呪詛行使者調査報告書

湊。(女性向け百合小説が書きたい人)

File No.01225:呪遺物『繭の対針』 ―― 皮下刺入儀礼

【File No.01223:呪遺物指定報告書:抜粋 / 民俗学的逸話・詳細は最終頁を参照】

 指定名称: 呪遺物『繭の対針まゆのついばり

 行使条件: 桐箱に収められた二本の骨針に二人の人間が同時に触れること。

 呪詛内容: 術後、対象者間の距離は1メートル以内に制限される。

 執行条件: 両者の「愛着」が閾値を下回る、あるいは「無関心」が「愛情」を上回ったと怪異が判定した瞬間、皮下の針が心臓へと移動。両者の肺および心筋を破壊し、心中を強制執行する。


 生存率: 0%(記録上、解呪の成功例なし)




 ◇◆◇



 ――12月25日。


 午前8時13分、冬の朝の光は、慈悲などひとかけらも持たぬ鋭利な線となって、閉ざされた寝室の闇を執拗に切り裂いた。


 カーテンの隙間から差し込む青白い白光は、空中に漂う微細な塵を、まるで解剖台の上に並べられた無機質な標本のように鮮明に照らし出している。


 その光の筋を見つめながら、湊は己の肺が、吸い込んだ空気ごと凍りついたような錯覚に陥った。


 枕元で鳴り響く、スマートフォンの無機質なアラーム音。


 それは凍てついた室温を震わせ、みなとの鼓膜を不躾に、暴力的に、繰り返し叩き続けている。


 いつもなら、隣で眠る結衣ゆいが、低く湿った舌打ちを漏らしながら、気だるげに、かつ執拗に腕を伸ばしてその音源を沈黙させる。


 8年という歳月は、かつての睦まじい朝の情景を、生活という名の機能的なルーチンワークへと変容させていた。


 湊は、売れない作家だった。


 かつて弱冠12歳で文学賞を受賞した時、世間は彼女を「純潔と毒を併せ持つ新星」と持てはやした。


 しかし、2作目、3作目と筆を進めるうちに、湊の内側にあった「毒」は日常の安寧に薄められ、いつしかその泉は枯れ果てた。


 今や執筆用ノートPCの液晶画面には、3ヶ月前から一行も進んでいない、空白の物語が広がっている。


 暗い部屋で一人、点滅するカーソルを見つめるだけの時間は、湊の精神を少しずつ、けれど確実に壊死させていった。


 書けないという事実は、呼吸を忘れるのと同義だった。


 表現者としての死。それは肉体の死よりも残酷に、湊の輪郭を曖昧にしていった。


 一方の結衣は、大手広告代理店の末端で、理不尽な接待と終わりのないタスクに忙殺される日々を送っていた。


 かつての奔放な笑顔は影を潜め、今や彼女の瞳に宿るのは、組織という巨大な機械の歯車として、毎日少しずつ摩耗していくことへの、乾いた諦念だけだ。


「君の代わりなんて、いくらでもいるんだよ」


 上司から浴びせられる定型句の暴力を、結衣は笑って受け流す術を覚えてしまった。


 結衣にとっての社会とは、自分を少しずつ削り、最後には無味無臭の灰にするための巨大な焼却炉だった。


 二人の愛は、すでに冷めきったスープのように、表面に薄い不透明な膜を張って硬直している。


 会話は「了解」と「ごめん」という効率的な記号に置換され、肌の触れ合いは、義務感に満ちた静かな接触へと成り果てていた。


 それでも一緒にいたのは、なんともありきたりな理由。独りになる恐怖に耐えられないからだ。


 惰性という名の麻酔が、二人の生活を、腐敗を隠しながら辛うじて繋ぎ止めていた。


「……、……っ」


 意識の浮上と同時に、湊は己の存在が根本から否定されるような、暴力的な衝撃に見舞われた。


 上体を起こそうとした刹那、胸骨の裏側を、錆びた太い鉤爪かぎづめで掻き毟られたような激痛が走る。


 肺の中の酸素が、真空ポンプで一滴残らず搾り取られたかのように、呼吸が止まる。


 肺が、心臓が、あるいは魂の輪郭そのものが、目に見えない強固な、けれどあまりにも冷徹な鋼糸によって隣へと縛り付けられている。


 動こうとすれば、その見えない糸が内臓を直接牽引し、肉を内側から引き千切ろうとする。


「……湊、……なに、これ。……いたい、……いたいよ……」


 隣で結衣が、安物のシーツを、指の関節が白く浮き上がるほどに握り締め、胎児のように丸まって悶絶していた。


 その呻き声さえ、今の湊には自分の肉を抉る刃として届く。


 結衣が苦痛から逃れようと、わずかに身を捩るたび、湊のみぞおちには火に焼かれたような熱い、けれど極寒の牽引力が伝播する。


 二人の身体を繋いでいるのは、昨夜までは存在しなかったはずの、目に見えない「拒絶の糸」だった。


 二人は這いずるようにして、互いの顔を、鏡を見るような絶望を込めて見つめ合った。


 その瞳の奥には、8年分の倦怠と、それ以上に深い、未知の恐怖が渦巻いている。


(昨夜、私たちは、わざとあの箱を拾った)


