粋遺棄
Ethan_Works
粋遺棄
「……ごめん。痛いよね。すぐ、綺麗にするから」
僕は、床に横たわる彼女の右腕を取り、その指先に没頭していた。あまりの緊張に指先がこわばり、喉の奥からはひきつけを起こしたような、乾いた呼吸が漏れ出す。
彼女の薬指にある、小さなささくれを凝視していた。
さっきまで、この指は元気に動いていた。僕が差し出した冷えた缶ビールを受け取り、プルタブに指をかけて、小気味よい音を立てていた。その指が今は、驚くほど静かに、僕の手の中で休んでいる。
僕は指先に爪を立てる。
一思いに剥けば、彼女は目を覚まして怒るだろうか。重たそうに閉じられた彼女の睫毛は、天井のLEDライトを弾いて微かに光っている。あまりに無防備なその寝顔を汚さないよう、僕は細心の注意を払って指先を固定した。
「慎一、そんなに爪を立てちゃダメよ。皮が余計に剥けちゃう」
背後から、姉さんの静かな声が降ってきた。
振り返ると、姉さんはエプロンの紐を丁寧な手つきで結び直していた。これから夜食の支度を始めるかのような、凪いだ表情で。
姉さんは僕の横を通り過ぎ、キッチンへ向かった。
姉さんは、ステップを刻むようにして軽やかに歩いていく。並んだ黒鍵を避けて、白い鍵盤だけを正確に選ぶピアニストのような足取り。まるで見えない旋律に合わせて、無音のダンスを踊っているかのようだった。その不自然なほどにリズミカルな挙動は、静まり返った部屋の中で奇妙な躍動感を持って響く。
冷蔵庫が開く低い音、漏れ出した冷気。
それらがリビングの空気をかき混ぜる間に、姉さんの手の中で、麦茶の注がれたグラスがカランと音を鳴らした。
「……姉さん、僕……」
「わかってる。大丈夫。次はこっちの指をやってあげて」
姉さんはグラスを一口啜ってから、僕の前に屈んだ。
そして、彼女のもう片方の左手を僕の前に差し出した。その手首は驚くほどぐっぱりと、僕にすべてを委ねるように弛緩している。
姉さんの手には、いつの間にか銀色の毛抜きが握られていた。姉さんはそれを僕の掌にそっと乗せる。
「ほら、これを使って。根元から、綺麗に。彼女、ネイルとか気にするタイプだったでしょう? 明日の朝、恥ずかしい思いをさせちゃ可哀想だわ」
僕は震える手で毛抜きを受け取った。冷たい金属の感触が、手の甲に残る生暖かい湿り気を撫でていく。姉さんはそのまま、彼女の横に腰を下ろした。そして、乱れた前髪を優しく整え始める。
「見て、慎一。この角度だと、彼女、本当に幸せそう。可愛いわね」
姉さんの声には、一点の曇りもなかった。ただ、自慢のコレクションを愛でるような、純粋な観察者の響きがあった。
僕は毛抜きの先端で、白くささくれ立った皮膚を慎重に挟む。これを綺麗にすれば、すべてが元通りになる。
そんなわけがない。
彼女の心臓は、もう十分前から、その動力を永久に失っているのだから。
「さあ、慎一。いつまでもそこに座っていないで。朝が来る前に、お部屋を綺麗にしましょう」
姉さんの声は、大掃除の計画を立てる時のように快活だった。
姉さんはキッチンから、ロール状になった分厚い黒のゴミ袋を抱えて戻ってきた。それは家庭用としてはあまりに大きく、工事現場や業務用で使われるような、鋭利なものを入れても破れない特厚のタイプだった。
「……姉さん、そんな袋、いつ買ったの」
「備えよ、常に。でしょ?」
姉さんは悪戯っぽく微笑むと、袋を鮮やかな手つきで広げた。パサッ、という乾いた音が、静かなリビングに不吉に響く。姉さんは僕の横に膝をつくと、彼女の脚を迷いなく掴んだ。
「慎一、腰を持って。重いから、一気にいくわよ」
指示は簡潔で、迷いがない。
