燃え残る指輪
江渡由太郎
燃え残る指輪
夜の雨は、火災現場の焦げた匂いをまだ路地に残していた。
霊能力者・間宮響子のもとを訪れた男――三十代半ば、会社員の杉浦は、右手を包帯で覆っていた。指先から血が滲んでいる。
「……また、転んだんです。何もないところで」
杉浦は力なく笑った。笑いの直後、彼の喉がひくりと鳴る。その仕草に、響子は既視感を覚えた。“引き寄せられている”人間特有の、身体の遅れ。
「始まりは?」
「火事の日です。駅前の雑居ビル……ニュースにも出たでしょう。全焼で、死者が一人」
響子は頷いた。火元は最上階。密室に近い状況で、焼死体の手は何かを強く握ったままだったと報告されている。
杉浦はポケットから小箱を出した。中には、煤のような影を帯びたダイヤの指輪があった。石は透明なのに、光を拒むように鈍い。
「帰り道で拾いました。……なぜか、置いていけなかった」
指輪を見た瞬間、響子の視界が歪んだ。
悲鳴ではない。音にならない“圧”。
宝石の奥に、微細な刻みが見えた。文字でも模様でもない。爪で引っ掻いたような痕跡が、内側に無数に走っている。
「怪我は?」
「日常です。刃物で切る、骨折、階段から落ちる。……でも痛みより、先に来るんです。“ここだ”っていう感覚が」
杉浦は震えた。
「次は、ここが折れるって、わかるんです」
響子は指輪に触れず、低く告げた。
「これは“事故霊”じゃない。契約です」
室内の空気が冷えた。電灯が一度、瞬いた。
「火事で死んだ女性は、婚約していました。逃げ遅れた理由は、この指輪を探して戻ったから。燃える階段を、上がって」
指輪の石の中で、何かが応えた。
キィ……と、金属が歯を擦るような音。
「彼女は最後に理解した。指輪が“守る”と信じた自分が、捧げ物だったと」
響子は静かに続ける。
「この石は、持ち主の“未来の痛み”を代価に、生への執着を延命する。拾った瞬間、あなたは次の担保になった」
杉浦の顔が崩れた。
「外せば……」
「外れません。石は“選び直す”ことができる。あなたを」
響子は塩と護符を用意し、浄化の儀に入った。だが、指輪は微動だにしない。宝石の内側の刻みが、増えている。
——理解した。
「……あなた、最初の怪我は、左手の薬指でしたね」
杉浦は息を呑んだ。
「指輪は“道順”を刻む。最後は、あなたが燃える場所へ戻る」
突然、指輪が床に落ちた。
転がり、止まり、立った。
宝石がこちらを“見る”。
響子は護符を叩きつけた。衝撃で、室内の鏡が割れる。鏡片に映ったのは、焼け焦げた女の指。薬指が、欠けている。
女の声が、指輪から漏れた。
「返して。わたしの、生」
次の瞬間、杉浦の包帯が内側から裂けた。骨が音を立て、薬指が不自然な角度に折れ曲がる。彼は叫ばない。予告通りだったから。
響子は即断した。
「選び直せ」
火を点ける。それは最初は小さな炎であった。
護摩壇と呼ばれる炉の中央で護摩木(ごまぎ)と呼ばれる薪を勢いよく燃やし、不動明王の智慧を表したその炎に願い事を書いた護摩木と供物である指輪を投じる。
「“持ち主”を」
炎が吸い込まれ、指輪は一瞬、柔らかくなった。
響子は自分の薬指に、指輪を嵌めた。
室内が静まり返る。
女の気配が、満足して沈む。
杉浦は床に崩れ落ち、命は助かった。救急が来るまで、何も起きなかった。
——その夜。
響子は鏡の前に立つ。
指輪は外れない。宝石の刻みは、ひとつ増えている。
翌朝、ニュースが流れた。
昨夜、同じビルの近くで小火。原因不明。死者なし。
鏡の中で、響子の薬指が、わずかに熱を帯びた。
そして、彼女は知っている。
この指輪は、次の場所を選び終えたことを。
――(完)――
燃え残る指輪 江渡由太郎 @hiroy
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