 ――前日12月24日。


 湊の脳裏に、クリスマスイブの夜、雪混じりの風が吹き荒れる公園の隅での記憶が、鮮明に蘇る。


 街は浮かれ、恋人たちの笑い声が溢れる中で、二人の間には、耐え難いほどの重苦しい沈黙が横たわっていた。


 数年ぶり、義務的に行われたレストランでのディナー。


 一皿数千円もする料理は、二人の冷え切った胃袋を温めることはなく、ただ虚しさだけを強調した。


「もう、終わりにしようか」


 帰り道、どちらかがそう口にする寸前。


 街灯の届かない暗がりの路地に、その古びた桐箱は転がっていた。


 まるで、持ち主に見捨てられた赤子のように。


 けれどその実、獲物が来るのをじっと待つ食肉植物のような、引力を放っていた。


 湊は、その箱から漂う異様な「死」の気配に、本能的な戦慄を覚えると同時に、歪な「希望」を感じていた。


 このまま無色透明な、何も起きない日常に溶けて消えるくらいなら、何でもいい。


 自分たちの生活に、取り返しのつかない「傷」を付けたかった。


 結衣もまた、明日も同じように繰り返される、理不尽な業務と、自分を押し殺す日々を破壊するための「毒」を求めていた。


 明日、またあの満員電車に乗って、誰でも代わりの効く仕事をこなすくらいなら、この不気味な箱と共に地獄へ堕ちる方がマシだと思った。


 二人は、それが「絶対に拾ってはいけないモノ」であることを、本能的に理解していた。


 けれど、二人はどちらからともなく手を伸ばし、それを「共有」することを暗黙のうちに選んだ。


「これ、持って帰ろうか」


 どちらが言ったのかは、もう分からない。


 それは、別れる勇気を持たない二人が選んだ、共犯者としての、心中にも似た同意だった。


 同棲しているアパートへ帰宅してから、箱を開け、二対の白骨の針――『繭の対針』がその青白い肌を晒した瞬間。


 二人の指先が同時に骨に触れ、冷たい電撃のような感覚が脊髄を駆け抜けたのを覚えている。


 それからだ。……この痣が、始まったのは。


 震える指先で、互いのパジャマのボタンを外し、露わになった胸元。


 そこには、血管のようにどす黒く、立体的にはっきりと盛り上がった、醜悪な痣が刻まれていた。


 痣は生き物のように、相手の恐怖を吸い取るように、微かに脈動している。


 二人の脳裏に、かつてこの針によって綴じ合わされた前任者たちの、凄惨な追体験が泥流となって流れ込む。


 彼女たちもまた、壊れかけた関係の末に、この地獄を選んだのだ。


 100年前の蔵の中。


「誰にも私たちを邪魔させない」と誓った双子の姉妹の、ひきつけのような笑い声が耳の奥で響く。


 肉を裂く音を子守唄にして、彼女たちは永遠を完成させたのだ。


 湊の意識は、その古い絶望と溶け合い、現在の苦痛と重なっていく。


「……嘘、……嘘でしょ。私、今日、……プレゼンがあるの。……これに、……私の全てがかかってるのに……っ」


 結衣が、現実を拒絶するように首を振り、ベッドの端へと這い出そうとする。


 彼女にとって、会社は自分を殺す場所であると同時に、自分が社会という地図の上に存在するための、唯一の細い座標軸だった。


 そこから脱落することは、人間であることを辞めるのと同義だった。


 その生存本能さえも、呪いは無慈悲に、物理的な暴力を持って断ち切ろうとする。


  二人の距離がわずか一メートルを超えようとした瞬間。


  「――っ、……あ、!!」


 叫びが爆ぜた。


 結衣の身体は、骨と肉が引き剥がされるような痛みの前に跳ね、湊の胸元へと激しく倒れ込む。


 痩せた湊の鎖骨に、結衣の額がぶつかり、鈍い音が部屋に響く。


