ショートショート『寝言』
505号室
『寝言』
……ガチャリ…
あまり音を立てないように自宅のドアを開けた。
同棲している彼女、恵里菜を起こすわけにはいかない。
今日も仕事が長引いてしまい、こんな時間になってしまった。
溜まった疲れを洗い流すように急いでシャワーを浴びた。
歳だろうか、シャワーを浴びた後の疲れの方が大きい気がしてならない。
疲労に疲労を上塗りして何の意味があるのか、と疑問に思ったが、日々の汚れをどんどん蓄積し塗り固めるよりは遥かにマシか。と不毛な自問自答を終える頃にはもう就寝する準備は整っていた。
寝室のドアをまた静かに開ける。
2人でIKEAで買ったダブルベッドには、
既に恵里菜がすうすうと寝息を立てていた。
俺は枕元に腰掛け、恵里菜の寝顔を眺める。
なんて愛らしい寝顔だろうか…
などと普段は口にできないようなことを思いながら、見つめていると…
『ん……たけゆきぃ……』
と寝言で恵里菜が名前を呼んだ。
幸せな夢でも見ているのだろうか、
恵里菜は幸せそうにニコニコとしている。
夢の中でまで名前を呼んでくれるなんて、
なんて愛らしい彼女なんだ…と俺の心は幸せに満ち溢れ…
ることはなかった。
自己紹介が遅れた、俺の名前は谷村隆だ。
名前だけでも覚えて帰ってくれると嬉しい。
お気づきのように、俺はたけゆきではなくたかしである。
彼女が寝言で自分とは違う男の名前を呼んでいる。
辛い、切ない。
なんとも形容し難い気持ちだ。
自分の語彙力の少なさと恵里菜を呪った。
だが、落ち込むのはまだ早いのではないか?
たかだか寝言で名前を言っただけだ、こんなことで落ち込んだり疑うなんて男としての度量が知れるぞ隆。
まず名前を呼んだからといってそのたけゆきと浮気しているとは限らないじゃないか、
そもそも竹 由紀さんという女性の方かもしれない。
きっと竹さんに悩みを聞いてもらったりでもしたのだろう。
なんて素敵な女性なんだ、竹 由紀さん。
と俺がまだ見ぬ竹さんに想いを馳せていると、
『んぅ…たけゆきぃ…男らしい…愛してる……』
は?
終わったわ。
頭の中の竹さんを蹴散らして、武行が飛び込んできやがった。
確かにこれ一つで浮気の証拠とは言い難い、
もちろん言い難いが、流石に疑う一つのとっかかりとして十分すぎるほどだった。
女々しいとは思いながらも、
さすがに恵里菜と同じベッドで眠る気になれず、
リビングへ戻ろうとドアノブに手をかけたその時だった。
『しんご…ダメだよこんなところで…』
おいおいおいおい嘘だろ?
新たな乱入者の登場に手を止め、
恵里菜へと向き直った。
まさかの二枚抜きか、この女。
絶対明日になったら興信所にでも行って浮気の証拠を
『ずっとそばにいて…りょうへい…』
マジか?まさかのハットトリック。
この女一体何人と…
恐れを込めて恵里菜の顔を見つめる。
そこからはこちらが悪い夢でも見ているかのようだった。
『あっ…たかお…すごい…』
『ゆうじといられて幸せだなあ…』
『待ってよぉ…しんいち』
『その代わり幸せにしてよね、かつひこ』
『きょうすけ…強く抱きしめて…』
『あと6mmだったよ…としゆき…』
止まることを知らない男達の登場に俺は頭がおかしくなりそうだった。
さっきは自分の語彙力のなさを呪ったが、
こんな状況に置かれた気持ちを説明する言葉はまだ日本語には存在しないだろう。
そしてとしゆきはあと6mmでどうなるところだったんだ?
俺が余計なことに頭を回している間も、
あの女が止まることはなかった。
『ありがとう、けいすけ』
『かっこいいよりゅうた』
『thanks,Alexander Bennet.』
えっ
は?マジか。
ついにグローバル化の波がきた。
なぜかフルネームだし。
こいつ一体どこまで……
昔のクイズ番組のように今何人目?と聞かれても俺は答えることができないだろう。
そしてみなさん思い出して欲しい。
俺の名前はたかしである。
ここまで来てまだ俺は登場を許されていない…
同棲までしているのに…
『ん…好きよ……たけし…』
不覚にもビクッとしてしまった。
たけしかよ!紛らわしいことしやがって!
いつの間にか早く名前を呼ばれたい気持ちが生まれはじめている、いかんいかん。
俺は明日この女を興信所で調査し、別れを言い渡してやるのだ。
そう強く誓っていたところ、また恵里菜が喋りはじめた。
もう喋り出すことに違和感は覚えなくなった。
『もう…本当に好きなのはあなただけだよ…た…』
た…?たかしか?ついにたかしの登場か?
いつの間にか、次呼ばれる名前を固唾を飲んで見守ってしまっている自分がいる。
こい…こい…!!
『た……た…たくさん愛して! Alexander Bennet jr.』
息子もいってんじゃん、コイツ。
ショートショート『寝言』 505号室 @room505
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