融ける花
川瀬えいみ
第1話
藤原姫華を花にたとえるなら、マドンナリリー。聖母マリアに捧げられた、純潔の象徴たる花だ。蜜をしたたらせた雌しべを、濃く鮮やかな黄色の花粉をまとった複数の雄しべが取り囲み、その艶めかしい状況を白い花びらたちが我が身を投げだして必死に覆い隠している白い百合。
美貌の華やかさゆえに、まれに姫華を薔薇にたとえる人もいるけれど、その場合も、引き合いに出されるのは紅薔薇や黒薔薇ではなく白い薔薇だ。乾いた血の色が混じった黄色の花粉を、たくさんの白い花びらがひた隠しに隠そうとしているアルバ・マキシマのような。アルバ・マキシマ――『最高の司祭白衣』だなんて、薔薇の命名者のセンスは絶妙ね。
そう。姫華は、すべてが純白な人間じゃない。完全な白じゃない。石膏で作られた彫像や氷雪で作られた像のように白だけでできている人間が存在するとして、そんなものに人の心は惹きつけられるかしら? 人形偏愛症のピュグマリオンだって、自身の心と身体を真に満足させるには、彼の愛する人形が命を得る必要があったのよ。
けれど、まあ、心配は無用。
藤原姫華は生きている。体温がある。その身体は動く。言葉も解す。もちろん美しい。姫華は解語の花だ。だから誰もが惹きつけられるのよ。残念なことに、姫華は美しすぎて、誰もが遠くから憧憬の眼差しを投じることしかできない存在だけれども。決して手の届かぬ高みに鎮座する崇拝の対象として存在しているのだけれども。
私も最初は、いわゆる端役の一人だった。華やかで艶やかな姫華の姿を遠いところから盗み見るのが精一杯の“その他大勢”の更に後方に置かれているごみ箱のような女。モブにもなれない背景の一部。もし写真を撮ることになったなら、確実に背景透明化機能で消される余計物だった。今でこそ、私は、美しい姫華の唯一の友人だけれどね。
私が、姫華を遠巻きに羨望する“その他大勢(の背景のごみ箱)”から、手でも言葉ででも姫華に触れることのできる友人に出世できた理由。それは、私の際立った醜さにあった。
平凡で目立たない醜さじゃない。積極的に能動的に醜いの。私は、小学校三年生の頃には既に、自分が恋の当事者になることを諦めていた。それほどまでに美しさとは逆の方向に振り切っていた私の個性が、私に僥倖をもたらしたのよ。
今、私は、姫華に、ただ一人の友人として認知されている。姫華だけでなく、姫華を知るすべての人々にも。
ありきたりな美少女、美しくも醜くもない無難な少女、少しばかり造作に難がある少女たちは、気後れして、姫華に近寄ることができない。そんな少女たちは、どうしたって、姫華の引き立て役にしかなれない。姫華と一緒にいると、姫華の隣りにいる自分が他者の目にどう映り、どう思われるかがわかるから、彼女等は姫華を遠巻きにしていることしかできないの。
そんな事情は、男でも変わらない。若い男は、その退屈な若さに因って姫華には不釣り合い。若さゆえの無分別で思い上がっている男は、根拠のない矜持のために姫華の下僕になりきれず、多少なりと分別のある男は、自分が姫華の取り巻きの一角を成す資格も持ち合わせていないことを自覚できてしまう。姫華の父親くらいの年齢の男なら、姫華の隣りにいても、不自然な見劣りの印象は生じないかもしれないけれど、その場合も、美しさより醜さが勝っている方がいいだろうと、私は思うわ。
何にせよ、この私ほど、姫華の隣りにいることが自然でふさわしい人間はいない。
画家の中の画家ベラスケスが描いた『ラス・メニーナス』を知っている? 華奢で腺病質なマルガリータ王女と同じ画布の中に、王女の倍も恰幅のいい矮人の少女が描かれている。意志的に強く引き結ばれた唇と、何を怖れるふうもなくまっすぐに前方に投じられた少女の視線。可憐な王女を、美しくないことで引き立てるために飼われている奴隷の少女の堂々たる存在感。