 その衝撃と同時に、湊の脳内を、焼けるような「思念」が蹂躙する。


『刺せ。……肉を貫け。……そうでなければ、二度と戻れない』


『縒り合わせろ。……皮下を這わせ、骨に触れろ。……さもなくば、死がやってくる』


 それは警告ではなく、二人が拾い、望んでしまった呪いからの、絶対的な応えだった。


 湊は、結衣の震える肩を抱き寄せ、彼女の耳元で掠れた声を絞り出した。


 その声は、湊自身のものではなく、呪いそのものの囁きのようでもあった。


「……結衣、……もう、私たちの居場所は、ここしかないのよ」


 湊は震える手で、枕元に置かれた桐箱から、一本の白骨の針を取り出した。


 それは、幼い少女の骨を削って作ったと言われる、不気味な艶を湛えた道具。


「……刺す? ……湊、本気なの? 痛いのはもう嫌だよ」


 結衣のスマホには、職場からの、罵倒に近い催促のメッセージが次々と届いている。


「責任感がない」「君の評価は最低だ」――。


 その無機質なテキストよりも、今、湊の手にある骨の針の方が、残酷なほど「自分たち」の真実を見ていた。


 湊は、結衣の胸の膨らみの下、拍動する痣に、氷のような針先を当てた。


 作家として、湊は常に「人間の剥き出しの本質」を書きたいと願っていた。


 綺麗事ではない、血を流し、泥を啜るような人間の業を。


 今、この瞬間、自分の手が、愛したはずの女の肉を裂き、骨を埋め込もうとしている。


 この痛み、この恐怖、このおぞましさ。


 これこそが、自分がずっと求めていた、虚飾を剥ぎ取った真実ではないのか。


 その狂気的な確信が、湊の腕を冷徹に、そして正確に突き動かした。


「……ぁ、……っ、……やだ、……お願い、……」


 結衣が短く悲鳴を上げ、湊のパジャマの袖を、引き千切るような勢いで掴んだ。


 針が皮膚を破り、真皮の下へと潜り込んでいく。


 ブチ、ブチ、という、繊維質の組織が破壊される嫌な音が、湊の指を通じて心臓にまで響き渡る。


 ミ、ミ、ミ、と。


 抵抗する肉の感触が、針の柄を通じて、湊の感覚神経を直接蹂躙した。


 針は、彼女の皮膚の下を、痣の拍動に沿うようにしてゆっくりと這い進む。


 まるで、二人の肉体を永遠に縫い合わせる裁縫師のように。


 続いて、湊の番だった。


 結衣は、自分に死を刻みつけた湊の瞳を見つめ、復讐するように、あるいは救いを求めるようにして針を握った。


「……いいよ、結衣。やって。……私たちを、一つにして」


 湊の痣へと針が突き立てられる。


「……ッ!!」


 暴力的なまでの「異物感」が、湊の身体を駆け抜け、視界が白く飛んだ。


 己の肉を、愛という名で武装した、この呪遺物に蹂躙される屈辱。


 けれど、針が完全に没し、互いの皮膚の下に「対の針」が収まった瞬間――。


 肺を押し潰していた圧迫感が、嘘のように、けれどあまりにも不吉な静寂と共に消え去った。


 二人は、血の混じった汗を流しながら、重なり合ったままベッドに崩れ落ちた。


 針を刺入した場所が、ドクドクと、狂ったような熱拍を繰り返している。


「……あ、……嘘みたい。痛くない。動ける。湊、……私、動けるよ」


 結衣が、震える指で自分の胸元を触りながら、掠れた声で囁く。


 それは、もはや社会人としての安堵ではなかった。


 自分を殺し続けていた職場からも、責任からも、この「痛み」が彼女を解放したのだ。プレゼンも、評価も、もうどうでもいい。


 この絶対的な痛みが、彼女の新しい世界の中心になった。


 湊は、結衣の身体の重みを全身で受け止めながら、ぼんやりと天井の木目を見つめた。


(ああ。……これが、私の新しい物語の、最初の一行だ)


