この春はあなたと

となかい

この春はあなたと

【まえがき】

AI利用部分については細心の注意を払っていますが、もし既視感のある表現や問題のある箇所があれば、すぐに対応(修正・削除)いたしますので、お手数ですがご指摘ください。


***



 王立学園の卒業パーティーは、虹色の輝きに包まれていた。シャンデリアに組み込まれた最先端のランプは暖かな光を放ち、複雑にカットされたクリスタルが七色の光の粒を天から降らせる。


 幻想的な光景によるものか。それとも、学生生活最後の夜という節目の日に、期待と不安で浮き足立っているのか。異様な熱気はホールを呑み込もうとしていた。


 その熱が最高潮に達した刹那、空気を引き裂くような怒鳴り声が響き渡った。



「ヴィオレッタ・ド・モンタギュー!! 貴様との婚約を破棄する!!」



 ホールは冷水を浴びせられたかのように、一瞬にして静まり返った。


 その不躾な怒鳴り声に動じることなく、優雅な足取りで進み出たのは、一人の美しい令嬢だった。ヴィオレッタ・ド・モンタギュー公爵令嬢である。さっと扇子を広げ隠された顔の半分には、心底うんざりとした嫌悪が浮かんでいた。


「……まあ、アルフォンソ様。それはこの様な場でおっしゃる事ではありませんわ」


 ヴィオレッタの冷気を纏った制止の言葉も、アルフォンソには言い訳がましい悪役の台詞にでも聞こえているのだろうか。彼は勝ち誇った顔で、隣に寄り添う小柄な少女の腰を、見せつけるように力強く引き寄せた。


「黙れ! 貴様に私たちの真実の愛を阻む道理はない! 貴様のような冷酷な女を、我がラ・ヴァリエール侯爵家に迎え入れるわけにはいかないのだ!」


 不安に瞳を潤ませ上目遣いで彼を見つめているのは、リディア・クレール男爵令嬢だ。男爵家の庶子である彼女には上質すぎる、甘ったるいドレスを纏っている。

 アルフォンソは彼女を愛おしげに見つめると、その瞳に陶酔しきった熱を浮かべた。


「見ろ、この清らかな瞳を! 権力と格式という穢れに塗れたこの社交界で、リディアだけは私の魂を浄化してくれた。彼女こそが、暗闇を照らす唯一の光! このアルフォンソ・ド・ラ・ヴァリエールが誓おう! 私と彼女を結びつけるこの絆こそが、運命が導きし真実の愛であると!!」


 アルフォンソの声は、恋物語の主人公のように会場に響き渡る。リディアは「アルフォンソ様……」と感極まった甘やかな声を漏らして、彼の胸に顔を埋めた。


 二人の周りだけが、まるでスポットライトを浴びているかのように、劇的な──悪く言えば、ひどく浮いた空気に包まれている。



(──まるで、三文芝居だわ)



 エレノア・ド・ルーチェは、二つ年上の婚約者の腕にそっと手を添えたまま、至近距離で繰り広げられる「劇」を興味深く見守っていた。


 そもそも、モンタギュー公爵家とラ・ヴァリエール侯爵家の婚約は、重要な国策の上に成り立っている。

 ラ・ヴァリエール家が属する派閥の土地は、新たに近隣国と開始した貿易の拠点として、商業地区開発が進められている。そこに、既存の貿易ノウハウを持つモンタギュー家が力を貸す。


 高位貴族であれば誰もが、あの婚約を「国家規模の経済プロジェクト」として認識しているはずだ。


(あの方は今この瞬間に、どれほどの利権を放棄したのかわかっているのかしら?)


 エレノアの脳内では、ラ・ヴァリエール家が被るであろう天文学的な損失額が弾き出される。それは一貴族家が傾きかねないほどの、あまりにも莫大な数字であった。


(真実の愛。とても不思議だわ)


 エレノアは扇子の陰で、好奇心に縁どられた瞳を細めた。


 貴族の世界は果たすべき義務と、それに伴う利害と契約で構成されている。けれど今、目の前の男はそれら全てを「愛」という、目にも見えない不確かな概念のために投げ捨ててみせた。


(こんなにも危うい言動を選ばせてしまう『愛』とは、一体何なのかしら)


