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第1話 ハイゼロ

灰のない明日へ

私たちは、闘争、論争より保護を目的に、灰による呼吸器・精神被害の“予防”を優先します。——灰ゼロ会議


新宿の大通りは、古い写真の中みたいだった。布の横断幕、ヘルメット、雨合羽。雨上がりのアスファルトは生ぬるい匂いを吐き、濡れたビラが靴に貼りついて黒いインクが汗でにじむ。ドローンのファンが低く回り、バスの圧縮空気がため息みたいに抜けた。


「JPMCを解体せよ!」

『ハイゼロ! ハイゼロ!』

「無差別的なテロ行為を許すな!」

「灰のない明日へ!」

『『灰のない明日へ!!』』

『『ハイゼロ!ハイゼロ!ハイゼロ!』』


新宿の交差点の中央には古いヘルメットとゲバ棒。歩道側はスマホの群れ。二つの時代が同じ列に混ざり、赤と白の旗が湿度で重く揺れる。


低いサイレン。列の先頭がわずかに緩んだところへ、青白い外套の部隊が滑り込む。胸のエンブレムは《ANSWERER》。薄手の外套の袖口から白い小銃がのぞき、隊列は交差点に一本の線を引いた。都市の音が一拍だけ黙る。


「前列、ピン——射出」


乾いた閃光。光の針が最前列の膝元に刺さり、足が路面に吸い付く。二列目が押し、三列目が押し、押し波が詰まってスマホの画面だけが正義の顔で瞬いた。


「やつは?」

「まだ視認できません」

『ちっ…隠れやがって。おい!隊列維持!位相を安定させろ…』

「はい!」「承知しました!」「了解」「…」


指揮官の命令に各々の返事を返す隊員たち。

呼吸をひとつ巻き戻し、平熱に合わせ直した。


長方形の光壁が前面に立ち、左端の隊員の手から細い光紐が伸びる。手首に絡んだ者から順に、デモの列から引きはがされていく。


「撮るなよ!」

「押すな、倒れる!」

「なにこれ、エグ……」

「気色悪っ」

「うわ…」


歩道の“もう一つの時代”は笑って撮る。ジャーナリズムではない。無関心の好奇心だけが増幅する。ドローンが俯瞰し、白い線と赤白の旗を切り分けた。


「エコー、エコー。八谷、聞こえるか」

『……あぁ』

「押し返せ。残業はなしだ」

『わかった』


八谷は頬のこけた四十代前半の容姿をしている。ボサ髪、目の下のクマ。煤がこびり付いた白い外套。襟に口を寄せるだけで命令は隊全体に行き渡る。ポケットの中に手をやると、カラカラと角が欠けた音が立っていた。


「前列、シールド——同位相で一気に押せ」


一語で前列の小刻みな足音が“押し波”になり、デモ隊が押し返す。

引き下がる列の間から若い男がゲバ棒を突き出して飛び出すが、光紐に絡め取られ、歩道へ滑った。合図みたいに数千の列が霧のように解け始める。


「逃げろ!」

「実力行使だろ!!」

「ごめんなさい!」

「たたかえよ!」

「こんなの聞いてねーよ!!」


連帯はない。列は良心と恐怖の比率で割れ、それぞれの足が勝手に進路を選んだ。


——その時。


列の中央、古びたヘルメットの男が膝を折り、咽び泣くような咳を喉奥から低く鳴らした。途端に背中が波打ち、ジャンパーの縫い目が内側から裂けた。

皮膚の下で白いものが膨らみ、肩から“長い手”が二本、ギチギチと音を立てて伸びる。脚は四本に割れ、付け根で尾がうねる。頭は綺麗な楕円、顔の位置には棘みたいな嘴。ぬめりの白、長い四肢、トカゲめいた尾——全高三メートル。“人”の記号を静かに捨てた形。


「——異形!」

「出たぞ!」

「まじかよ…」


白い外套たちの動揺。異形の周囲四、五人にも細い白筋が走り、肩から甲殻めいた肢が生え始める。同じ角度で首が傾ぐ。連鎖する異形の群れ。


「後退!」

「パルスで足止め!」

「はい!」

「周囲にもレギオン化の影響を確認…」

「マニュアル通りに行くぞ」


若い隊員が小銃を構え、白い衝撃波を撃つ。牙の異形が硬直し、周囲の人間ごと揺れた。遠くのベビーカーが軋み、誰かが転び、誰かが引き上げる。——パルスのせいじゃない。混沌は自重で崩れる。


