第2話 主語のない言葉

数日後

放課後のチャイムが鳴り、教室がほどけていく。

椅子が引かれ、鞄のファスナーが開き、

誰かの笑い声が廊下へ流れていった。


篠宮ひとみは、教壇の上からその様子を見ていた。

生徒たちは自然といくつかの塊に分かれ、

中心にいる数人の動きに、周囲が合わせている。


その輪の少し外側で、

朝比奈紬は静かにノートを閉じていた。


急ぐ様子はない。

誰かと目を合わせることもない。

ただ、終わった授業を丁寧に片づけているだけだ。


――今だ。


ひとみは、迷いを振り切るように教室を降りた。


ひとみは、窓際の後ろから二番目の席に座る少女

朝比奈紬に歩み寄った。

彼女は帰宅の準備を終え、鞄を肩にかけたまま、ただじっと窓の外を眺めていた。

その横顔は

十五年前に私が最後に見送った白石莉乃の

あの冷え切った輪郭と残酷なまでに似通っている。


「朝比奈さん」


紬がゆっくりとこちらを向く。

その瞳には、教師に対する敬意も、

同年代の子供が持つような好奇心もなかった。

ただ、深い湖の底を覗き込んでいるような

感情の欠落した静寂がある。


「はい」


声は落ち着いている。

けれど、その目はどこか、身構えていた。


「少し、いいですか」


ひとみがそう言った瞬間、

教室の空気が、ほんのわずかに変わった。


中心の席にいた結城咲良が、

会話を止めるでもなく、

それでも確実に、視線だけをこちらへ向けた。


笑っていない目。


興味ではない。

警戒でもない。

値踏みに近い視線。


ひとみは、それに気づかないふりをして続けた。


ひとみは、震える指先を隠すように

プリントを差し出した。

本当は、テストのことなんてどうでもよかった。

ただ、彼女に触れたかった。

彼女がまだ「こちら側」の世界に

踏みとどまっているか

その呼吸を確認したかった。


「作文のことなんだけど」


紬の指が、鞄の持ち手をぎゅっと握る。


「はい……」


「内容が、とても整理されていました。

だからこそ、少し気になって」


言葉を選ぶ。

慎重に、慎重に。


「“特に困っていることはない”って書いてありましたよね」


紬は頷く。


「はい。ありません」


即答だった。

考える間もなく出てきた言葉。


その瞬間、

ひとみの背中に、別の視線が突き刺さる。


結城咲良。


彼女は友達と話しながら、

まるで偶然のようにこちらを見ていた。

口元には、うっすらと笑みさえ浮かべている。


――何か問題でも?


そう言っているような、余裕の表情。


ひとみは、視線を紬に戻す。


「そう。なら、よかったです」


その言葉を口にした瞬間、

胸の奥がひくりと痛んだ。


同じだ。

また、同じ言葉を使っている。


ひとみは、言葉を続けた。


「ただ、もしこれから

“困っているって言えなくなること”があったら」


紬の目が、わずかに揺れた。


「先生って、意外と過保護なんですね」


その一言で、

教室の空気がはっきりと止まった。


結城咲良の視線が、

今度は隠すことなく、まっすぐひとみに向けられる。


冷たい。

感情がないわけじゃない。

理解したうえで、距離を取る目。


咲良は、紬ではなく、ひとみを見ていた。


――この教師は、何をしようとしている?


そんな問いが、

言葉にならずに投げられてくる。


紬は、小さく頷いた。


「……ごめんなさい」


それだけ言って、鞄を持ち上げる。


「気をつけて帰ってね」


ひとみの声に、紬はもう一度だけ頷き、

教室を出ていった。


残されたのは、

まだ完全にはほどけていない空気。


教室の入り口付近から

鈴を転がすような

けれど剃刀の刃を忍ばせたような声が響いた。


振り返ると、そこには佐伯結衣が立っていた。


彼女の周りには

二人の女子生徒が侍るように付き添い、

まるで女王の退席を待つ近衛兵のようだった。

結衣は緩やかにこちらへ歩み寄ると、

私の横を通り過ぎる際、

わざとらしく紬の机に指先を這わせた。


「朝比奈さんは大丈夫ですよ、先生。彼女、一人でいるのが『趣味』みたいなものですから。私たちがいくら誘っても、自分から壁を作っちゃうんです」


結衣の言葉に、

取り巻きの二人が「そうそう」と小刻みに頷く。


すれ違いざま、

一瞬だけ、ひとみと視線が合った。


笑顔だった。

けれど、そこには一切の温度がなかった。


ひとみは、その視線を真正面から受け止める。


――来る。


理由のない確信が、胸に落ちた。


これは、ただの声かけじゃない。

クラスの均衡に、

初めて入ったひびだ。



結衣は紬を直接見ることはなかった。

ただ、私の方をじっと見つめ、

その瞳の奥にある奇妙な冷徹さを露わにする。


彼女の微笑みは完璧だった。


しかし、その背後には、

異分子を決して許さないという強固な意志

――この教室の「温度」を支配しているのは自分だという宣言が透けて見えた。


「佐伯さん。私は担任として、生徒全員の状況を把握したいだけよ」


私が努めて冷静な声を出すと、

結衣はふっと

小馬鹿にするような吐息を漏らした。


「『全員』、ですか。……先生の目には、この教室がどう見えてるんでしょうね」


結衣は私の耳元に顔を寄せ、囁いた。


「あまり特定の子に肩入れしない方がいいですよ。空気、読めない人だと思われちゃうから。……ねえ、朝比奈さんもそう思うでしょ?」


結衣の視線が初めて紬に突き刺さる。それは問いかけではなく、命令だった。


紬はプリントを握りしめたまま、うつむいた。


その指が白く震えているのを、

私は見逃さなかった。

かつての莉乃も、こうやって誰かの言葉に

目に見えない檻に

押しつぶされていったのではないか。


「……先生、もう行っていいですか」


紬の掠れた声が、私の胸を鋭く抉る。


私は彼女を救いたくて声をかけたはずなのに、

私の介入が

結衣という「支配者」の毒を呼び込み

かえって紬を孤立させていく。


十五年前と同じ

最悪の既視感が全身を駆け抜ける。


「あ、私たちも帰ろ。塾の時間だし」


結衣は満足げに身を翻すと、

軽やかな足取りで教室を去っていった。

廊下からは彼女たちの笑い声が聞こえてくる。

その声が遠ざかるにつれ、

教室の温度はさらに数度、

下がったような気がした。


残されたのは、

窓際の影に沈む紬と、

教壇の脇で立ち尽くす私だけだった。


「朝比奈さん、私は――」


「放っておいてください」


紬は私と目を合わせないまま、

逃げるように教室を飛び出していった。


一人残された教室で、私は自分の掌を見る。

じっとりと脂汗が滲んでいた。


大人になった。

教師になった。


あれから十分すぎるほどの時間を積み重ねてきたはずだった。

なのに

私はまだ

たった一人の生徒の「寂しさ」すら

どう扱うべきか分からずにいる。


――後悔だけが私を大人にした。


その言葉が、ひび割れた心の中に、

冷たく虚しく響き渡っていた。


ひとみは、教室に一人残り、

静かになりきれない空気を吸い込んだ。


もう、戻れない。

そう思ったとき、

不思議と後悔はなかった。


これは、

あの春に選べなかった行動の続きなのだから。


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後悔だけが私を大人にした。 涼風琉生 @Rui_Suzukaze

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