 そんなことをエレノアが考えているうちに、事態の重さを察知した運営側の教員たち、あるいは双方の家臣たちだろうか。黒服の男たちが音もなく動き出し、呆然とする観衆に割って入った。


「あら、幕引きなのね」


 アルフォンソはまだ何か喚いていたようだが、毅然とした態度のヴィオレッタ、そして彼にしがみつくリディアと共に、流れるような手際でホールの裏手へと連行されていった。


 嵐の去ったホールの静寂の中で、エレノアは「愛」という名の謎について深く思いを馳せていた。





 王都にあるルーチェ伯爵家のタウンハウス。その庭園は今、春の暖かな日差しに満たされていた。色とりどりの花々が咲き乱れ、柔らかな風が甘い香りを運んでくる。

 そんな絵に描いたような穏やかな空間で、エレノア・ド・ルーチェはティーカップを手に、答えのない迷宮を彷徨っていた。


 テーブルを挟んで座るお茶会の相手は、婚約者のリカルド・ド・グラニットである。彼は辺境伯家の次期当主であり、現在は一門の中央政治を担っている一人だ。


 隣国と接する辺境伯領は山岳地帯を有しており、主業務は冬、食糧を求めてその山を下りてくる害獣の討伐だ。

 しかし、領地に引き籠もっていては中央の貴族から「田舎者」と侮られ、予算交渉などで不利な扱いを受けかねない。

 そんな過去の教訓から王都に駐在する人員を割き、中央との橋渡しを行っている。


 二年前に王立学園を卒業したばかりのリカルドもまた、その人脈を期待され、害獣討伐が落ち着いたこの春の時期に中央での活動を再開させていた。


 彼と顔を合わせるのはあの卒業パーティー以来だった。エレノアの脳裏には、いまだにあの鮮烈な光景が焼き付いている。


「ねえ、リカルド様。先日の卒業パーティーを覚えていらして? 結局、あの方たちはどうなったのかしら」


 エレノアが問いかけると、リカルドは彫りの深い顔立ちにわずかな険を帯び、淡々と答えた。


「ラ・ヴァリエール侯爵令息のことか。彼は廃嫡。あの男爵令嬢共々、貴族籍を剥奪されたと聞いている。一時の欲に振り回され果たすべき義務を投げ出すとは、愚かとしか言いようがないな」


「欲、ですか……」


 エレノアは呟き、視線を花びらへと落とした。あの日放棄された商業地区開発の主導権は、今やモンタギュー公爵家が独占する形で再編されつつある。莫大な損失を招いた彼らは今頃、「こんなはずではなかった」と後悔の中にいるだろう。


 けれど、あの日。婚約破棄を叫んだアルフォンソの姿は、まさに愛する姫を護る騎士のようだった。あの瞬間に彼らが感じていた幸福感は、たしかにそこにあったのではないか。


(欲と愛の違いは、一体何なのかしら。もし、欲が愛ではないというのなら、愛とは何一つ求めない無欲なものだというの? それならきっと、愛は何も生まないし、何も変えられない。それは、そこに「ある」と言えるのかしら)


 国策を無に帰す危うい欲。けれど、あれも愛の一つだったのではないか。


 答えの出ない問いが脳内を侵食し、エレノアの視界は目の前のお茶菓子さえ捉えなくなっていく。思考が深い海の底へと沈み込み、現実の音が遠のいた、その時だった。



「エレノア」



 深く、体に染み入るような重厚な声が名を呼んだ。ハッとして顔を上げると、そこには婚約者がいた。


 春の柔らかな花々──淡い桃色や藤色の世界の中で、そこだけが別の密度を持っているかのような、深く、揺るぎない緑の瞳。辺境の険しい山々を背負い、厳しい冬を越えてきた深林が、真っ直ぐに彼女を射抜いている。


「……考えすぎる癖が出たようだな。茶が冷めるぞ」


 リカルドのその一言で、エレノアを沈めていた思考の海は一気に霧散した。形のない愛の定義をいくら並べるよりも、今はこの堅苦しく無愛想な深林が、一体何を捉えているのか。その視線の先に思いを馳せるほうが、よほど面白く、手応えがある気がしてくる。


「まぁ、失礼いたしました」


 エレノアは微笑み、温め直された茶に口をつけた。いくら考えてみても、自分は彼らのように振る舞えやしないだろう。捨てられないもの、捨ててはいけないもので、その身は作り上げられているのだから。