 作家としての湊が、初めて「真実」を、自分の肉体を通して手に入れた瞬間だった。


 脳内に沈殿した前任者たちの記憶が、次にすべきことを、冷ややかに囁き始めた。


『呪詛行使掲示板』――。


 湊の脳裏に、網膜に、その掲示板が強制的な視覚イメージとして浮かび上がる。


 それは、現実の世界では決して辿り着けぬネットの深淵。


 そこへ辿り着かなければならないという強迫観念が、皮下の針の痛みと溶け合い、二人を「まともな世界」から永久に追放していく。


 ふと、密着した皮膚を通して伝わってくる結衣の体温が、湊の意識を現実へと引き戻した。


(……ああ。……結衣って、……こんなに、あったかかったっけ)


 かつて、中学生の頃。


 体育館の裏で初めて手を繋いだ時の、あの、指先が痺れるようなぎこちない熱。


 その熱を、今、この呪いという最悪の媒介を通して、湊は八年ぶりに再発見していた。


 倦怠という名の膜に覆われ、互いを記号としてしか認識できなくなっていた二人の間に、血と痛みが、剥き出しの「生」を呼び覚ます。


 結衣は、湊の胸元に顔を埋めたまま、小さく、嗚咽のような吐息を漏らした。


「……湊。……私、……もう、明日から会社に行けない」


 彼女の目から溢れた涙が、湊の胸の痣を濡らし、骨の針をさらに深く沈ませる。


「……ええ。……もう、私たちは、普通の人間には戻れないのよ」


 窓の外では、クリスマスの賑わいが、遠い異界の祝祭のように響いている。


 二人は、それ以上、何も言葉を交わさなかった。


 愛しているのか、それともこの呪いをもたらした相手を憎んでいるのか。


 今の二人には、その境界線さえも曖昧に溶け合っていた。


 ただ、針を通したこの不自由で、けれど逃れようのない絶対的な繋がりだけが、今の二人の世界のすべてだった。


 背後の闇の中で、市松模様の姉妹が、縒り合わせた掌をこちらに向け、満足げにクスクスと笑い続けていた。


 聖夜は終わり、呪いという名の、新しい生が幕を開ける。


 それは、二人の女が「個」を捨て、一つの歪な怪異へと綴じられていく、長い長い心中への第一歩だった。



 ◇◆◇



【File No.01224:『繭の対針まゆのついばり』にまつわる民俗学的逸話】

 出典: 『呪遺考・其の十七』(筆者不明・私家版)より抜粋


 明治三十年代、北陸地方の山間にあったとされる某村には、「比翼の蔵ひよくのくら」と呼ばれる場所があった。


 そこには、生まれながらにして余りにも深く慈しみ合い、その執着ゆえに周囲から疎まれた双子の姉妹が幽閉されていたという。


 彼女たちは、己の肉体が成長し、いつか他人の手に渡ることを死よりも恐れた。


 冬の夜、彼女たちは自らの小指を噛み切り、その骨を削り出して一対の針を作ったと伝えられている。


 彼女たちが最期に遺した言葉は、こうだ。


「心が冷えれば、骨が貫く。骨が貫けば、血が混ざる。血が混ざれば、もう二度と離れることはない」


 発見された時、二人の身体は骨の針によって一筋の糸で縫い合わされたかのように癒着しており、その皮膚の境界線はもはや判別不能であった。


 この針はその後、執着と倦怠の狭間で揺れる「二人組」の元へ、まるで意志を持っているかのように現れ続けているという。



 ◇◆◇



【File No.01225:呪遺物指定報告書:詳細】

■ 呪遺物:繭の対針まゆのついばり

【カテゴリ:共躯の呪具】

 古びた桐箱に収められた、一対の白骨の針。かつて蔵に籠もり、一人になろうとした双子の姉妹、その小指の骨を削り出したものと伝えられている。二人の皮膚の下にこの針を這わせる時、離別の恐怖は、等しい痛みの共有によって上書きされる。彼女たちは最後に微笑み、一つの肉塊となった。解く術を失った絆を、人は呪いと呼ぶ。


■ 呪法:紅綴べにつづり

【カテゴリ:自傷型・防護呪詛】

 骨の針を依代として顕現する、手を繋いだ二人の童女。彼女たちは、何者かが自分たちの境界を侵すことを許さない。その紅糸に触れる者は、縒り合わされた者たちが今日まで積み上げた全痛覚を、一瞬で味わうことになる。孤独を恐れた結末が、この惨劇である。……それでも、彼女たちは手を離すことを選ばなかった。


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