美しさと対等に渡り合えるのは、強さでも賢さでもない。美しさの対語だけなのよ。姫華の美しさに勝ることはあっても劣ることはない醜さという強烈な個性を持つ私だけが、姫華に劣らない存在感を、彼女の隣りで示すことができるわけ。
そうね。姫華の家庭は、まさにラス・メニーナスだった。
あの絵の通り、姫華の両親は、小さな鏡に薄ぼんやりと映る国王夫妻。その存在感は、でっぷり太った奴隷少女が作る高慢な顎の影にも及ばない。
姫華の実父は、仕立てのいいスーツを着ている分には、それなりの見栄えを保つことができるけれど、部屋着に着替えた途端、ただのしょぼくれた中年になるような男だ。そもそも姫華に似ていないという一事において、彼は魅力に欠けている。
姫華の実母は、ほどほどの美人。ただし、この美人という評価は、外見が大きく歪んでいない、甚だしく崩れていないという程度の意味をしか持っていない。グレーのスーツをきっちり着こなす姿にふさわしく合理的で効率重視。しかも頑迷な成果主義者。惹かれる点が皆無だ。生きている一人の人間としても、一人の女としても、全く魅力が感じられない。その上、彼女は三十歳の時に姫華を産んだ。自ら光を放つような若々しい美貌の姫華と並び立つことは不可能だ。世代が違う。
だから――姫華のそばにいられるのは私だけ。虚心に、彼女の美しさの価値を認められる私だけ。私は、くだらない大人たちが築いた社会の外にある私だけの純粋な尺度で、余計な邪心も体裁も忖度もなく姫華の美を測ることができる、世界にただ一人の人間だから。
初めて姫華と言葉を交わした時のことは、突然クーラーが切れた真夏の夜の夢のようにねっとりと私の脳になばりついている。
私と姫華は、お嬢様学校として有名な壱葉学園の中等部からのクラスメイトだった。
私たちが中学二年の夏休み、市内にある中学校の生徒代表を集めて、リーダーミーティングなるイベントが開催された。公立私立の別なく各校各クラスから数名ずつ代表を出し、二泊三日のグループワークを行なう――という催しよ。開催目的は各校の交流とリーダーの育成ということになっていたけど、実際のところ、あれは市の教育予算消化のためのイベントだったんでしょうね。会場は有名避暑地のお洒落なホテルで、参加者全員に個室があてがわれ、食事もテーブルマナー習得という名目で結構なレベルのフレンチが供されたもの。
イベント二日目の昼食後の自由時間、私は自然な涼しさを求めて、ホテルを囲むハルニレの林の散策に出た。
林の奥には先客が一人いて、それが姫華だった。彼女は、一本の木の根本に立ち、じっと自分の足元を見詰めていた。
私なんかが声を掛けられる相手ではないから、音を立てないように注意して、私は彼女の視線の先を追ったのよ。
彼女が嘲るように見詰めていたのは、光が届かず薄暗く湿った林床に咲く一輪のマムシグサの花だった。
マムシグサは人を死に至らしめることもある毒草だ。既に枯れ始めていて、花の色は黒に近い紫。蓋のある食虫植物のような花の形は、見るからに毒々しく、禍々しい。
白百合のような姫華は、やがて、白いエジプト綿のミディ丈のスカートを二本の指でつまみ、水色のリボンのついたサンダルでその花を踏みにじり始めた。
「ぞっとするほど醜い」
そんな呟きを繰り返しながら、端正な貌を美しく歪めて。
私は、ハルニレの木の陰から、半ば呆然と、いつしかうっとりと、その様に見入っていた。
日陰の微風に刺激されたハルニレの葉と枝が口さがない噂話を始め、それをきっかけに私たちの視線が出会う。私は、その時に知ったのよ。何もかもが美しい姫華が持つ、唯一の醜いもの。それが彼女の眼差しだということを。
彼女は彼女が映る鏡だけを見ていることはできない。彼女が生きている世界には醜いものばかりが存在する。彼女の瞳は、無数の醜いものを見なければならない。彼女の眼差しが醜いのは自然の理というものだ。
その時から、私と姫華は親友同士になったの。