(……だとしたら。わたくしにとっての『愛』とは、一体何なのかしら)



 ──知りたい。



 その純粋な思いは、彼女の心の奥底に刻み込まれた。





 数日後。エレノアは、王都の貴族街にあるサロンで催された小規模な茶会に招かれていた。話題はもっぱら、例の卒業パーティーのその後と、近々の社交界の噂話だ。


「そういえば、エレノア様」


 不意に、第三王子の婚約者である令嬢が、悪戯っぽく微笑みながら扇子を広げた。


「この間、公務で王城に行った時にグラニット辺境伯令息を見かけたのよ。そこでね、とても微笑ましい光景を目にしてしまったの」


 エレノアは、優雅にカップを口に運びながら耳を貸した。


(微笑ましい? あの、岩が歩いているようなリカルド様が?)


 令嬢の話によれば、その日のリカルドは、宰相補佐官との面会のために王城へ出向いていたという。



***



 王城の長い回廊を、リカルドは重厚な足取りで進んでいた。ふと、彼の視界の端に、不安げな顔でうろうろと辺りを見回す小さな人影が映る。まだ十歳にも満たないであろう、愛らしいドレスを纏った少女だった。


(なぜ、こんなところに子供が一人で……?)


 疑問が浮かぶと同時に、いつもの癖で眉間に深い皺が刻まれる。ただでさえ威圧感のある顔が、一気に「獲物を狙う討伐者」のそれへと変貌した。リカルドは少女の前に立ち塞がると、その「岩壁」のような体躯で影を落とし、問いかけた。


「そこで、何をしている」


 地響きのような低い声。それは、迷子になった不安で張り詰めていた少女の心に、とどめの一撃として突き刺さった。


「……ぁ……う、うわあああああん!!」


 少女の泣き声が回廊に響き渡る。リカルドは一瞬、岩のように固まった。困惑と罪悪感から、険しかった眉が八の字に下がる。


(泣かせてしまったか。威圧するように見下ろしてしまったのがいけなかったのだな)


 彼はその場に片膝をついて少女と目線を合わせた。先ほどの威圧的な響きは影を潜め、今度はチェロの低音のように、深く柔らかな響きを帯びた声が紡がれる。


「すまない。淑女に対して名乗りもせず声をかけるのは無作法だった。許してほしい」


 その穏やかな響きに拍子抜けしたのか、少女はしゃくり上げながらも、大きな瞳で彼を見上げた。


「お、おとうさまと、おしろにきたけれど……はぐれちゃったの……」


 少女とその父親は、どうやら王女の友人候補として招かれた貴族らしい。リカルドは「そうか」と短く頷いた。


「お父上の名はわかるか? 事情を知る者のところまで送ろう。……失礼」


 そう言うやいなや、リカルドは大きな手で、少女の小さな体を軽々と抱き上げた。高い視界。少女は「はわわっ……!」と息を呑み、自分を支える逞しい腕を見つめた。

 その瞳にはもう恐怖はなく、物語に出てくる「強くて優しい騎士様」を見つめるような憧憬が宿っていた。



***



「あの女の子の表情といったら! きっと『騎士様すごい! 素敵!』って思っていたに違いないわ」


 令嬢は楽しげに笑い、物語を締めくくった。


「様子を見て声を掛けようかと思っていたけれど、全く出番がなかったわ。グラニット様はあんなに無愛想に見えるのに、随分と紳士的ですのね」


「あら。ふふ、そんなことがありましたのね」


 エレノアは扇子の陰で、こぼれそうになる笑みを隠した。





 茶会の帰り道、揺れる馬車の中。カーテンの隙間から差し込む春の柔らかな日差しを浴びながら、エレノアは独り、思考を巡らせていた。


 脳裏にあるのは、次回の茶会でのリカルドの反応だ。


 ──他の淑女を怖がらせて泣かせたそうですね。ましてや、婚約者であるわたくし以外の淑女を抱き上げるなんて。


 そう揶揄えば彼はきっと、困惑と気恥ずかしさを隠すように、眉間に深い皺を寄せて「あれは致し方なかったのだ」と険しい顔で弁明するに違いない。



 そこまで考えて、ふと我に返る。



(……わたくし、こんなに饒舌だったかしら)