硬直が切れる。異形の長い腕が“直線跳躍”。槍みたいな嘴が盾の前面に突き立ち、黒い素子が滲むように広がる。束の間、構えていた隊員の肩ごと貫き、重い音で倒れた。


続けて、白い嘴から直径十センチほどの半透明ゼリーが数十、数百と扇状に散る。最前列まで直線距離15m。盾を貫いた粒は肉に入るとスクリューみたいに回り、内側を泳いで止まらない。鈍い声。何人かがその場で膝を抜いた。散った粒は野次馬にも届き、自転車が倒れ、悲鳴が二拍遅れて溢れる。


「八谷隊長!一般人にも被害が!」

「装備、薄い! 応援を!」

「タスク外だろっ…こんなの」

「助けてぇ!」

『黙れ。隊列、組み直せ!』


押し波は引き波に変わり、白い外套たちはじわじわ後退する。魔学武装は“人”を止めるには優秀でも、“異形”相手には手順が足りない。加えて今日の部隊には経験が欠けている。


『エコー、エコー。異形確認。おそらくLv4に近い。至急応援を』

「了解。応援を手配した。20分で到着予定だ」

『おい。それじゃ遅すぎる。一般人にも被害が出てんだぞ…?』

「ああ…確認している。…だが一般人の保護は依頼に入っていない」

『伊川…。現場のことも少しは考えろ。内勤になって忘れちまったか…?』

「八谷。タスクはタスクだ。20分後だ。それまでは現場で対処してくれ」

『…っ』


終わり際に八谷が舌打ちした。少しうなだれるように右手を懐に差し込み刀身のない柄を取り出す。

薄黒い染みのような鉄片。目立たないそれが、この街で数十年生き延びた古道具だ。


「——光刃、生成」


かすかな唸り。柄から淡い光が刃を結ぶ。周囲の若手隊員たちが息を呑む。


「刀身なしで……」

「マニュアル外だ——」 

「隊長!規則違反です…!戦闘許可は降りていません!」

『マニュアル?規則…?。そんなもんは箱入りに教える紙だ。現場は、生き物だ』


八谷の刀身のない柄からは光子で構成された刃が具象化している。JPMC(Japan Private Military Companies)では物質の具象化は推奨していない。それは精神の負担が大きく異形化の閾値を超えるリスクが増えるからだ。


異形との距離、十五メートル。八谷は一歩半だけ進み、右足を閂のように止める。異形の長い肢が一直線に伸びてきた瞬間、刃を“置く”ように振る。先端が空中で“切れて”落ちた。レーザーで焼いたみたいな滑らかな断面。白い巨体が「ギィィ! ギッギッ!」と軋む。


後方の異形——白濁した目の人型——が三体、四体、同じ角度で跳躍。盾の側面に貼り付く。側圧。きしみ。列がよろめき、転倒の連鎖が始まる。


盾の隙間から若い隊員が顔を出し、小銃を異形へ——のはずだった。

敵意に気付いた異形が隊員に尾を走らせた、それは隊員の手元を絡めとり、9m左奥の別列の中心に味方ごと飛び込んだ。引き金が鳴る。誤拘束の光が味方の脚にまとわり、身動きが封じられていく。


