてもその裏で、彼らは苦しんでいた。

 財産を手に入れても、やりたかったことをしても、何をしても満たされない何かがあって。

 考えてみれば当然だ。君たちをつくったのは僕たちなのだから。

 "自分のつくり手"である神の存在をなしにして、どうして心のすべてを満たすことができるだろう。

 (気づけ!気づいて!)

 君たちを心から愛しているのは僕たちだ。生まれる前から。神につくられたときから。

 君がどんな可能性を秘めているのか、いつそれを使うのがもっとも最高ベストか、僕たちは知っている。

 だから僕たちの方に戻ってきてくれ!

 そうやって必死に手を伸ばしても、振り向いてはもらえない。

 どんなに声を張り上げようと、想いは届かなかった。

 

 でも今は。

 人間のすぐ隣に行くことができる。

 ほらそこに、泣いている人が。

 辛いんだね、苦しいんだね、今はよくわかる。そのために僕は一度人間になったのだから。

 痛みも弱さも苦しさも知って、君の心に寄り添えるようになるために。


 自分が価値のない人間だなんて言わないで。

 僕が命を差し出すほどに君は愛されているんだ。

 君が苦しいときに何もできないのは嫌だ。君が死んでしまうのはもっと嫌だ。

 僕が十字架にかかったのは、もう二度と、君と離れたくなかったから。

 すべての悪から君を守りたかったから。

 君の張り裂けそうな悲しみを、癒したかったから。

 

 あと一歩。神様と僕のことを受け入れて。そしたら僕は君の手を取れる。


 そのとき。

 ふっとその子と目が合った。

 そうか、君は受け入れてくれたんだね。

 胸にあふれる喜びのままに一目散に駆け寄り、大丈夫だよというより早く、その体をかき抱く。

 ずっと、ずっと前からこの時を待っていた。

 もう君を絶対に一人にしない。


 神と生きると決めた君の心に宿るのは『聖霊』。

 『神』である僕たちは三人で一つ。

 そのうちの一人を君の心に送る。


 聖霊は君の心に深く深く寄り添う。

 君が嬉しいときは一緒に喜んで、悲しいときは一緒に泣く。

 あるときは、君の心に直接語りかけて。

 あるときは、君の言葉にならない苦しさを、君の代わりに神に訴えて。

 君が戦うときは僕たちも一緒に戦って。

 どんなときも君の一番近くにいて一緒に歩むために。


 そしていまも、天国でも、無限の愛を君に注ぐために。




 【神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。

 それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠の命を持つためである。

 ヨハネの福音書3章16節】

 

 

 




 

 

 

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