桜吹雪が舞う夜に
@milkcat_love
第1話
叶わないと知りつつも、あの白衣の背中に、どうしようもなく憧れていた。
……私、中野桜が彼ーー
春の午後。友人の見舞いに訪れた病室の扉を開けた瞬間。
淡い光の中でカルテに目を落とすその姿を見た。
短く整えられた髪、少し疲れた横顔。
白衣の袖口から覗いた腕時計が、規則正しく時を刻んでいた。
あのときの彼は、高校生だった私にとって別の世界の人で、同世代の男の人とは全く違う雰囲気を纏っていた。
救う人で、守る人で、触れてはいけない世界の住人。
それでも、どうしようもなく惹かれた。
牧師の息子であるという彼の出自も相まって、私にはまるで彼が神様みたいに思えていた。何者にも穢されない光のような存在だった。
だから、今日。
入学式の帰り道に彼の前で言葉を吐き出したのは、
二年分の想いをようやく解き放つような瞬間だった。
「……私、先生のことが、ずっと好きでした」
結果は分かっていた。
玉砕覚悟。
だって彼は三十歳の立派な医師で、
私はようやく医学部に入学したばかりの十八歳。
同じ白衣を目指しても、
背中の距離はあまりに遠い。
それでも――
言わずにはいられなかった。
たとえ、振られてもいいと思った。
だって、あの日からずっと、
私の心は彼の背中を追いかけていたのだから。
✴︎
彼と初めて出会ったのは、高校の友人であった、理緒の病室だった。
高校に入ってから体調を崩しがちになった友人は、またしても入院していた。
入院先である
「あぁ、理緒ちゃんの友達?」
顔を上げ、淡々とした声で言う。
「初めまして。循環器内科、医師の御崎日向です」
……綺麗な人だ、と思った。
端正な顔立ちに、無駄のない仕草。
中高一貫の女子校育ちの私にとって、「男の人を綺麗だ」と感じたのは、生まれて初めてのことだった。
だが同時に、冷たい水面のような無表情さと、必要以上に踏み込ませない空気を纏っていて。
その時は、ただ「綺麗だけど、近寄りがたい人」という印象でしかなかった。
ーーそれが後に、私の人生を大きく変える人になるなんて、その時は想像もしていなかった。
その数分後。
友人が苦しそうに咳き込み、酸素マスクをずらしてしまったときだった。
慌てる私の横で、彼はすぐに手を伸ばし、落ち着いた声で言った。
「大丈夫。深呼吸して。ほら、ゆっくり」
その声音は驚くほど柔らかく、友人の小さな手を支えながら微かに笑った。
その笑顔を見た瞬間、胸の奥が熱くなった。
ーーさっきまで冷たいと思った人が、こんなふうに優しく笑うなんて。
初めて触れたその一面が、心のどこかに焼きついて離れなかった。
しばらくのあいだ、一緒に過ごす時間が重なるごとに、私は気づいてしまった。
ーーもう、彼に惹かれる自分を抑えられなくなっていたことに。
ベッドサイドの静かな時間。
理緒が眠ったあと、ふとした拍子に彼と二人きりになることがあった。
無言が怖くて、思わず口を開いた。
「先生の親って、教会の、牧師さんなんですか?……なんか、すごいですね」
それは理緒からこの間、聞いたことだった。
彼は一瞬驚いたように瞬き、それから小さく頷いた。
「……そう。まぁ、俺にとっては普通の家庭だったけど」
会話が途切れるのが惜しくて、次の言葉を探す。
「先生は、どんな本を読むんですか?」
「本?」
少し考え込んでから、彼は苦笑した。
「専門書ばっかりだよ。あとは……音楽の本とか、哲学書を少し」
なんだか意外で、胸の奥がきゅっとなる。
「じゃあ……どうして、医師になろうと思ったんですか?」
その問いには、彼はしばらく黙ってしまった。
沈黙が重く落ちる。答えてくれないのかと思った時、低く静かな声が返ってきた。
「……誰かの痛みに、手を伸ばせる人間になりたかったから」
その言葉の強さに、胸が熱くなった。
気づけば、最後にぽつりと聞いていた。
「……恋人は、いますか?」
自分でも驚くほど小さな声。
彼は逃げるように視線を逸らし、窓の外の景色を見つめたまま答えた。
「いないよ」
それだけの言葉なのに、心臓が跳ねるのを抑えられなかった。
その瞬間、彼が少しだけ近くなった気がした。
けれど同時に、心の奥底では分かっていた。
この想いが実ることなんて、きっとない。
彼の瞳に映る私は、どこまで行っても未熟な子供でしかない。
診察の合間に軽く頭を撫でられたときも、胸が熱くなるのと同時に、(あぁ、やっぱり子供扱いなんだ……)と、寂しさが胸を締めつけた。
だから、せめて。
恋は報われなくてもいい。
彼に振り向かれなくてもいい。
それでもいつか、彼のようになりたい。
彼のように、人の痛みに寄り添って、癒せる存在でありたい。
ーーそう願って、ここまで歩いてきたのだ。
だから、彼に抱きしめられた時、本当に混乱した。
頭が真っ白になって、どうしていいか分からなかった。
「……先生?……待って。どうして……?」
気づけば、震える声で問いかけていた。
腕の中で、彼の体温が揺るがない。
先生は少し間を置き、低く吐き出すように答えた。
「……もう、抑えられなかった」
その声は、震えている気がした。
「好きなんだ。お前のことが」
彼の一言に、胸が大きく跳ねる。
理屈も年齢差も、大人と子供の境界も、一瞬で吹き飛んでしまった。
(……嬉しい。嬉しい……!)
溢れ出す喜びに、足が震える。
呼吸の仕方を忘れそうになりながら、ただ彼の胸に顔を押し付けるしかなかった。
ーーずっと夢みたいに思ってきた瞬間が、ついに訪れてしまったのだ。
その事実に、ただ心ごと飲み込まれていった。
桜吹雪が舞う夜に @milkcat_love
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