 あんな話をしよう、こんな反応をさせよう。まだ起きていない未来の会話を、これほどまでに鮮やかにシミュレーションしている自分。


 ふと、あの卒業パーティーで「愛」を叫んでいた者たちの言葉が蘇る。彼らは相手の存在に「癒やされる」だの「話を聞いてくれる」だのと、どこか受動的な言葉を並べていた。


(……待って。わたくしはあの方たちのようにはなれないと思っていたけれど。些細なことを考え込んでしまうわたくしの話を、ただ静かに聞いてくれるあの時間に。わたくしはたしかに安らぎを覚えているのではないかしら)


 だとすれば、自分が彼らと全く違うと言い切れる証拠はどこにある? 思考の連鎖は、止まることなく未来の光景を次々と映し出していった。



 もし困難に見舞われても、わたくしはあの男爵令嬢のように涙目で縋りつくことはできない。

 けれど、どんな嵐の中でも、リカルドは岩壁のようにわたくしの隣にいてくれるだろう。そしてまた、わたくしも彼の隣にあるはずだ。

 きっと資料の山に埋もれた執務室で、疲れの浮かぶ顔を見合わせながら、彼と夜通し議論を交わしているだろう。


 そして──いつか来る人生の最期の日。わたくしは、リカルドと他愛のない話をして笑っているのではないか。



(ああ、そうなのね……)



 それはまだ「愛とはこれだ」と定義できるような、はっきりとした答えではない。迷宮の出口は依然として霧の向こうだ。

 けれど、こんな未来を当然のように想像できてしまうこの感覚は、少なくとも彼らが「愛」と呼んでいたものの正体に、近い場所にある気がする。


 果てしない思考の迷宮の中で、ふと見つけた、ささやかな休憩所。そこにある椅子に腰を下ろすような穏やかな心持ちで、エレノアはそっと笑みを零した。


 次の茶会では、この考えを彼に話してみよう。ついでに、先日出先で見つけて「彼なら喜びそう」と買ってしまった、あの渋めの茶葉を淹れよう。来客用の高価なものはいくらでもあるというのに、わざわざ新しく買い揃えてしまった、対のティーカップに入れて。


 馬車が屋敷に到着する頃、エレノアは心の中で、次の茶会の出だしを練習してみるのだ。



「ねえ。わたくし、あれから愛について考えてみたのですけれど……」










 窓から差し込む春の陽光が、ベッドの白に柔らかな輝きをまとわせる。風に揺れるカーテンの隙間から、時折、眩しいほどの光が部屋に溢れた。


「そういえば、昔、愛について考えたことがありましたわね」


 思い返せば、随分と長い間リカルドとともに過ごしてきたものだ。


 視界を満たす光に溶け合う記憶は、何度も繰り返し再生された映画のフィルムのように、春の陽光に透けて淡く柔らかな彩色を施されていく。光の粒子が降りそそぐなかを、一コマ、また一コマと、静かに移ろいゆく。


 大雨による災害、燃え盛るような暑さの中を、泥にまみれて駆けずり回った酷暑の夏も。


 復興十周年を祝う収穫祭、子供たちの結婚式を見守り、爵位を譲った実りの秋も。


 夫が辺境伯として向かった害獣討伐で、大怪我をして意識不明で帰ってきた凍てつく冬も。


 意識が戻った夫を見て、思わず流してしまった涙。そんな自分に夫が向けた、目を細め、ほんの少し口角をあげたあの憎たらしい顔を、この先もずっと、忘れることはないだろう。



 結局、愛とは一体何なのか。愛は感情だけれども、きっと感情だけではなりたたない複雑怪奇なもので、環境や条件によって真実の愛にも愚かな欲にもなりうる。

 今この時も正確な答えなど出せはしないけれど。それでも、右手に感じるあなたの手の温もりを、心地よいと思うのは紛れもなく真実で。



 『君の言う事はいつも理に適っている』



 どうしても落ちてくるまぶたに抗えなくて、お決まりのあなたの台詞を聞けないのは残念だ。



 最後の一コマが白い光の中に溶けていく。



 次はあなたとどんな話をしようかしら。

 そんな事を考えながら、エレノアは温かな微睡みに身を委ねた。



「おやすみ、エレノア」



 聞き慣れた、低く静かな声が聞こえた気がした。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

この春はあなたと となかい @reindeer_c03

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