どんなに抵抗しても、磁石のN極同士、S極同士は互いに引き合えないでしょう? それと同じように、どんなに抵抗しても、磁石のN極とS極は互いに引き合ってしまう。これも自然の理というものね
際立って醜い私は、残念ながら阿呆ではなかった。だから私はすぐに、姫華の友人としての自分の役どころを正しく理解した。
凡百の徒と交わることのできない姫華は、私になら近付くことができる。触れることも、言葉を交わすこともできる。「ぞっとするほど醜い」と言って、私の手を踏みつけてもくれる。
私という醜いものを蔑み痛めつけることで、姫華は、私以外の醜いものを見た事実を帳消しにできていたのだと思う。
姫華にとって、私は、世界中の醜いものの象徴。その私を嫌悪しいたぶることで、姫華は、他の醜いものたちを憎まずに済む。そうすることで、自らの美しさ清らかさを守ることができ、姫華の美は更に増す。という理屈。
姫華には、私だけが必要な人間だった。姫華が美しい姫華であるために。
誰よりも美しい姫華は、中途半端に美しい人間や中途半端に醜い人間を必要とせず、拒否した。その代償として、姫華自身も私以外のすべての人間から拒否されることになった。
中途半端を嫌い、絶対を望む姫華には、私の他に友はいない。
美しすぎるために学園の生徒たちから避けられ、教師たちも姫華を腫れ物扱い。結局、姫華は学校に行くのをやめてしまった。文字通り、深窓の姫君になったわけだ。
そこで、僅かでも姫君の社会性を保つために、姫華のご学友に選ばれたのが、この私。
学園一醜く、学園一優秀で、学園一品行方正。私は、読書量も尋常ではなく、教養も情報量もお嬢様学校の教師たちのそれを軽く凌駕していた。つまり、同い年の友人兼家庭教師のようなものね。
美しすぎる姫華の扱いに困り果てていた彼女の両親は、私を信頼し、勉学の世話だけでなく、生活全般の指導者の役目までをも、私に委ねた。
世間知らずの姫華が、路上で違法販売されていた、せいぜい数百円の手作りアクセサリーに一ヶ月の小遣いをすべて渡したことを知って以来、彼等は姫華の手元金の管理も私に任せるようになった。
だからといって、それらをくすねるようなことを、私はしなかったわよ? 私は、姫華のものを姫華のために使った。それが私の仕事で、姫華に尽くす仕事は、私にとってとても楽しいものだった。
私は、姫華が身にまとう衣装や装飾品を選ぶ。姫華をより美しく見せる方法も、私は学んだ。
え? その知識と技術を自分を飾るために用いればよかったのに――ですって?
何を言うの。そんな考えは馬鹿げてる。
私という存在の価値は、誰もが憐れみを覚えるほどの醜さにあるのに、それを自ら損なってどうするの。それこそ、本末転倒というものよ。
私は、姫華を孤高の存在にするために、ひたすら努めた。
醜い大人の代表である両親を完全に退ける手段を編み出し、それを姫華に教え込んだのも、この私よ。
「両親は、私が美しく成熟することを怖れて、私に日々の食事を与えなかったの。家の門を出ると、そこは邪悪な狼や狡猾な狐が闊歩する危険な世界だという嘘も吹き込まれたわ。日の当たる場所に出ると、陽光に焼かれると脅されたこともある」
という台詞を、私は姫華に暗記させた。その文言をそらんじてから、
「――というようなことを、しかるべきところに、涙ながらに訴えれば、あなた方は、無垢で繊細な心を持つ一人娘を虐待した親として罰せられるのよ」
と冷ややかに告げることを、私は姫華に教え込んだ。そして実行させた。
それだけのことで、私は姫華の両親の動きを封じることができたわ。もともと彼等はネグレクト気味だったし、その程度のことでは私の良心は毫も痛まなかった。
親子の距離は広がったけど、そのやり方が姫華は気に入ったようだった。
姫華は女王様気質のペルシャ猫。彼女の両親より私の方が姫華の喉をごろごろ鳴らす術に長けている。
姫華は、血の繋がった肉親より、私を信じ、私を必要とするようになった。
