第34話 感情が還る場所

「…………」

 休憩中、私は一人で舞台の隅にまわり、誰もいない暗がりに腰を下ろした。

 照明が落ちた舞台は、まるで無音の牢獄のようで、今にも心の声が反響しそうだった。

 

「最近、調子が悪いのか?」

 唐突に聞こえた声に、振り返ると――有馬がいた。

 相変わらず表情は読めない。

 サングラス越しにこちらを見つめるその顔には、皮肉も、冗談もなく、ただ静かな気配だけがあった。

「……私に限って、そんな事があるわけないでしょ」

 思わず語気が強くなった。

 憎い相手。私と璃久を裏切った男。

 その口から“調子”なんて、軽々しく言ってほしくなかった。

 

 だけど有馬は、少しだけ首を傾けて言った。

「今の感情を演技に乗せてみろ。……それが一番、お前に似合ってる」

 呆気にとられた。

 けれど、そのまま照明係に声をかけ、舞台中央に立った。

 脚本は手に持たず、さっきの四幕の冒頭を、即興で――けれど、今の“私のまま”で演じてみた。

 言葉が出た瞬間、空気が変わった。

 張り詰めた緊張ではなく、熱のある沈黙。

 台詞と台詞のあいだに、観客が“息を呑むであろう予感”が、確かにあった。

「……これが、私」

 胸の奥に浮かんだ言葉を口にはしなかったけど、手のひらに汗がにじんできた。

 演技なのに、演技じゃない。

 ただ感情に素直になっただけで、舞台は、私に応えてくれた。

 有馬の演出は、こんなふうに、役者に“気づかせる”ものだった。

「……おかしい」

 こんなにも、人の感情を理解して……幸せな気分にする手段を知っている。

 それなのに、なぜあの時、璃久を……私を不幸のどん底に落としたのか?

 ……本当にそうだったのか?

 分からなくなってきた。

 もしかしたら、何か理由があって……。

 いや、どんな理由があったとしても、彼のせいで璃久は……。

「…………」

 それすらも……。

 まさか……。


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