「解除!解除っ!!」

「オッ……オッ……ン…っ」

「あ"あ"あ"!!」

「どうやって解除するんだよ!」


“正しさ”が“危うさ”に裏返る瞬間。システムは味方にも平等だ。状況への適応が求められる現場で、マニュアル対応しかできないことは致命的だ。


一方、前列の女性隊員は異形との距離を詰めながら、腹で呼吸を整えた。

「化物め…。殺してやる…!」


女性隊員が三歩踏み込んだとき、異形は顔を横に流した。彼女と正面で目が噛み合う。


「やめろ!工藤!」

「マニュアルに従え!」

『馬鹿が…』


周囲の声掛けは彼女には聞こえなかった。

異形、12mの距離で直線跳躍。空気が裂ける音。彼女は盾を前面に起こすが、嘴が盾の縁を滑り、至近三十センチまで迫る。


「——えっ?」


嘴が盾の縁を弾き、そのまま下腹部に滑り込んだ。布の裂ける乾いた音。工藤の喉から空気がひっくり返る。


瞬間、腹が内側から吸い上げられるように膨む。臍の下で脈動が一度、二度。冷たいものが脊柱沿いに逆流し、皮膚が脈打つように首筋まで一気に駆け上がる。


「っ……は、ぁ——」


背の内側で何かが泡立つ。外套の生地が背中側から音もなく溶け, 黒い素子が肩甲骨のあたりから滲み出て路面へ糸のように落ちた。


「いやっ…!やめて!いゃ……」

雨上がりの匂いに、金属の生ぬるい臭気が混ざる。彼女は隊列に向かって振り向いた。その目はうすら涙を浮かべ、状況を飲み込めてい様子だった。


「工藤!下がれ!」

「ピン——…。出ません!位相、乱れています!」

「パルス準備!」「装填まで時間かかりますよ!」

「あぁ……」


隊員達は必死に小銃で応戦しようとするが、位相が乱れ誰も具体的な行動を起こせないでいた。


異形の嘴は深くはない。だが彼女に流し込まれた魔素が腹腔を押し広げ、背中側だけが先に“融けて”いく。


「や…おねっ…し…」

彼女は片膝を落とし、盾を残像みたいに支えたまま、すぐさまその場に倒れ込み、もう起き上がらなかった。


「ギィィ!ギッ…!ギッ…!ギギー!!」


喜びにも似た咆哮が新宿の交差点に響く。もう一つの時代とドローン、その場にいたものたちが、その光景をまざまざと記録に焼き付けた。


『うるさいんだよ。化け物』

「ギッ!ギッ!ギッー?」


八谷は一歩、刃を低く滑らせながら踏み出す。直線跳躍の溜め——


異形も彼に気付き、すぐさま臨戦態勢に入る。躊躇いなく嘴から半透明のゼリーを彼に向かって射出した。


『っ…!』

超高速な刀捌きでそれらを切り落とす。八谷は射出されたものを防ぐことで精一杯であった。八谷は優れた隊員だが、複数の事柄を処理することは得意ではない。


「隊長…!!負傷者が!」

「応援まだですかっ!」

「逃げろ!」

「痛いよぉ…」

「足っ!足っ…」


隊列はすでに直線から曲線に変わっていた。

異形は得意げにギィギィと笑う。間を置かず、それを空中に置いた。


『ちっ…やるしかねぇか——』


その刹那、空気に白い軌跡がひと筆引かれた。

沈黙、二拍。

音はなかった。ただ“線”だけが走る。


異形の楕円頭が、きれいに半分になった。胴が膝上で裂け、四本の脚が崩れ、半透明のゼリーが空中でぴたりと止まる。重力が思い出されたみたいに体もろとも粉になって落ち、飛沫は出なかった。


粉の向こうで、黒い柄のない“何か”を右手に収める青年が一歩だけ退く。白い外套。

青年は軽く頭を下げた。

「遅れてすみません。八谷さん」


八谷は一拍だけ黙り、口角をわずかに上げる。

「——はっ。15分前倒しだよ」


青年は静かに微笑んだ。何か言いかけたが、現場は終わらせなかった。後方の異形五体が一斉に跳んだ。青年は刃を起こさない。半歩引き、“来る線”の終点に刃の背を置く。異形は同時に膝を抜き、白い躯が穏やかに崩れた。


『右導線、民間退避。担架急げ。粉塵は吸うな』

「了解!」

「一般人救護!急げ」

「はい!」


母親が子の背をさすりながら、白い外套たちに何度もありがとうと言う。隊員は頷いた。


ドローンの影が斜めに揺れ、スマホの小さな画面に“現実”が流れ込む。粉は水と混ざり排水溝へ細い筋を作って消えていく——


八谷は刃を消し、襟に口を寄せた。

『救護優先だ。まだ異形が出るかもしれん…レギオン化の兆候が見られたら捕縛しろ』


返事が飛び交う。サイレンが遠くで膨らみ、転がったペットボトルが乾いた音で止まった。


事態が収束した。新宿は、何事もなかった顔に戻りはじめる。

けれど、灰は元には戻らない。

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