ええ。館を出て、より多くの友を持ち社会に馴染むための努力をすべきだと主張する両親を、姫華が鬱陶しがるように誘導したことは認めるわ。だって、そうすることが、姫華の心に生じる不安を消し去り、姫華の心を安んじさせる最も容易で適切な手立てだったから。
姫華は高慢なお姫様。お姫様は、俗世俗人の苦しみなど知らなくていいのよ。
「姫華は彼等の実の娘。しかも姫華は奇跡のように美しい。多少の我儘を言っても、彼等が姫華を見捨てることはないわ。もし見捨てることがあったら、それは彼等が非人間的で、獣の心をしか持たない親たちだったというだけのことよ」と、私は姫華に繰り返し説いた。
「そう……そうよね」
最初のうちは、自分に言い聞かせるように私の言に頷いていた姫華は、いつからか、やわらかく、ごく自然に微笑み頷くようになった。
とはいえ、白百合のように無垢なお姫様にも、それなりの知能と思考力と欲望はあるわけで。
姫華を盲目的に私だけを信じるお姫様にするには、それなりの時間と手間が必要だった。犬の躾と同じよ。反復が必要なの。犬と違って、姫華には疑り深いところがあったけど。
他のことはともかく、姫華は、「あなたは誰よりも美しい」という私の言葉に関してだけは、その証左を求めることをやめなかった。私の言葉が真実なのであれば、私以外にも賛美者がいるはずだと、可愛らしい屁理屈を唱えてね。
その疑念こそが、姫華の一個の人間としての尊厳の証だったかもしれない。姫華は、犬よりは高度な思考力を有していたということね。
私の言葉を無条件に信じてもらえないのは悲しいことではあったけれど、姫華の訴えにも一理ある。姫華の美の崇拝者賛美者が多いにこしたことはない。多くの人間の口から賛美の言葉を捧げられ、姫華は一層美しくなるだろう。姫華の美貌に磨きがかかることは、彼女の唯一の友である私の自尊心をくすぐり満たすことでもある。
そこで、私は、姫華のために私以外の賛美者を作ることにした。名づけて、藤原姫華賛美者創出計画。
その計画遂行のため、姫華には着飾って舞踏会に行ってもらうことにした。
市井の学校に通う一般の生徒学生たちは姫華の美しさに怖じけて尻込みするばかりでも、自分に自信のある高貴な王子様や権力者たちなら、姫華ほどの美貌の持ち主に会っても、気後れして遠巻きにすることはないでしょう。と、私は姫華に言った。
その計画が相当嬉しかったみたい。姫華は私の提案に疑念を抱いた様子もなく、嫣然と微笑んだ。
「そうね。上流社会の男たちなら、私と親交を結ぶことを誇らしく思うでしょう」
姫華はそれで得心してくれた。
まあ、そうはいっても、姫華は、文字通り、深窓の箱入り娘。“箱”の外に出ることに怯える気持ちはあるようだった。でも、多くの賛美者崇拝者たちを狩るには、武器を持って、野外に出なくちゃあね。
「大丈夫。私が、姫華に似合うドレスと宝石を選び、髪を結い、化粧をしてあげる。所作や会話術、ダンスも教えてあげる」
姫華は、私の「大丈夫」を珪藻土が水を吸い込むようにすんなり受け入れた。姫華の父母の同意を取りつけるのは、お姫様当人ほど簡単ではなかったけれど。
「大丈夫なの?」
私と姫華の計画を知った姫華の両親が、金色の扉の隙間から心配顔を覗かせてくる。しばらく見ぬまに年老いた二人は、まるで私の機嫌を窺うように卑屈な顔つきを、半ば以上扉の陰に隠していた。
まあね。私はこの世界で唯一、高貴で我儘なお姫様を意のままに操ることのできる人間だもの。へたをすると、彼等は、姫華自身よりも私に対して、より大きな畏怖の念を抱くようになっていたのかもしれない。
だからといって、仮にも姫華の実の親に対して非礼を働くような真似を、私はしないわよ。私は丁寧な言葉と声で、彼等の不安を払拭してやった。
「ご安心ください。お父上様、お母上様。私が万事つつがなく取り計らいます。ですから、お父上様方は、安心してご旅行に出てくださいな」