僕は吐き気を堪えながら、かつて愛した彼女の腰に手を回した。彼女は想像以上に重く、関節は僕たちの意志に反して勝手な方向へ折れ曲がる。
だが、姉さんは違った。
姉さんは、まるで何度も巨大な荷物を梱包したことがあるかのように、彼女の重心を完璧にコントロールしていた。腕を内側に折り込み、脚を最小の体積にまとめる。その動きには、一切の躊躇も、試行錯誤もなかった。
「……姉さん、どうしてそんなに上手いんだ」
思わず漏れた僕の問いに、姉さんは手を休めることなく答えた。
「あら、コツがあるのよ。人間って、死ぬとただの重い肉の塊になっちゃうから。こうして関節を内側に畳むだけで、驚くほど扱いやすくなるの。ほら、慎一も見て。もう死後硬直が始まっているわ。筋肉が固まる前に形を整えないと、後で袋に入らなくなって困るのは私たちなのよ」
姉さんは予備のビニール紐を取り出し、彼女の足首と手首を固定していく。姉さんは、鼻歌まじりに作業を続ける。彼女を袋に収め終えると、姉さんは次に彼女のハンドバッグを手に取った。
「これは燃えるゴミ。こっちの化粧品は不燃物。スマートフォンと鍵、財布……金属類は後でまとめて私が処理するから、慎一は触らなくていいわよ」
姉さんは中身をろくに確認もせず、まるで使い古した雑誌を捨てるかのように淡々と仕分け始めた。
「……姉さん、答えてくれ。おかしいよ、全部。あの歩き方も、この手際の良さも……」
僕は一気に捲し立てた。言葉にすることで、脳内の論理が確信へと変わっていく。
「さっきのステップだってそうだ。姉さんは床にあるものを、まるで見えているかのように避けていた。僕が彼女を殺したと伝えた時、姉さんは一度も驚かなかった。それは、姉さんにとってこれが日常だからじゃないのか!」
姉さんは黙っていた。否定も肯定もせず、ただ僕を見つめている。
「慎一。あなたは論理的だわ。でも、論理っていうのは、正しい前提の上にしか成り立たないのよ」
姉さんの指先が、僕の耳元に触れる。
それは、先ほどまで僕が執着していた彼女の指先よりも、はるかに温度を欠いていた。生きている人間のものとは思えないほど、凍てついている。
「ねえ、慎一。思い出して。あのささくれを剥くための毛抜き、あなたはどこから持ってきたの?」
「……それは、姉さんが渡してくれた……」
「いいえ。私は、あなたが彼女の指を執拗に弄っているのを見てから、救急箱を持ってきてあげただけよ。あなたが最初に彼女の指に爪を立てた時、私はまだキッチンにいたわ。そして、慎一。あなたが彼女を殺したというのなら、その凶器はどこにあるの?」
僕は息を呑んだ。
そうだ。僕はどうやって彼女を殺した? その感触が、記憶のどこを探しても見当たらない。
「あなたは自分が犯人だという結論を先に作って、そこに理由を後付けしているだけ。慎一。本当の答えは、もっとシンプルよ。あなたが彼女のささくれに執着したのは、罪悪感からじゃない。……それをしている間だけは、自分が何をしたか思い出さなくて済むからでしょう?」
東の空が白み始め、窓から差し込む光がリビングの惨状を無慈悲に照らし出した。
姉さんはキッチンから折り畳み式の金属製台車を持ち出し、玄関に並んだ二つの大きなボストンバッグを積み上げた。
「……行くわよ。慎一」
姉さんの言葉に従い、僕はその後に続いた。
台車が段差を越えるたび、鈍い衝撃が僕の全身を揺らす。それは僕の肩をきしませるというより、僕の存在そのものを底なしの引力で地面へと押し潰そうとする、暗い圧迫感だった。視界が小刻みに跳ね、自分の足で歩いているはずなのに、重心がどこにあるのかさえ定まらない。
集積場には、すでにいくつかのゴミ袋が置かれていた。
