第3話 再会は音もなく
「おつかれさまでした」
補助照明のスタッフの志保ちゃんが、私に冷たいお茶を渡してくれた。
まだ初夏の季節だけど、舞台裏は道具類の関係で空気が埃っぽい。ライトの光もあり、少し動くと汗ばむほどだ。
飲み物の差し入れは有難い。
「ありがとう」
私は笑って受け取る。ペットボトルの冷たい水滴が手のひらに心地よい。
午後からはまた公演がある。ここで体力を消耗してしまうと後が大変だ。
階段に座ると、彼女も隣に座ってきた。
「さすが千景さんですね。タイミングばっちりでした。一昨日別の人がそこに入ったんですけど、無理なタイミングで切り替えてくるんで、走り回っちゃって後で怒られました」
志保ちゃんは、学校を卒業してすぐに田舎から出てきたばかりで、来年は成人式という若い女の子。いつか舞台女優になるのが夢だと、目を輝かせながら話してくる。
その気持ちは良く分かる。
私も同じで、何も分からないまま劇団に入り、ずっと雑用係だった。
大変だったけど、今よりはずっとマシ。
頑張ればいつか、自分もあの場所に立てる‥‥そう信じて疑わなかった。
上へ上へと昇っていく感覚が肌で感じられて、それが最高に楽しかった。
その時はまだ知らなかった。
上へ昇るという事は、下に落ちる危険もあるということを。
高ければ高いほどに落ちた時の衝撃が大きいということを。
「‥‥‥‥で、私、コードに足をひっかけちゃって‥‥」
日々の失敗まで楽しそうに笑う彼女には言えない事。言った所で信じてはもらえない。
昔の私だったらそうだと思うから。
「それで千景さん‥‥」
「ん?」
いつになく志保ちゃんは険しい顔になった。私の脇にぴたっと近寄る。
「千景さんは‥‥知ってますか?」
「何を?」
「その‥‥有馬航生さんが‥‥映画監督に復帰したって事を」
「‥‥‥‥」
その時は、あまりにも衝撃が大き過ぎて驚く事すら忘れていた。
有馬の名前が聞こえたその瞬間、時間が止まった。
映画監督に復帰? どういう事?
この世界から完全に引退したんじゃなかったの?
彼が会見で、唯一、口にしたのは自分の出所進退を明らかにした事だけだったのに。
それすら反故にするというの?
まさか‥‥。
「‥‥千景さん?」
志保ちゃんが心配そうな顔で私を見てる。
「あの‥‥昔、千景さんが、有馬監督と問題があったって事を聞いた事があるので‥‥一応、耳にいれておいた方いいかなって」
優しい子。気を遣って、言葉を濁してくれるところが、また胸に刺さる。
でも、その優しささえ、今の私には痛すぎる。
「‥‥うん、ありがとう。教えてくれて」
気を付けたけど声が少しだけ震えた。
誤魔化すように笑ったつもりだったのに、志保ちゃんの顔がさらに曇った。
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