私からねっとりした引導を渡された彼等は、おそらく諦めの境地に近い心持ちで長い旅に旅立っていった。
館の鍵と宝物庫の扉を開ける呪文を、私に託して。彼等は二度と娘の許に帰るつもりはないようだった。その覚悟は、彼等にとっても姫華にとっても幸せな選択だろうと、私は思ったわ。
舞踏会当日、私の準備は万端整っていたけれど、肝心の姫華は万全とは言い難い状況だった。
「姫華。馬車が来たようよ」
ガラスの靴を履いた姫華の身体がぐらりと揺れる。それも当然。彼女はここのところずっと黒曜石色のマットレスに横になっていたのだから。自分の足と脚を用いて立ち歩くのは本当に久し振りのことだもの。
ある頃まで、中国では、農作業に不向きな小さな足が女性の高貴の証とされ、男たちに好まれていたそうだ。してみると、私という支えがなければ、自力で立ち歩くことにも難がある姫華こそ、労働とは無縁の真実の姫君ということになる。エンドウ豆の上に寝たお姫様以上に高貴な姫君だ。
そんな姫華のドレスには、エリザベス一世もおののくほど幅と厚みのある襞襟をつけてみた。これもまた、こまごまとした雑事をこなす下僕を常に従えている富裕な姫君は首を自由に動かす必要がないということを示す、高貴の証。二十枚の敷布団と二十枚の羽根布団の下に置かれたエンドウ豆と争うほど邪魔で不快でしょうけど、これに耐えてこそ、真の姫君というものよ。
「本当に大丈夫かしら?」
今夜が社交界初お目見えの姫華の声は、緊張と少しばかりの不安のせいで、か細く震えている。姫華は世界で最も高貴なお姫様。案じることなど何一つないというのに。
「安心して。目を閉じて、手を私に預けて。次に目を開けた時は、眩い王宮の大広間の中央よ」
姫華の白い手。皮を剥いた葡萄の実のように、にちゃりとやわらかい手が、私のかさついた手の平に置かれる。
腐った桃のようにむっとする甘い匂いが姫華の全身から立ちのぼり、周囲に撒き散らされる。
姫華はまだ不安そうだ。姫華は、私が何者なのかを、脳のどこかではわかっているから。
けれど、姫華は、わかっていることを懸命に忘れようとする。忘れきることができず、恐れおののき続ける。
マムシグサの毒に侵されて、姫華は意識朦朧。幻の下僕と半世紀もの間、大量のダニが巣食う黴臭い六畳間に引きこもっていたんだもの。姫華が、目覚めたばかりの吸血鬼のように光を怖れるのもむべなるかな。
でも、怖れることは何もないのよ。私が、これまでに一度でも、姫華を苦しめ不快にさせたことがあった? なかったでしょう? この五十年間、私は姫華を幸福にすることだけに心を砕いてきた。
目を開けたら、絶望しかない現実がある。だから、私は、「目を開けて」と姫華に告げることは永遠にしない。
目を閉じていらっしゃい。そうしている限り、あなたは世界一美しく、その突出した美しさゆえに孤独な美姫でいられる。世界一幸福な、本当のお姫様でいられる。
水晶のシャンデリアがきらめき輝く大広間、金髪碧眼の王子様、黒髪の精悍な騎士様。私は何でも作ってあげる。あなたの閉じた瞼の裏の漆黒のスクリーンの上に。
私の声と言葉に身と心を委ねていれば、あなたは自分を世界一幸せな姫君だと信じていられるのよ。未来永劫にわたって。
私の舌の甘さに侵され、麻痺し――姫華、あなたは爛熟し、融けて、古い畳の中に染み込んでいく。
いつまでも、私が一緒。私はあなたを見捨てない。私だけが本当に、あなただけを愛しているのよ。
昼も夜も忘れないで。私だけを信じていて。
私が、これまでに、あなたのためにならない振舞いをしたことがあったかしら? ただの一度もなかったわよね?
だって、私はあなた自身なんだもの。きっと、多分、おそらく。
融ける花 川瀬えいみ @kawase-eimi
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