姉さんは台車を止めると、手慣れた動作で二つのバッグを、カラス除けのネットの下へ滑り込ませた。
「……姉さん、これで本当に、終わるの?」
「ええ、終わるわよ。すべて元通り」
姉さんはそう言って、僕の顔をじっと見つめた。
「慎一。最後に一つだけ教えて。どうして、あの子を殺したの?」
「僕は……彼女が、別れたいって言ったから……」
「そう。でも、あなたが彼女を絞めた手には、血なんて一滴もついていなかったわ。血を流していたのは、彼女じゃない。……彼女が持っていたナイフで刺された、あなたの方よ」
僕は、自分の腹部に手を当てた。そこには、昨夜からずっと感じていた重みがあった。痛みはない。ただ、そこから絶え間なく溢れ出していた生暖かい湿り気の源泉が、今はもう枯れ果てている。
「慎一、思い出して。どうして彼女の手はあんなに白くて、冷たかった?」
脳裏に、あの光景がフラッシュバックする。
陶器のような白い指。死にゆく僕の視界の中で、彼女が恐怖に凍りつき、血の気の引いた手で僕を突き放していた。
「私がリビングでステップを刻んでいたのは、血を避けるためじゃない。……あなたが床にぶちまけた、あなたの命の残滓を踏み固めないようにするためよ」
姉さんの声が、遠くで鳴る。
先ほど、姉さんが避けていた黒鍵は、僕から流れ出した、黒ずんだ血の海だったのだ。
不意に、真横から差し込んだ朝の日差しが僕を射抜いた。
集積場の影から踏み出した僕の顔を、鋭い光が分断する。光の当たった右半分は、穏やかな笑みを浮かべていた。しかし、影に沈んだ左半分は、絶望に凍りついている。
僕はゆっくりと、ゴミ集積場の横にあるカーブミラーを見た。
そこには、空になった台車を片手で引き、朝日の中を一人で歩き出す姉さんの姿だけが映っていた。台車の上にも、姉さんの隣にも、僕の姿はどこにもなかった。
「さあ、行きましょう。もう、整理は済んだわ」
姉さんは僕を振り返ることなく、ただ前を見据えて告げた。姉さんは軽やかな足取りで、集積場を後にした。コンクリートの上で、姉さんのヒールがカツ、カツ、と一定のリズムを刻む。
姉さんが去った後の集積場には、二つの黒いバッグだけが残された。
カラス除けのネットに押さえつけられ、朝日に照らされたそれは、もう二度と慎一や彼女と呼ばれることのない、ただの廃棄物として静かに横たわっていた。
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姉さんは、帰宅してすぐに手を洗った。指の間まで丁寧に、何度も。
鏡に映る自分の顔は、いつもと変わらず整っていた。
彼女を救うという選択肢は、最初から姉さんの頭にはなかった。
致命傷を負い、リビングを血で汚し続ける弟を救うという選択肢も、同様になかった。
もし救急車を呼べば、慎一は殺人未遂の被害者として助かるかもしれなかった。だが同時に、彼は一人の女性を殺害した殺人犯として裁かれることになる。姉さんの完璧な人生の図面に、そのような消えない汚れを書き込ませるわけにはいかなかった。
死にゆく弟に「ささくれ」を剥かせ、毛抜きを渡し、穏やかな対話を続けたのは、彼を愛していたからではない。彼が混乱して暴れ出し、さらに部屋を汚し、処理を難しくすることを防ぐための、最も効率的な手法に過ぎなかった。
姉さんはキッチンに向かい、一人分のコーヒーを淹れた。
リビングにはもう、一滴の血も、一粒の埃も残っていない。
「完璧だわ」
姉さんは満足げに微笑むと、一口、温かい液体を啜った。
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